店の売上げまで考慮した、起承転結のドラマ作りを
DJとして徐々にステップアップして行く中で、「俺はDJとして食べていけるんだ!」と感じる瞬間はありましたか?
青山のTOKIOというディスコに入ってから約1年後の1985年頃に、初めてメインの時間をやらせてもらってから、頻繁にやるようになって、何となく修行期間は終わったのかな〜って手応えはありましたけど。それでもまだ「DJ=水商売のお兄ちゃん」っていう認識は変わりないですからね。まだDJ目当てにお客さんが来る世の中ではなかったですね。
その後、誰もが憧れるDJになるまで、何が一番大きく変遷していきましたか?
何軒かを渡り歩いた後、92年頃に移った原宿の「モンクベリーズ」という店が、音楽業界人のたまり場のようなところで。大師匠のヤン富田さん、ツバキハウス時代からの藤原ヒロシくん、高木完ちゃん、元PLASTICS、MELONや後のMUTE BEATの方々が出入りする伝説の店でした。そこで音楽的に色々繋がりが出来て、お客さんや師匠筋に徹底的に自分の音楽性が鍛えられました。青山のTOKIOに居た87年頃からロックよりヒップホップの方が好きになって、ヒップホップとかレア・グルーヴを徹底的に実践して、更に日本でもトップクラスの音楽的な才能を持った人や、音楽センス、嗅覚を持った人達の薫陶を受けましたね。今までの経験も含め様々なものがそこで研ぎ澄まされて、自分のDJスタイルが何となく見えてきました。
鍛えられるとは、具体的にどういうことですか?
独りよがりな音楽嗜好になりがちなところを、お客さんによって段々角を取られてくというか、感覚的に分かるんですよね。今まで知らなかった分野の音楽を吸収出来たり、自分なりの方法論だったりと、枝葉も含めた一本の木が何となく見えたんです。今まではお客さんのリクエストや先輩からの指示でDJして、それさえ守ってれば、そこそこ盛り上がっていたんですけど、ようやく自分で自分のカラーが選曲に見えてきた。遡ると、ただの音楽好きリスナーの延長から水商売のお兄ちゃんになり、やっとDJとして進めるのかなって道が見えてきたんです。
自分で自分のカラーが分かるとはどういう感じですか?
例えば、相撲の世界でも最初は稽古、稽古、稽古でしょ。足腰鍛えたり、ご飯食べたり、礼儀や付き人のやること教わったり、それが段々上がっていくと、教わったことを完璧にできるだけではどうしても勝てない相手が出て来る。すると何をやったら勝てるのか見えてくるわけじゃないですか。そこで自分の得意技が分かってきますよね。例えば俺の右の引き手は武器になるなとか、そういうことだと思うんですよね。
音楽的な話で言うと、最初に感じた自分の武器はどういうものだったか覚えていますか?
起承転結のドラマ作りですね。修行時代に培った技術で、求心力に欠けた地味な曲でも上手く使って一本のドラマを見ているような選曲を作る自信があるんです。先輩もクスっと笑ってくれるような面白い選曲がオールジャンルで出来るようになって、他の曲を活かすための飛び道具みたいなのを使えるようになりましたね。キャンバスに真っ青な絵を描く時に、白をちょっと足すと青が光りますよね、そういう間合いみたいなものが見えてきた感じを憶えています。
そういうことができるのは、まさにストーリーテラーだと思うのですが、ドラマにする時、お客さんがどう感じるかを常に考えて作るのですか?
それは大前提です。お客さんに盛り上がってもらわないと話にならない。
どのあたりまで計算してドラマを作るのですか?
ホテルのラウンジやカフェなど、必ずしもダンスを求めていないDJの現場もあるので一概には言えないですが、踊る事中心のクラブでDJしていた頃は、100人いるフロアで5人の出し入れくらいは出来ました。盛り上げる時に全部盛り上げる曲かけたらお客さんが疲れちゃう。わざと100人マックスに持って行くために、フロアーを一回20人に落としてから、段々100人まで持っていきます。そこから一度20人くらいフロアーから追い出して、じわっと魅力ある曲をかけてそのまま横ばいにして、ポンっとあげてまた100人に持って行くとか。で、また100人持ってったとこで10人落とすとか、そういう計算しながらDJをしてます。お客さんがドリンクとかバーに行けるタイミングも作りますし。
今のDJとは全く観点が違いますね。飲食店の従業員という須永さんのDJとしての出自が、バーのことまで計算したドラマ作りに繋がるのでしょうね。
そうですね、ハコが盛り上がって長持ちしてもらうと、DJが活躍出来る現場が残るじゃないですか。店の売上げが上がらないとDJが入れないから、バーの売上って大事ですよ。売上げアップのためには、お客さんの滞在時間を長くしたほうがいい。3時間自分がDJする時は1時間のドラマを3回作るっていうのを目標にしてます。「今日良かったね、パチパチパチ」って途中で終わられるともう帰っちゃうんで、そこからは生殺し的なDJしなきゃいけない。寸止めの美学っていうやつです。寸止め日本一(笑)。さっきの皆で共有した感じ、もう一回来るかもってお客さんに期待させて、寸止め。で、またこうあげてって。
DJとしての一番の醍醐味は?
それじゃないですかね。寸止めを繰り返した後の大団円。みんなで“ワァ〜!!”って感じなんじゃないですかね。
そんな時に感動して泣いたことあります?
全くないですよ。俺が泣くのは、小さい動物が穴に挟まって、皆に救助される映像見た時とか(笑)テレビで。良かったな〜って(笑)。
今DJを目指している若い人達がこれからどうしていったら須永さんのようになれますか?どうしていったら近づけますか?
今の世の中、情報がもの凄く溢れてて、どこでも作品を発表出来るチャンスがあるじゃないですか。色んな媒体で自分の作品を見聞きしてもらってガツガツすればいいんですよ。
どんどん披露して?
レコードやCD制作はすごい予算が必ずかかるので、今後そういうシステムはなくなると思うんです。AWAとiTunesみたいな黒船が来ているので、この先、音楽の聞き方が大きく変わってくるとも思うんです。僕がラジオをカセットテープに録音していた時期とは違うわけですから、頑張れば何とかDJになれたって時代ではもうない。そこで技術とセンスが勝負になってくると思うので、逆に言うと今、技術とセンスがある人は世界に出れますよ。だから英語を勉強しておいた方がいいですよ。英語とハングルとポルトガル語が出来たら世界中行けますよ。ポルトガル語は使用している人口が多いし、ポルトガル語圏にクラブが多い。韓国も需要あるわりにDJ少ないし。今後のマーケットを考えるとヒンディー語も勉強しておくといい。技術とセンスがあるのなら、コミュニケーション次第で世界にいくらでも出て行けますよ。
その技術とセンスはどうやって磨けばいいんですか?
現場に出かけていって一流DJを体感するというのが一番。踊ることも大事ですよ。そしてDJのプロセス、音楽の組み立てを徹底的に分析してロジックを解き明かし、自分なりのセンスにどれだけコミットできるかですね。踏まえて全く違う発想で音楽を組み立てていくのもいいかもしれない。将来的にはDJという発想すらひっくり返して欲しい。今僕は、DJっていうよりはキュレーターっていう発想でDJしてますけど、需要は必ずそこにもあります。コンシェルジュとして皆さんに音楽を紹介しますよっていう立場で、音楽を聞かせてあげるスタイル。
世界の感覚は近づいているのですかね?
とっくに近づいていて、めちゃくちゃグローバルです。ドメスティック、邦楽の感覚だけでは既にやっていけない。みんな世界を向いてます。機材も含めて。マーケティングはワールドワイドだから、マーケットが広がったと考えればいいんですよ。世界で勝負するっていう前提じゃなくて、ワールドワイドで勝負する。DJも年間何十億、1ギグで数千万稼ぐ人もいる。それがいいかどうかは別として、DJはお金を稼げる仕事ではある。セレブDJもたくさんいます。そういう方面を目指すのもいいし、でも僕のように徹底的にアンダーグラウンドな方向を目指すのもOK。
現在メルマガを通じてDJになりたい若者とのやりとりをしているそうですが、どういった質問が多いですか?
DJやりたいけどどうやって始めたらいいのか分からない、どうしたらイベントが出来るようになるか、など素朴な疑問が毎回寄せられます。キュレーションもしてますけど、教わらなくてもiTunesに誰かの選曲リストがあるわけですよね。手のうちは全部教えてないけど、そこから裏を読むんです。裏を読んでいくと、この人のDJって本質はこうなんだなっていうのがわかってくるので。僕なんかレコード買って、自分で失敗しないと曲を覚えなかったけど、今は視聴も出来て、たかが100円、200円くらいでしょ。それパソコンにためておけるわけですよね。その代わり皆同じこと出来るから、ここから世界に出てのし上がっていくのは逆に言うと大変です。僕らはただ努力を重ねれば何とかなる世代だったので。
やっぱりレコードは一生涯こだわっていきそうですか?
僕はもうずっとレコードで来ちゃってるんで、このままレコードで。レコードジャケットを持った感じが好きなんですよ。音は関係ないんです。今からデジタルなPCDJに転向するのはちょっと面倒臭いというだけなんですが(笑)。
次回へ続く