HIGHFLYERS/#60 Vol.1 | Oct 7, 2023

悩みや葛藤、幾度もの試行錯誤を経て生まれたテーマ「共存」。行動力でチャンスを掴み、自身の夢を実現したアーティスト

Text & Photo: Atsuko Tanaka

HIGHFLYERS 第60回目のゲストは、アーティストのDragon76さん。滋賀県で生まれ育ったDragonさんは、子供の頃から絵を描くのが好きだった。学生時代はスケートボードや音楽に夢中になるも、卒業後はアートの専門学校へ進学。そこで出会った仲間たちに刺激を受け、本気でアーティストを目指すようになる。時を経て日本での活動も順調になったが、海外で活動する夢を諦めきれずに20016年にニューヨークへ移住。その後は、いくつもの幸運な機会に恵まれ、彼の名は瞬く間にストリートアート界で知れ渡っていった。先日渋谷パルコ「Calif」での個展で来日していたDragonさんにインタビューし、幼少期の頃から学生時代、アーティストを目指してからの道や、海外での活動において転機となった出来事などを聞いた。
PROFILE

アーティスト Dragon76

1976年滋賀県生まれ 1994年よりアーティスト活動を開始。ストリートアートを基本とし2016年より拠点をニューヨークに移し壁画アーティストとして活動。 そのスタイルは常に進化し、過去と未来や、静と動、正義と悪など、相反するものの共存をテーマに作品を生み出している。 手がけた壁画の最大のサイズは2021年にテキサスのヒューストンにて国連からの依頼で描いた76m×20m。アメリカ全土に37ヵ所制作。 また、自身のアイデンティティーでもある日本の伝統的な侍を現代風にアップデートしたオリジナルキャラクター”DR76”のフィギュアは発売開始から数分で完売する人気を得る。


―小さい頃は、どんな子供でしたか?

絵を描くのがとにかく好きでした。「ドラゴンボール」とか「ジョジョの奇妙な冒険」などのバトルものや、「ガンダム」「ボトムズ」「マクロス」とかロボットものの漫画やアニメが大好きで、それに出てくるキャラクターとか、出てきそうなキャラクターを自分で想像して描いたりしてました。

 

―ご両親はどんな方で、どんな育てられ方をしましたか?

父親はサラリーマンで母親は銀行員で、二人とも仕事が忙しくて家に帰ってくるのが遅かったので、おばあちゃんと一緒に過ごすことが多かったです。いつも僕の妹とおばあちゃんと、3人で晩御飯を食べたりとかしてました。おばあちゃんはすごく穏やかな、優しい人でした。

 

 

―小さい頃になりたかったものはありますか?

小学3年の頃からサッカーを始めたので、当時はサッカー選手になりたいと思ってました。それもアニメの影響で、「キャプテン翼」とかを見て。でも絵も描き続けてました。ひたすら鉛筆で描いて、いつも手の横が真っ黒になるくらい。授業中もノートの端っことかに自分の好きなキャラクターを描いたりして。

 

―中学、高校の頃はどんな学生生活を?

中学の時に仲間たちとスケボーをやるようになって、その延長でスケートカルチャーに近いパンクとかハードコアの音楽を聴くようになりました。その後高1でバンドを始めた影響で、バンドのCDジャケットに描かれてるような絵とか、スケートブランドのTシャツに描かれてるグラフィックを描くようになって。バンドはSICK OF IT ALLとかMINOR THREAT、MADBALL、Biohazardだったり、ブランドで言うと、「SANTA CRUZ」や「Dogtown」、「zorlac」とか。そういうのを真似したりそれっぽいやつを描いてました。

 

 ―その頃、将来なりたいものはありました?

何も考えず、毎日楽しく絵を描いたり、スケートやバンドをやりながら仕事できたらいいなくらいで、特にこれになりたいっていうのはなかったですね。どっちかと言うと、絵よりはバンドの方を一生懸命やってた感じで、絵はひたすら好きで自然に描いてしまうというか、ペンと紙は常に近くにある状態でしたけど、これで生きていこうとかは思ってなかったです。

 

 

―でも、高校卒業後の進路は音楽ではなく絵の方に行ったんですね。

まず滋賀から都会の大阪に出たいっていうのがあったのと、やってて楽しいと思うことがアートだったんで、絵の専門学校を選びました。それに音楽は習うものじゃないと思っていたし、専門に行って、その延長でデザインをやったり絵に関わる仕事をしつつ、バンドできるかもって考えて。だけど、学校で本気でアートを志している人たちと出会って、仲良くなったやつの描く絵がかっこ良くてめちゃ衝撃を受けたんです。みんなが本気でアートに向き合っている姿を見て、自分ももっとかっこいい絵を描きたいと思って、競ってスキルを磨こうと頑張るようになりました。

 

―専門を卒業後はしばらく大阪で活動をされていたんですか?

はい、この頃は大阪でハードコアやヒップホップのイベント等のフライヤーを依頼されてよく描いていました。そのフライヤーが街中に貼られて、それを見た人からまた別のフライヤーの依頼が来るという感じで。この頃から、それらのイベントに出演したバンドやアーティストからCDのジャケットを描くことも増えていきました。

 

Dragonさんの作品には、コンセプトとして「共存」が軸にあるとのことですが、それはいつ頃どのようにして生まれたのですか?

2003年に大阪から横浜に引っ越したんですけど、その頃から自分の名前を売るためにクラブにライブペインティングをさせて欲しいとお願いしに行って、ライブペインティングをやるようになったんです。それで音楽系の繋がりが増えて、現場で知り合ったアーティストからCDのジャケットを描いて欲しいと依頼されるようになりました。ジャム系とかレゲエ系の自然を歌うようなバンドが多くて、自分の絵のスタイルの魅力もそういうところにあると思ったので、自然や人の共存を描くようになって、それをメインテーマにしていこうと思ったのが始まりですね。

 

日本で活動していた頃に描いていたライブペインティングと作品

 

―自然の流れで行き着いたんですね。

そのうち、共存っていろんな大きな意味があるって思って、描くスタイルがだんだんと変わっていったんですけど、ニューヨークに行く時に、自分の軸となるコンセプトやテーマが必要だと思って自分の作品を振り返ったら、やっぱり共存だと思いました。あとはウロボロス。ギリシャの昔の言葉で、竜とか蛇が自分の尻尾を咥えて円になってる姿をそう呼ぶんですけど、終わりと始まりが繋がって、輪廻転生とか、いろんなことが輪になって繋がっているという意味があるんで、それも使うようになって、だんだんと自分のコンセプトを確立していった感じです。

 

―横浜に移ってから、ライブペインティングやジャケット制作以外にはどんな活動をされていたんですか?

結婚して子供も一人いたから稼がないといけないんで、JEEPやPUMA、JRAなどの広告、Liverpool FCのプロモーションビデオに使う絵など、企業との仕事もやってました。向こうからオファーが来ることもあれば、自分からメールを送ったり。SNSは当時まだなかったんで、いつもポートフォリオを持ち歩いて、重要な人に会ったらすぐに渡せるように準備するなど、いろいろ考えてやってました。

 

企業向けに描いた作品

 

海外に行こうと意識し出したのはいつ頃だったんですか?

最初に思ったのは高校生の頃ですね。具体的にではないですけど、スケボーとかバンドをやってニューヨークのカルチャーにすごく影響を受けて、最高にかっこいい街だと思っていたんで、ぼんやりといつかニューヨークで成功したいなと思ってました。その後、専門学校で知り合った今の奥さんと、99年くらいにニューヨークに初めて行って、当時自分の中で一番自信のあった絵に自分の連絡先を載せて、ソーホーとかで会ったかっこいい人に渡したり、お店に置いてもらったりとかして、とにかく配りまくりました。結局連絡は一つもなかったですけど、奥さんと「いつかここで成功しよう」って誓い合って。

 

―いや、その行動力がすごいです!それで本格的に拠点を移そうと思ったんですか?

僕も奥さんも、いつかとは思ってはいたけど、結局ビザを取るとかには至らず。そのうち日本での活動が軌道に乗って、環境が整っていったんで、だんだんニューヨークへの思いが薄れていきました。だけど、その後SNSが発達して、インスタとかを通して海外のアート事情が入ってくるようになると、自分がやってることとのレベルの差に愕然として。いつかは世界で評価されるアーティストになりたいと思っていたし、日本でこのままやっていてもその差を埋めることは多分できないと、年齢も40手前でしたし、今行動に移さなかったらその先ないと思いました。それで奥さんに相談したら同じことを思ってたみたいで、じゃあすぐに本気で行く準備をしようってなって。とても気に入ってた家も売って、ビザの取得をして、2016年にニューヨークに行きました。

 

実際に住んでみてどうでしたか?

うちの家族は誰も英語を話せないし、繋がりも何もなかったので、まず英語に困りましたね。2週間ゲストハウスに滞在していた間に住む家を決めて、そこから生活がスタートしました。最初の1年くらいは仕事がなくても食べていけるくらいの貯金はありましたけど、そのお金が底をつくか、自分の活動が軌道に乗るか、どちらが先かの勝負でした。

 

 

―英語はどうやって勉強したんですか?

英語は勉強しようとは思いつつも、人とのつながりも作りたかったので、アート関連の友達を作るために、何かイベントがあれば行って、自分のインスタを見せたりして、色々行ってるうちに徐々に友達ができ始めて。なのでしっかりとした勉強は全然してないです。

 

―活動の方はどのようにして軌道に乗っていきましたか?

ニューヨークに住み始めて2ヶ月頃、友達がマイアミで開催されてるアートバーゼルに一緒に行こうって誘ってくれて行ったんです。ウィンウッドっていう街の、すごくロケーションのいい所に壁を持ってる人に交渉して、描けることになりました。そこに描いたのをきっかけに、インスタを中心に名前がめっちゃ知れ渡るようになって、いろんなフェスティバルの壁画とかも呼ばれるようになったんです。

 

ウィンウッドに描いた壁画

 

―めちゃめちゃラッキーですね!

アメリカの最初の1年とかは、いろんなラッキーが続いてすごく運が良かった。他も、ライブペインティングをさせてくれってポートフォリオを持って行って、一個やらせてくれることになった時のお客さんで絵を気に入ってくれた人がいて、その人の彼氏が新しい壁画のプロジェクトをやるっていうのでそこで描くことになったんですけど、それがワールドトレードセンターの壁画だったんです。

 

―となると、転機となった出来事を挙げるとしたらマイアミで壁画を描いたことと、そのライブペインティングですか?

そうですね、まずはウィンウッドの壁画を描いたことで広がり、そしてワールドトレードセンターの壁画を描いたことはニューヨークでの活動においては一番のターニングポイントになりました。その壁画をワールドトレードセンター側がとても気に入ってくれて、ワールドトレードセンターのビルの中にスタジオを持てるようになりました。

 

上段:初めてワールドトレードセンターに描いた壁画 下段:ワールドトレードセンター内にあるスタジオ

 

―素晴らしいです。ドラゴンさんの絵は、夢と希望を感じる作品が多いですよね。

それは見る人によく言っていただけますね。感受性の強い方が多いんで、絵を見て泣いてる方もよくいます。

 

―ニューヨークで活動してみて、日本との違いを感じたことは何かありますか?

僕が感じたのは、日本で何かプロジェクトをやる時は、人との繋がりとか、どういう経緯でっていうのが大事とされるということです。アメリカでは、絵を気に入ってくれたらその場で次のプロジェクトに繋がる展開がすごく早くて、誰からの紹介とか、繋がりとかそれまでの経緯とかは関係なく、実力を認めてもらえたらすぐ次のチャンスに繋がります。一個大きなプロジェクトをやったことを噛み締める暇もなく、ポンと次の大きなプロジェクトに繋がったりするから、あまり言葉のハンデを感じることもないですね。1年くらいは英語を覚える期間と思っていたけど、そんな期間は設定する必要はないんやって、英語ができないことが全然ハンデにならないくらい実力社会なんで、すごくやりやすいです。

 

 

―ニューヨークには才能のあるアーティストが山ほどいますが、衝撃を受けたアーティストはいますか?

アートバーゼルに行って見た壁画の全部に衝撃を受けました。レベルが思っていたより何十倍もすごくて、スキルだったり絵のかっこよさ、完成度とかに圧倒されて。

 

日本人のレベルと比べて海外の方が高いのは、日本には描くところが少ないからなんでしょうか?

日本人のスキルもよく見ればすごいものがたくさんありますけど、海外の人はスキルの見せ方がめちゃくちゃ上手いというか。全部にこだわりまくっているわけではないので、よく見ると雑な部分もあったりするけど、見せるところはめっちゃすごかったりする。どうやって描いてるんだろうってわからないくらいすごい絵がいっぱいありました。

 

―特に衝撃的だったのは?

ブラジルのKOBRA(コブラ)、LAのMac(マック)とか、ロンドンのFin DAC(フィンダック)もそうですし、今回一緒に日本に来てくれたWoes(ウォーズ)とJose(ホゼ)も、アメリカでめちゃ有名で、初めて彼らの絵を見た時はめちゃくちゃ衝撃を受けました。そうやって影響を受けた二人と、今回こうやって一緒に日本に来れてすごく嬉しいです。

 

9月に渋谷パルコのギャラリー「Calif」で開催した個展にて。Woes(左)とJose(右)と

 

―では、ご自身のアートのスタイルを一言で表すとしたらなんでしょう?

一言では難しいですね。短めに言うと、いろんなスタイル、描き方とかメッセージとか、要素がごちゃ混ぜに共存してる。

 

―自分のスタイルを築くのは簡単なことではないと思いますが、そこに苦労している人がいるとしたらどうすれば良いと思いますか?

自分のスタイルを見つけることは、僕がアメリカでやっていく上での一つのテーマでもありましたけど、やっぱりいろんなトライアンドエラーをして、そこから得た新しいアイデアをやってという繰り返しでしかないですね。頭でいっぱい考えてやってみたやつが上手くいく場合もあるけど、試して良かった部分を積み重ねていくやり方しか僕はわからないです。

 

今まで続けてきて辛かった時期はありますか?

大阪から横浜に引っ越した最初の1年間は、絵が売れなくて全然稼げなくて、奥さんと夜な夜なTシャツを手刷りで作って、ライブペインティングする会場で売ったりしてました。その経験があったんで、ニューヨークに来た時も最初の1年は絶対に辛くなると思ってたんですけど、そこが意外といろんな幸運が重なって、なんとかなりました。

 

―これまでいろんなプロジェクトを手がけてこられましたが、特に印象的なものは?

大きいサイズの壁画を描いてる時が一番楽しいんで、そういう意味ではヒューストンで描いた横が76メートル、縦が20メートルの壁画ですね。国連から依頼されて、「ゼロハンガー(飢餓をなくす)」というテーマで、SDGsの一環なんですけど、僕なりのアートで表現してほしいという依頼で。11日間かけて、家族全員に手伝ってもらって仕上げたのが、家族としても自分のキャリアの上でもいい思い出になりました。描いてる時も毎日めちゃ楽しかったし、完成した時の達成感も最高でした。

 

国連からの依頼で描いた壁画。当時ヒューストンで描かれた壁画の中で一番大きな作品となった

 

―自分の価値観に変化や気づきを与えてくれた出会いや言葉は?

人との出会いによって支えられていて、いろんな人の考え方にちょっとずつ影響を受けながら自分の考え方が変わっていくので、明確にこの人というのは特にないです。

 

―憧れたり尊敬する方はいますか?

憧れのアーティストで言うと、先ほど挙げたKOBRAです。彼の作品を見た時に自然と涙が流れてきて、しばらくそこの場から離れられなかった思い出があります。いろんなアイデンティティを持った人が何人か描かれていて、メッセージやコンセプトというよりも、表情とか目で訴える表現が凄すぎて絵からいろんなことが伝わってきて、ほんまに泣いてしばらく震えが止まらなかった。初めての経験でしたね。

 

―彼とは面識あるんですか?

ワールドトレードセンターに彼がでかい壁画を描いていた時、毎日彼の絵を見に行って話したりしました。その後、光栄にも僕が彼の絵の横に描くことになって、3ヶ月くらい前に完成しました。

 

ワールドトレードセンターの壁画。右面がDragon76、左面がKOBRAが描いたもの

 

Dragonさんは、ワールドトレードセンターの壁画は何回も描いてるんですか?

2回ですね。最初に描いた絵は、開発の都合で消さないといけなくなったんですけど、その次の月に新しい壁画を描きました。あとはビルの中にも4つ、企業のオフィスだったりとかに描いてます。

 

―絵以外で、好きな音楽や映画で影響を受けたものは?

音楽はヒップホップ、特に90年代が好きですね。Wu-Tang Clan(ウータン・クラン)、Common(コモン)とかNas(ナズ)、Pharoahe Monch(ファラオ・モンチ)、Mobb Deep(モブ・ディープ)、Native Tongues(ネイティブタン)周りとか、ニューヨークのラッパーはみんな好きです。映画は「Mad Max」、「 Star Wars」 、「District 9」、「Crooklyn」などです。

 

―最近ハマっていることはありますか?

iPadを何年か前にゲットしたんですけど、それで絵を描いてる時が一番楽しいです。ゲームをしてるように、描き始めたら止まらない。色もすぐ出るし汚れないし、描き心地も最高です。あとはネットフリックスで映画を観るのも好きです。最近だと「ONE PIECE」の実写版とか、「ペーパー・ハウス」は韓国バージョンも良かったですね。韓国系のドラマはだいたい面白いので好きです。

 

Dragonさんの理想の人間像は?

偏りすぎず良いバランス感覚を持っていたいです。一番なりたくないのは、自分の成功例だけを正解として、あとは認めないような固い考え方の人。若い人たちからもいろんなことを吸収したいし、常にいろんなことに興味を持てるようなバランス感覚を持っていたいと思います。

 

 

―ニューヨークにはいろんな人がいますよね。Dragonさんはすごい穏やかに見えますけど、嫌な人とかに会った時はどう対応しますか?

自分のプライドを守るために主張しないといけない時は言いますけど、解決できないなと思った時は離れるしかないんで、すぐ離れます。

 

―ご自身のやられていることで、日本や世界が変えられるとしたら、どんなところだと思いますか?

若い時は自分の絵で世界を良くしたいとか思ってた時期もありました。でも今は、世界を変えるとかはおこがましくて言えないです。絵を通して僕のスタンスというか、絵に対しての向き合い方とか、なりたい人間像とか、そういうことを感じ取ってくれて良い影響を受けてくれる人が周りにいたらいいな、くらいですね。

 

―一気に視界が開けた瞬間や、自分が成長したと実感した出来事はありますか?

ニューヨークに行ってからですかね。日本にいた時は、自分のオリジナルのスタイルを生み出すためにすごく悩んだりして大変だったけど、それを作り上げてアメリカで評価された時に、自分がやってきたことは間違ってなかったんだって報われた感じで、いろんなことが吹っ飛んで、これで行こう!ってなりました。

 

 

―アーティストとして一番大切にしていることは?

先ほども言いましたけど、バランス感覚みたいなところですかね。常にいろんな角度から物事を考えるようにはしたい。絶対にこうとかは決めつけないようにして、いろんな考え方をできるように、フラットにしておきたいです。

 

―よく聞かれると思いますが、Dragonさんのようなアーティストを目指す若者にアドバイスをするとしたら?

めちゃ聞かれるんですけど、僕がニューヨークで成功するためのアドバイスをしたとしても、それがその人に当てはまるかどうかはわからないし、その人の持ってるキャラとかバイブスだったりもあるし、明確なアドバイスは難しいですね。自分のキャラをわかった上で、何とか自分のやり方を見つけることですかね。あとは、人を貶めたりずるいやり方をすると、どこかで行き詰まると思うんで、自分にも他人にも正直でいることが大切だと思います。

 

Dragonさんにとって、チャンスとは?

チャンスと聞いて、まず結びつくのはニューヨークかもしれないです。ニューヨークはほんまにいろんなチャンスがあるから。でも、どんな人にでも何回か大きなチャンスは必ず訪れると思うんで、そこでビビってチャンスを無駄にしないように、いつでもそのチャンスに乗れる準備はしておくのは大事ですね。何かで躊躇したりビビってると、すぐチャンスが逃げていくと思ってるんで、瞬間的に乗れるようにはしてます。

 

 

―では、成功とは何ですか?

いろんな成功があると思いますけど、自分のこれからの生き方を自分で自由に選べるような環境にできた時が成功かなと思います。そうなるためには金銭的にも恵まれていないと。例えばヨーロッパに興味があるから移住しようとか、何かやりたいことがあってもお金がないとできないと思うので、自由に生き方を選んでいけるようになったら大成功。

 

―3年後、5年後、10年後の自分はどうなっていると思いますか?

アメリカのグリーンカードがやっと取れたので、今のところはアメリカ以外でっていうのは考えてないですけど、とにかく大きい壁画をどんどんやって、話題になるようなサイズをやりたいですね。ヒューストンで描いた壁画は、当初はヒューストンで一番大きなサイズと言われていたんですけど、調べたらその後更新されたみたいなので、アメリカで一番大きなサイズをやってみたいなと思います。

 

―他に、まだ実現していないことでこれから挑戦してみたいことは?

時間的な制限を外して、1ヶ月とか2ヶ月とか、やれるところまで時間をかけてキャンバスの作品を作ってみたいです。

 

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