HIGHFLYERS/#59 Vol.2 | May 25, 2023

ファッションデザイナーになる夢を実現すべく、ファッションや伝統工芸を学んだ学生時代。パリ滞在中に本格的に着物に真剣に向き合うように

Text: Atsuko Tanaka / Photo: Atsuko Tanaka & Shusei Sato / Web: Natsuyo Takahashi

アーティスト・高橋理子さんの第2章は、幼少期から学生時代、そして自身の会社やブランド「HIROCOLEDGE」を立ち上げた頃のことをお伺いしました。小学生の時にファッションデザイナーになると強く決めた高橋さんは、高校で服飾デザインを学び、そして東京藝術大学工芸科に進学。日本の伝統染織技法を学ぶ中で着物に出会い、その奥深さに魅了されます。お話を聞いていると、彼女の人生経験や思いが作品に反映されていることがよく分かります。アーティスト活動の大きな転機となった出来事として、パリ滞在中に出会ったマダムに言われた言葉や、三宅一生さんとの出会いなどもお話しいただきました。
PROFILE

アーティスト・武蔵野美術大学教授 高橋理子 / HIROKO TAKAHASHI

東京藝術大学にて伝統工芸を学び、同大学大学院の染織研究領域における初の博士号を取得。正円と直線によるソリッドなグラフィックが特徴。 着物を表現媒体としたアートワークのほか、オリジナルブランドHIROCOLEDGEにおいて様々なもの作りを行なう。 近年は、アディダスやBMWとのコラボレーションなど、国内外ジャンル問わず幅広い活動を展開している。作品がロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に永久収蔵。

07年ミス・ユニバース森理世の民族衣装を手がけたことで、世界中のメディアに取り上げられ、三宅一生に認められたのをきっかけに業界の見方が変化

小さい頃はどんな子供でしたか?

適当なところはありつつも、極度の完璧主義で100点以外は許せなかったので、試験前はものすごく勉強していて、母に「もう勉強しないで」と怒られるほど。また、縫い物や編み物が得意な祖母に影響されて、小学校の頃には自分で毛糸を選んでセーターを編んだりしていました。

ご両親はどんな方で、どのような育てられ方をしましたか?

左官の職人の父は小さい頃に自分の父親を亡くしていて、中学卒業後に祖父と同じ職人の道に進み、やんちゃな若い時期を過ごしたせいなのか、とてもおおらかな人。母は結婚後は専業主婦でしたが、勉強がよく出来る人で、私は塾に行かずに母に教わっていました。二人とも自由な感じで、「女の子だからこうしなさい」とか「勉強しなさい」などと言われた記憶はありません。小学校の通信簿に、短所も長所も完璧主義と書かれたこともある私なので、信用してくれていたのだと思いますが、かなり自由に過ごしていました。

当時、夢や憧れていたものはありましたか?

ファッションデザイナーですね。小学2年生の時にテレビで見た「ファッション通信」という番組の影響で、「ファッションデザイナーになって、パリコレに参加したい」と思ったんです。当時から周りのみんなにもそう言い続けて、卒業文集にもそう書きました。それと、同じ頃からずっと車が好きで、中でもデコトラには非常に影響を受けています。

デコトラですか!

父に無線の趣味があり、仲間に長距離トラックの運転手さんも多かったので、デコトラは身近なものでした。車内は真っ赤で、天井からシャンデリアが吊るされていたり、当時のアイドルの絵が荷台にエアブラシで描いてあったりして、いつも乗せてもらうのが楽しみでした。あと、当時父が購読していた「カミオン」というデコトラの専門雑誌を、端から端まで熟読していました(笑)。実は、最近デコトラを譲り受けたんです。ずっと欲しいと言っていたら、いろいろ情報が集まるようになって、ようやく手に入れることができました。

なんと面白い。その話は後で聞かせていただくとして、とりあえず中学、高校の頃はどんな学生生活を?

中学は公立の学校に通っていました。本当は運動をしたかったけれど、将来のことを考えて美術部に入りました。とにかく、自分の夢に向かって先々苦労しないようにと考えて、勉強にも真面目に取り組んでいました。高校は、中1の頃から行くと決めていたファッションを学べる学校に進学。私が在籍していた服飾デザイン科は、先生として外部からファッションデザイナーの方を呼んだり、文化服装学院の教科書を使ったりして、徹底的に服作りの基礎を学びました。

高校時代

ファッション以外に興味があったことは何かありました?

授業で自分のやりたいことができるので、ようやく運動ができると思い、友人に誘われて柔道部に入りました。監督が厳しくて練習も多く、課題とのバランスを取るのはすごく大変でしたが、性格的に部活にもかなりのめり込んでいました。朝練もして、昼休みにも筋トレしたり(笑)。でも勉強も疎かにできないので、休み時間は耳栓をして勉強していました。

本当にストイックな性格ですね。その後藝大に行かれるわけですが、いつ頃から行こうと思っていたんですか?

専門的なことを学ぶ高校だったので、周りは就職する人が多かったのですが、1年生の時に先生から、布について学ぶことができる美大の進学を勧められて、藝大を目指すことにしたんです。でも、部活が厳しくて受験に向けたことは何もできず、3年生の春に柔道の試合で怪我をしてドクターストップがかかり、そのタイミングでようやく美大受験の予備校に通い始めました。それも、足首から腿までギプスを着けて、松葉杖をつきながら。足を曲げられず座れないので、いつも後ろの方で立ちながらデッサンを描いていました。

涙ぐましい努力です。藝大では工芸科に進学されて、どんなことを学びましたか?

工芸科では日本の伝統染織技法を中心に学びました。デザインのデの字も出てこない、技術の習得に重きが置かれているような感じでしたが、高校で服作りの基礎は習得していたので、それ以外で学べることはとことん学ぼうと思って。2年生前期までに陶芸や漆、金属など様々な素材や技法に触れ、2年生の後期から染織専攻に進みました。日本の伝統染織技法は、着物を作るために生まれているものが多く、参考資料でいつも着物を目にしていたことから、自分の国の衣服のことを知ることは、ファッションの世界において他者と差別化をするための武器になるのではと考えたんです。それで、せっかく学ぶことができる環境があるのだから、大学では着物に取り組んでみようと思いました。

大学時代の制作風景

ちなみにパリに行かれたのはその頃ですか?

いえ、パリに行ったのは大学院博士課程在学中ですね。その前に、修士課程を出てもの作りの現場の経験を得るために、一度大手アパレル企業に就職しました。大量生産のもの作りからも多くの学びがありましたが、やはり基本的な考え方が合わないと感じ、半年ほどで退職し、藝大の博士課程を受験して学生に戻りました。在学中、フランス外務省によるフランスへのアーティスト招聘プログラムが始まり、パリに行けるチャンスだと思いエントリーしました。最終的に審査に通って、その翌年に渡仏しました。

向こうではどんな日々を送ったんですか?

滞在中の活動規定などは特になく自由だったのですが、私は作品を発表したかったので、滞在していた「シテ・インターナショナル・デザール」併設のギャラリーを借りて、個展を開催しました。日本から持ち込んだ着物作品を15点ほど、マネキンに着せたり、壁にかけたりという感じで展示をしました。

パリ滞在時、個展を開催した時の様子

お客さんの反応はいかがでしたか?

そこは、国籍もジャンルも様々なアーティストが作品発表をするギャラリーということもあり、常連のお客様もいて、多くの方に見てもらうことができました。その中でも印象に残っているのが、日本の染織に詳しいマダムに、「日本のこんなに素晴らしい文化に携われてあなたは本当にラッキーね。この文化は世界中の誰しもが羨むもの。だから続けなさい」と熱く語られたこと。当時の私はファッションデザイナーを目指していて、着物はおまけの勉強ぐらいに考えていたんですが、これをきっかけに、表面的なことだけではない、着物の本質的な部分にもっと真剣に向き合おうと強く思いました。

大きな気づきを得た出会いがあったんですね。それでパリから戻ってきた後はどうなったんですか?

作品発表を経て帰国し、大学に復学するまでの数ヶ月の間に、友人が金銭面も含めてサポートしてくれることになり、ブランドを作ろうと動き始めました。彼は小学校の同級生で、昔から「僕は社長になるから、デザイナーになって」なんて言っていた仲。他にも、知人の繋がりから、デザイン制作会社の社長さんなど、様々なプロフェッショナルの方々のサポートやアドバイスをいただき、2006年の12月に株式会社ヒロコレッジを設立し、同時にブランド「HIROCOLEDGE」を立ち上げました。そうして活動し始めた頃、知り合いを通して、ミス・ユニバース世界大会に出場する森理世さんのナショナルコスチュームのデザインを手がけることになったんです。森さんが優勝したことにより、私の作った衣装も多くのメディアに出て、世界中に配信されました。

「2007ミス・ユニバース世界大会」で優勝した森理世さんの着物のデザインを手がけた

日本人の優勝は史上初で、話題になりましたね。

日本でも毎日新聞のファッションページで、活動について大きく紹介いただいたんですが、それが三宅一生さんの目に留まり、事務所の方から連絡をいただきました。21_21 DESIGN SIGHTで開催されるイベントのための、落語家・柳家花緑師匠の衣装制作の依頼でした。着物を分かる人のデザインで、伝統的な職人の技で制作したものにしたいとおっしゃって。

21_21 DESIGN SIGHTサマープログラム「LUCKY LUCK SHOW 落狂楽笑」に出演した落語家・柳家花緑師匠の着物を制作

素晴らしいですね。それを手がけたことによって何か変わったことはありましたか?

当時の私は“変わった着物を作る人”として見られることが多かったのですが、第三者の、しかも三宅一生さんに認めていただいたということで、周りからの見方が変わりました。メディアもそうですが、職人さんや着物業界の方たちの見方も変わって、すごく活動しやすくなりました。これをきっかけに、一生さんとお会いする機会も度々あったのですが、ある時、「僕は着物を置いてけぼりにしてきてしまった。だから、あとはよろしく頼むよ」という言葉をいただいて。本当に驚いたと同時に、着物に対する覚悟が決まった瞬間でもありました。

次回へ続く

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