SPECIAL
#17 | Nov 27, 2019

タイにヒップホップカルチャーを根付かせ、デフジャム・タイを一任されたラッパーが語るヒップホップシーンの変化と未来の展望

Interview, Text & Photo: Atsuko Tanaka

各々のフィールドで専門性を極め、グローバルな視点と感性を持って、さらなる高みを目指す海外のアーティストやビジネスパーソンなどをインタビューするコーナー「INLYTE(インライト)」。第16回目はアメリカ出身でタイ人のラッパー、DaBoyWay(ダボーイウェイ)の登場。タイのヒップホップシーンを築き上げたグループ、Thaitanium(タイタニアム)の元メンバーであり、デビュー以来19年間インディペンデントで活躍してきた彼だったが、今年の5月にデフジャム・タイ最初のアーティストとしてメジャー契約し、話題をさらった。
PROFILE

ラッパーダボーイウェイ / DaBoyWay

ニューヨーク出身。タイのヒップホップシーンを築いたグループ‘Thaitanium’のメンバーとして17年間活動し、多くのヒットを出した。ウェイが経営するバーバーショップ「NeverSayCutz」は、ストリートカルチャーのハブとして、若者の人気を集め、現在タイに24もの店舗を構える。今年タイのデフジャムと契約を交わし、最初のアーティストとして8月にシングルをリリース。若手ラッパーの発掘にも力を入れている。

アメリカのヒップホップサウンドをタイに持ち込み、大ヒット。元レーサーとビジネスを築き、結婚を機にタイに移住

アメリカで育ったDaBoyWay(以降ウェイ)がヒップホップに出会うのに特に大きな理由はない。小さい頃から周りのみんなが聴いていたからだ。両親の都合でアメリカの色々な街を転々とし、ウェイが自身のルーツであるタイに住んだのは16歳の時。慣れない環境の元、言葉もろくに話せず、当時はタイが嫌いだったと言う。

その後19歳の時に、大学で演技を学ぶためニューヨークに戻ったウェイ。タイで知り合ったタイ人のヒップホッププロデューサー、Khan(カン)らと曲作りをするようになる。のちにAAというグループを結成して、タイでショーを行い人気を得た。メンバーが変更になったのをきっかけにグループ名をThaitanium(タイタニアム)に変え、2002年にEP「Thai Rhiders」をリリース。その後、「Province 77 」(サウンドトラック/2003年)、セカンドアルバム「R.A.S. (Resisting Against da System)」 (2004年)を自分たちのレーベルから出し、人気度は増すも十分な稼ぎを得られずグループ解散を考えていた。しかし、4枚目のアルバム「Thailand’s Most Wanted」 (2006年)が爆発的にヒットを遂げ、タイに大きなヒップホップ旋風を巻き起こした。

 

その後も「Flipside」 (2008年)や 「Still Resisting」 (2010年)、「Thaitanium 」(2014年)、「16 Years」 (2016年)など何枚ものアルバムを出し、タイのヒップホップの頂点に上り詰める。(*今年の10月に、ウェイは自身のインスタグラムでタイタニアムを脱退したと発表)2015年頃からはソロ活動も始め、今年、タイのデフジャムの第一号アーティストとして「GANGSH!T」を8月にリリース。また、同レーベルでマネージングディレクターに就任した。今後は自身の活動以外に、新しいアーティストの発掘にも力を入れていくそうだ。

プライベートにおいては、元F3レーサー/ラジオDJで、現在はタレントとして活躍している妻、Nana(ナナ)と出会ったことで、2009年にタイのバンコクに拠点を移した。可愛い双子の子供がおり、セレブファミリーとしても世間の注目を集めている。また、妻との共同経営で2008年にオープンした人気バーバーショップ「NeverSayCutz(ネヴァーセイカッツ)」は、現在タイに24店舗を構えるまでに拡大した。

タイにアメリカのヒップホップを持ち込み、シーンを築いてきたウェイに、幼少期の頃、タイタニアムが与えた影響やヒップホップシーンの変化、自身の今後の夢などを聞いた。

今、タイのヒップホップシーンはサードウェーブが来てる。俺らがアメリカから持ち込んだサウンドがこの土地に根付いて、オリジナルなサウンドが生まれてる

―まず初めに、生まれ育った場所など、バックグラウンドを少し聞かせていただけますか?

タイアメリカンの第一世代としてニュージャージーのパターソンで生まれて、ニューヨークのブルックリンで5歳くらいまで育った。その後またニュージャージーに戻って、それからペンシルバニア、フロリダのジャクソンビルに住んで、16歳の時にタイに2年半ほど住んだんだ。そして19歳でまたニューヨークに戻って、大学で演技を学んだ。

―小さい頃からあちこちを転々とされていたんですね。どんな子供でしたか?

外で遊ぶのが好きだったね。野球や陸上とかのスポーツをしたり、冒険するのが好きだった。兄貴がいるけど、俺とは正反対の性格で、あまり仲良くなかったから一人っ子のような気分だったよ。あとは色々想像するのが好きだったな。俳優になりたかったから、自分を何かの役に落とし込んで架空の世界を想像して楽しむなんてことをしてた。それとファッションも好きで、自分で貯めたお小遣いとお母さんから借りたお金で飴やチョコレートを買って、学校で売って稼いだお金で洋服を買ってたよ。

―さすがニューヨーカーですね。ところで、音楽はどんなものを聴いてましたか?

ヒップホップだね。周りのみんなが聴いてたから。LL クールJ、クリス・クロス、ドレー、スヌープとか、バニラ・アイスやMCハマーも当時流行っていたから聴いてたよ。

 

―何か楽器を習ったりとかは?

ピアノを習ったこともあったけど、練習が嫌で3年くらいしか続かなかった。

―好きなアーティストは誰ですか?

Jay-Z。彼のスタイル、ビジネスのやり方、全てにおいてね。今でも大ファンだよ。

―彼に会ったことはありますか?

ないね。彼がタイでライブをした時、タイタニアムがオープニングを務めたけど、会えなかった。

―タイタニアムについてお聞きしたいですが、どうやってクルーが結成されたのか教えてください。

カン( Khan)のことはタイにいた時に出会って知っていた。当時彼はサンフランシスコに住んでいたんだけど、デイ(Day)と一緒にニューヨークに引っ越してくると聞いて会うことになった。そのうち、カンがクイーンズのスタジオで働き始めて、デイと俺は誰もスタジオを使ってない時に行って、みんなで曲を作るようになったんだ。最初は自分たちが楽しむために作ってたけど、99年にタイに行った時にショーをやったら、みんなに曲を欲しいと言われて、8曲くらいをまとめたEPを作った。最初は1000枚くらい作って、それが5000枚、1万枚と増えていって、これはイケると思って、ウエブサイトを作ってファンと交流できる場を設けた。

 

その頃からグループ名をタイタニアムとして活動していたのですか?

当初はAAという名前のグループで、メンバーは俺ら3人とJ-Rocというラッパーを入れた4人だったんだけど、J-Rocがニューヨークに戻ってこれなくなって、3人で新たにタイタニアムとしてやることになった。その後、ファーストアルバム「Thai Rhiders」を出して、その後もプロジェクトがあるごとにタイに行って、1ヶ月くらい滞在して宣伝活動をして、またニューヨークに戻って曲を作って、っていうのを繰り返していた。7年の間にサウンドトラックを含めた3枚のアルバムと6つのミックステープを出したよ。

人気は出たけど、曲やミュージックビデオの製作費とタイとアメリカを行き来するくらいのお金しか稼げなかったから、次のアルバムを出したらそろそろグループとしての活動は終わりにしようなんて話をしてたんだ。俺は演技もやりたかったしね。そうして2006年に4枚目のアルバム「Thailand’s Most Wanted 」を出したら、すごいヒットして。そのアルバムで2009年まで3年かけてツアーをした。1日に3つのショーをやったこともあったね。

 

―なんでそんなにヒットしたんだと思いますか?

1枚目(Thai Rhiders)を出した時は、タイのみんなはそれまで聴いたことのない新しいサウンドに刺激を受けてるって感じだった。その頃タイにはヒップホップシーンが全くなかったからね。その後、2枚目を出す時に、ソニーとディストリビューションの契約をして、もっとたくさんのショーをやるようになったんだけど、当時僕らがニューヨークを拠点にしてたのも人気が出た理由の一つかもしれない。ニューヨークからタイに来て、シーンをバーっと盛り上げて、嵐のように去っていくから、みんなが「あいつらどこに行った!?」って騒ぐようになった。

―ニューヨークで活動しようとは思わなかったんですか?

ニューヨークやシカゴとかでもショーをやったりはしたよ。まあなんというか、タイにいる時は夢を生きてる感じで、ニューヨークに帰ると現実に戻って仕事をするって感じだった。でも当時はまさか将来自分がタイに住むなんて思ってもいなかった。16歳でタイに住んだ時はタイが嫌いだったんだ。今はタイ語をちゃんと話せるけど、当時は喋れなかったし。

 

―タイに住もうと思ったのは何かきっかけがあったんですか?

最初のアルバムを出した頃は、ツアーで稼いだお金を全部遊びに使っていたけど、ナナ(ウェイの妻)に出会って、一緒にビジネスを始めたり、家を買ったりして、そろそろタイに落ち着いてもいいかなと思って。ナナと初めて会ったのは、彼女のラジオ番組に出演した時。ナナは元F3のプロレーサーとして既にすごく成功していた。のちに俺たちは付き合うようになって、俺はそれまでに貯めたお金で何かビジネスをしたいと相談したんだ。それで一緒にバーバーショップ(Never Say Cutz)を開くことにした。その後一緒に家を買って、2010年に結婚したんだ。

―なるほど、そうだったんですね。ところで、ウェイさんはタイのヒップホップシーンを築いてきたわけですが、今はシーンはどんな感じですか?

クレイジーだよ。今、タイのヒップホップシーンはサードウェーブが起きてるって感じだね。最初の波は、2000年に俺らタイタニアムがタイに来た時。その次は、2006年に俺らの4枚目のアルバム「Thailand’s Most Wanted」が大ヒットした時。それから、ここ2年くらいで一般の人にも浸透して、今タイではヒップホップが一番人気な音楽だよ。「Show me the money」というテレビの人気番組もある。まあ今って世界的に見ても、どこもヒップホップな時代だよね。俺らはアメリカのサウンドをタイに持ってきたわけだけど、今はそれがこの土地に根付いて、それぞれのアーティストたちがオリジナルなサウンドを生み出している。

 

―では、世界的に見て、ヒップホップシーンはどのように変わったと思いますか?

すごい変わったし、新しいのが入っては消えてって、変わるサイクルも早いね。それはいいことでもあるし、悪いことでもあると思う。でもヒップホップが生まれて50年くらい経つし、過去には戻れないわけだから先に進むしかない。世界のいろんなところでムーブメントが起こっていて、それぞれの土地でシーンが生まれているよね。この前インドのラッパーと話したけど、向こうも同じで、アメリカのサウンドがインドに持ち込まれて、そこからローカライズされていろんなスタイルが生まれてるみたいだよ。

―ウェイさんはタイのデフジャムの第一号アーティストとして、今年の8月にシングル「GANGSH!T」をリリースされましたが、いつ、どのような経緯でデフジャムに所属することになったのですか?

タイタニアム以外でも、ここ4、5年はソロとしても曲を作っていたんだ。アーティストとして、ある程度の成功は掴んだけど、その先はどうしたらいいのか、いつも悩んでいた。それでレコード会社の人とかに相談したら、彼らに俺自身はどうしたいのかを聞かれて、自分の目標を書き出したんだ。

その後、俺のことをずっとサポートしてきてくれた友人がユニバーサルのヘッドマネージングディレクターに昇格して、彼と一緒に事業をしたいと言ったら、タイのデフジャムのマネージングディレクターにならないかと声をかけてくれた。ビジネスを学べるし、ソロのアーティストとしてやっていくにもいいチャンスだと思ってね。これからは自分の活動以外にも新しいアーティストの発掘にも力を入れていくよ。近いうち二人のアーティストをサインする予定だから楽しみにしてて欲しい。

 

―それは楽しみです!ところで、曲を作る時はどのように作りますか?リリックを書き留めておくタイプですか?

やり方は昔と比べて大分変わったね。昔はまずノートに書いてたけど、ここ4、5年は、マイクの前に行って、音楽を聴いて、その場で思いつくことをラップするのが多くなった。頭の中でコンセプトを固めて頭に浮かんでくる言葉を覚えておいて、いい音に出会った時にそれを出す。もちろん今でも書いておくこともたまにはあるけどね。

―自分でプロデュースもするんですか?

俺はローテックな人間なんだ(笑)。指示はできるけど、プロデュースはしない。

ーそれでは、ウェイさんが経営する人気のバーバーショップ「NeverSayCutz」について聞かせてください。なぜバーバーショップをやろうと思ったのですか?

20万ドルくらい貯めた資金で、何かビジネスをしたいと思っていたんだ。タイタニアムのメンバーはクラブをやろうって言ったけど、俺はあんまり混み合ったところが好きじゃないからクラブはやりたくないと思って、何ができるか考えた。それでバンコクにはいいバーバーショップがないことに気づいて。そうしたら、当時いつも行っていた近所のバーバーショップが閉店することになって、いつも髪をカットしてもらってたバーバーの友人が、バーバーショップをオープンしてくれないかって相談してきたんだ。それでナナと話して、2008年に初店舗をオープンした。今ではタイに24店舗あるよ。

 

―10月に展開した、NeverSayCutzとLafayette(ラフィエット)とのコラボはどのような経緯ですることになったんですか?

彼らはずっとタイタニアムのサポートをしてきてくれて、付き合いはもう11年くらいになる。前は俺も自分のブランドをやっていたんだけど、いろんなことをやりすぎて、全てが中途半端になってたからやめたんだ。それでブランドとしてフルラインを揃えることなく、かっこよく見せるにはどうしたらいいかを考えて、コラボすれば良いんだと思って。俺はEsow(グラフィティアーティスト)のファンだったから、ラフィエットのオーナーに彼とのコラボができないか聞いて、ポップアップをやろうって提案したんだ。

―なるほど。では、ここからはプライベートなことについて聞かせてください。普段はどんな毎日を送ってますか?

毎日働いてるよ。俺は仕事するのが好きなんだ。朝起きて、疲れてなければワークアウトして、それからオフィスに行って仕事してるよ。あとはスタジオだね。いつも家とオフィスとスタジオを行き来してる。

―奥様と可愛いお子さんの写真をよくインスタにアップされてますが、家族はあなたにとってどんな存在ですか?

家族が全てだね。子供は男女の双子で、名前はブルックリンガイとビーナって言うんだ。

 

妻のナナと双子の子供たちと一緒に

―ブルックリンガイ(Brooklynguy、ブルックリンの男性という意味)?面白い名前ですね!

俺の父親の名前がガイなんだけど、俺の家族はブルックリン出身だから、ブルックリンガイにしたんだ。子供たちとは毎日夕方の5時から8時まで一緒に過ごして、寝かしつけるのが俺の役目だよ。彼らが生まれてから僕のライフスタイルは変わって、ツアー中違う都市にいても、泊まらずに必ず家に戻るんだ。

―タイの人たちは家族と距離が近い人が多いですか?

うーん、そうとは言えないかもしれないけど、僕は父親であることを誇りに思っているし、若い子たちへの良い例になればいいなと思ってる。誰も俺が結婚するとは思ってなかったと思うけど、29歳で結婚して以来、俺もナナも、職業柄常に世間から見られている。でも何も隠さずオープンにしてリアルでいるようにしてるよ。子供たちにもそういった姿を見せたいし、結果、俺のキャリア的にもいい風に影響していると思う。

―それではバンコクに来たら、行くべきウェイさんオススメの場所を教えてください。

レストランだったら「Laem Charoen Seafood」。タイにはいろんな種類の食があるけど、シーフードが好きならここは最高だよ。あと、髪の毛を切るなら「Never Say Cutz」だね(笑)。クラブやバーはトンローやエカマイ、スクンビットにいいのが集まってる。

 

―これまで日本にはどのくらい来てるんですか?日本のどんなところが好きで、いつも日本に来た時はどんなことをしてますか?

日本には20回くらい来てるかな。最初に来たのは2004年、ビースティーがサマソニでパフォーマンスした年だね。日本は、人、食べ物、ショッピングしたりしてる。東京以外も、これまでに横浜、横須賀、山形の蔵王、札幌とかにも仕事で行ったことがある。みんないつもホームのように温かく迎え入れてくれて、本当にありがたいね。

―それでは、世界で変わったらいいなと思うことはありますか?

平和になってほしい。みんなが愛の心を持って、世界がいいエネルギーといいバイブで包まれるといいなと思う。

―ウェイさんにとって成功とはなんですか?

家族を養うことだね。彼らをサポートして、子供たちが大人になった時に良い人間になれるように、俺がいなくても自分でちゃんと生きていけるように色々教えていきたいと思う。

―最後に、今後叶えたい夢を教えてください。

たくさんあるよ。タイと東南アジアのデフジャムを大きくさせること、今までの経験で培ってきたことを活かして、次世代のアーティストを育てていくこと、そして俺たちがタイに持ってきたヒップホップカルチャーが育っていくのを見届けたい。あとは家族が健康で幸せであって欲しいね。それらが全て叶ったら、どこか遠いところに行って、自分の畑で野菜とかを育てながら、スタジオで音楽を作ってたいな。

DaBoyWay Official Info Information