HIGHFLYERS/#13 Vol.2 | Sep 17, 2015

DJに憧れ、師匠に弟子入りした頃の自分に遡って

須永辰緒

Text: Kayako Takatsuna/ Photo: Atsuko Tanaka/ Cover Design: ess

Vol.2では、須永さんがDJを始めた30年前にタイムスリップ。幼少期の洋楽好きやDJに影響を受けた高校時代について、その後、「ツバキハウス」で師匠に弟子入りし学びつつ、週5日横浜に通い、見習いとして技術を教えてもらいながらDJの基礎を作り上げたことについて聞かせていただきました。まだDJとして生計を立てられず居候しながら、徐々にDJとしてのベースを築き上げていった80年代の頃のお話です。
PROFILE

DJ須永辰緒

須永辰緒によるソロ・ユニット含むDJ/プロデューサー。 DJとして東京、大阪でレギュラー・パーティーを主宰 。 DJプレイでは国内47都道府県を全て踏破。欧州からアジアまで海外公演も多数。MIX CDシリーズ『World Standard』は10作を数え、ライフ・ワークとも言うべきジャズ・コンピレーションアルバム 『須永辰緒の夜ジャズ』は15作以上を継続中。国内から海外レーベルのコンパイルCDも多数制作。多数のリミックス・ワークに加え自身のソロ・ユニット ”Sunaga t experience”としてアルバム4作を発表。多種コンピレーションの 監修やプロデュース・ワークス、海外リミックス作品含め関連する作品は延べ200作を超えた。また、大使館と連携し、北欧と日本をジャズで繋ぐ運動にも心血を注ぐ。さらには趣味のラーメン本の出版も手がける等、マルチで日本一忙しい”レコード番長”の動向を各業界が注目している。

http://sunaga-t.com

洋楽好きの少年がDJの基礎を築くまで

それではここで改めて、DJを目指すに至るまでのことをお聞きしたいのですが、まずどのような幼少期を過ごされたのでしょうか?

なんですかね〜、何もバックグラウンドがないんですよ。昔って、子供が見る娯楽番組あまりなかったから、テレビをあまり見なかったんですよね。外で遊ぶか、夜ラジオを聞くかで。ラジオの音楽番組が好きだったので、自然と洋楽派になって、小学生ですでに、洋楽番組のラジオのエアチェック(ラジオ番組を録音して聞くこと)してましたね。LPは高かったので、お小遣いで買える範囲の7インチのシングル盤を買い始めたのが、小4とか小5ですね。

一番初めに買ったLP盤はなんですか?

おそらく当時凄く人気あったベイ・シティー・ローラーズだったと思います。普通にポップスを。

一番初めにDJという存在に興味を持った時の事を憶えていますか?

高校時代に学校さぼって新宿のディスコに行っていたんです。当時新宿3丁目にあった「ツバキハウス」というお店が、未だに続いているLONDON NITEというイベントを始めた1982年頃で、自分の好きな音楽が圧倒的な音量で流れていました。田舎でラジオを聞いていた子供は知らないような洋楽ばかりの中で、DJを中心にして1000人くらいのお客さんが熱中して踊ってるんです。衝撃でした。そこで初めてDJっていう仕事に憧れ始めたっていうか。

ツバキハウスっていうのは主役がDJで、それに合わせて1000人が熱狂している感じなんですか?

はい、LONDON NITEっていうイベントに関しては完全にそうです。

他のディスコではDJって裏方でしたよね?

そうですね。喋っているDJがいた時代ですけど、子供ながらにどうにも痒い。DJミッキーとかいってお前日本人じゃん!みたいな(笑)。そういう痛い感覚は昔からあるんですよね。そんな中、LONDON NITEで「これかも!」ってガツーンときて。この頃ツバキハウスでワンナイトのDJをしていたのが、音楽評論家の大貫憲章さんや伊藤政則さんで。81か82年くらいですね。

そのころ既に先を見ていましたね。

それは分からないですけど、喋ってるDJが痛いのだけは分かった(笑)。

それでツバキハウスで、こういうDJがあったんだっていうのを知ってから、何かアクションとか起こされたんですか?

その時はまだ高校生だったので、そこのお客さんについていくのが精一杯ですよね。LONDON NITEだけじゃないんですけど、ツバキハウスに集まるお客さんは、 例えばバンタンだったり、モード学園だったり、文化服装学院や早稲田大学のロック研究会とか、将来の東京を背負っていくことになったよりすぐりのファッションエリート達がたくさんいたんですよ。さらに佐藤孝信さんや大川ひとみさんなど第一線で活躍するデザイナーがいつもVIPにいて、PLASTICSがいて、雑誌『宝島』で見たことがあるような業界人や取り巻きの人達がいて。「え、どうしてラウンジ•リザースがいるの?」みたいな。もう本当に華々しい世界だったんで。最低限そこのお客さんでいられるために、音楽の知識増やしたり、都内の輸入盤店でレコード買ったり、洋服買ったりするような高校時代でしたね。

DJの師匠のような存在の方はいらしたのですか?

当時はまだクラブがなくて、ディスコでDJになるしか道がない時代でした。まがりなりにもバイト代程度の給料が出るので、DJで収入を得るにはディスコのスタッフになるしかないんですね。そして、スタッフとしてDJになるには、DJの弟子になるしか道がなかった。ツバキハウスには、ロカビリーを中心にプレイするビリー北村さんという、後の師匠になるDJがいましたが、そんなDJになりたくて、毎日出待ちしつつ、「弟子にして下さい」ってお願いしました。ダメダメって全然取り付く島もなかったですけど、1週間平日も週末も毎日土下座してお願いして、しつこくしたら根負けしたんじゃないですかね。

最初はやはりカバン持ちからスタートでしたか?

そうですね〜、ブースを掃除したり、まだDJが誰もいない早い時間にお客さんが入って来ると、機材の扱いを何も教わってないのにスタッフから「DJいないからお前やっとけ」って突然言われたり。幸いセッティングだけ出来ていたんで、慌ててぱっとかけたら回転数違っていて(笑)。結局僕がその店で回せることはなかったですね。弟子にはなりましたけど、ツバキハウスはその時定員が一杯だったので他の店に回されました。84年ごろですかね。僕の古い話は、デフジャムでビースティーボーイズがデビューしたか、Run-D.M.C.のアルバムかみたいな時間軸になるんですよ。割とそこ自分の中で大事で、その前後にどうだったかで話を思い出すんですよね。

ツバキハウスの弟子っていうのは何年くらい続いたんですか?

しばらく続きましたけど、他の店でバーテンダー兼DJみたいなことをさせられたり、ちゃんとDJだけに専念したり、並行していろいろやりました。DJって組合があって、ハコ同士が横で繋がってるんですよ。どこかのハコに空きがあると、ヘルプ制度で若いDJが派遣されるんです。その時は横浜に行かされて、全然好きじゃない、昔でいうブラコンをよくかけさせられました。それで休みの時は必ずまたツバキハウスの師匠のところに行って、ロックを浴びてリフレッシュして、またズブズブなブラックミュージックの世界に戻るみたいな(笑)。そこは全くお客さんのいない店でしたけど、その分DJする時間がたくさんあって、徹底的に予習復習をさせられたので、DJの基礎を作ることができました。技術を磨くのに、今だったらターンテーブルなど機材買って、家で一生懸命練習するしかないですけど、昔はそうやって教えてくれる人もいたので、現場があったのはすごくありがたかったです。

現場で一番自分のやりたい音楽じゃないにしても、そこで実践を積んで、、

そう、段々そこからステップアップしていくんですね。

師匠から一番学んだことや影響されたことはありますか?

お酒ですね(笑)クールスとかキャロルの世界なので、リアル体育会系。自分も幼少期に空手をやっていて元々体育会系なので、その世界は得意です。尋常じゃない量のお酒を飲みましたね。技術は教わってないんですよ、正直。見て盗むしかない。

色んなお店を転々としながらも、DJで生活は出来ていたんですね?

出来ないですよ。横浜の時代は給料もらってないです。あくまでも見習いとして、技術を教えてもらっている身分なので給料は無し。それなのに、夕方4時から朝方4時までびっちり12時間、週5で。バイトも出来ないし、友達の家に居候したり、ちょっと恵んでもらったり、そういうのが半年以上続きましたね。そろそろ本当に辛くて音を上げていたら、先輩DJの助けで青山にある店に移ることが出来て、そこから給料が出るようになりました。

友達におねだりする術みたいのは心得てたんですか?

いや、ないですよ。冷蔵庫に入ってるもの勝手に食っちゃいます(笑)。そこは皆で居候してる家なので、大勢入り浸ってる。正確にいうと、誰が住んでいるのか分からないくらい入り乱れていて。原宿だったり笹塚だったり、いくつか色々入れそうな所に電話して、「今日泊れる?」って。

もし若者が須永さんに弟子にして下さいって言ってきたら、どうします?

絶対いやですよ(笑)。めんどくさいもん。

土下座されても無理?

だめ。というか、教えられることがないんですよね。慕ってもらえるのはいいんだけど、それに見合った対価が支払えないような気がするんですよ、DJって。まあレコードくらいあげますよ、かわいい弟子がいたらレコードくらいはあげますけど、センスだけはどうしても。。本人次第なので。

次回へ続く

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