東金聖
―小さい頃はどんな子供でしたか?
わんぱくで、めちゃ負けず嫌いな子でした。あとは絵を描くのが好きで、図工では必ず懸賞をもらったりしてました。強く印象に残っている出来事があって、3年生の時に懸賞されて区役所に飾ってあるはずの絵が、ある時家に飾ってあったんです。どうやら父が気に入って、区役所からもらってきたみたいで。父から初めて褒められて、すごく嬉しかったのを覚えてます。
左:小学校2年生の時、自分を男だと思って生きていた 右:市役所にあるはずの絵(タイトル:「じごくのフクロウ」)。父が持ち帰り、額装されて家に飾ってあった
―ご両親はどんな方で、どの様な育てられ方をしましたか?
父は医者としてアメリカと日本を行き来したりして、とても忙しい人でした。母は元陸上の選手ですが、父の仕事が忙しくなってからは父をサポートをしていたので、二人とも全く家にいなかったです。放任主義な両親で、学校に行けとか勉強しろとか言われたことは一切ない。でもたまに家族旅行に行くと、父はモノの原理とか現象とかを教えてくれました。私が何かをしたりモノを作ったりする際に、コンセプトを考える癖がついたのは父の教えから来ています。
―当時の夢は何かありましたか?
歌手です。自分で曲も作る、シンガーソングライター。私は小さい頃から不思議な能力があるんですけど、ある時経験した群衆の声と共に胸の底から鳴った大きな鐘の音に衝撃を受けて、「こんな音を奏でたい」と思って、実家の屋上で空に向かって毎日発声練習をしていました。
―ところで、小さい頃からアメリカに住んでいたそうですが、いつ頃行ったんですか?
小3の時に家族とハワイ旅行に行ってからずっと留学したいと思っていて、6年生でようやく行けることになり、イギリスにある立教付属のボーディングスクールに通いました。その後、父の仕事の関係で、家族でカリフォルニア州のサンノゼに住むことになって、そのままずっと居続けたかったんですけど、親の仕事の都合上、中3の時に日本に帰ることになりました。
―アメリカと日本の中学校生活はかなり違いそうですね。カルチャーショックはありましたか?
みんな黒づくめで、規則があって、同じコロニーで過ごすという環境にびっくりでしたね。クラスのみんなになかなか受け入れてもらえず、最初の頃は友達が出来なかったですけど、気にしないで明るく接してたら天然と思われたみたいで、だんだんと仲良くなっていきました。
―その後、大学はアメリカで学ばれたんですよね?再び戻ったんですね。
親が「あなたは美術のセンスがあるから、日本の大学じゃなくてアメリカの大学に行った方がいいんじゃない?」と言ってくれて。それで美大に入学するためのポートフォリオ作ったら合格して、奨学金ももらえることになりました。
―そこで彫刻を学ばれた。なぜ彫刻を選んだんですか?
彫刻は英語で言うと「スカラプチャー」なんですけど、その響きがかっこいいと思ったから。「ファインアート、スカラプチャー、かっこいい、これで行こう!」って(笑)。彫刻の中でも現代彫刻を選んだので、最初はいろんな素材に触れさせられました。要はコンセプチュアルな形を作るのが大事で、素材は紙、木、ガラスとか、何を使ってもいいんです。それで1年くらい経った後、作家としてのテーマを決めないといけなくて、なんだろうと思った時に「人」だと思って。
彫刻を学び始めた大学時代
―なぜ人だったんですか?
私は家庭環境で色々あって、家族と喧嘩が絶えなかったり自分自身が不安定だったから、人というものにすごく執着があったんです。あとは、小さい頃家族旅行でギリシャに行った時に、国立美術館である彫刻を見て、その時代に生きた人がここにいるような臨場感を感じて、遥か昔の知らない人が作ったものにこんなに感動させられるなんてすごいなと思った経験もあって。それで素材は何がいいかを考えて、ガラスだと壊れやすいし、紙でもないし、鉄は重すぎると思っていたら、たまたまある時、陶磁器のクラスを取って「これだ!」と思いました。原料である土の中にバクテリアがいる感じや水分量もそうだし、焼いて初めて完成するところとか、試練を乗り越えた先に美学があると思ったんです。モデルは、空想の女性はあっても実存する女性の彫刻があまりないことから、現代に生きている女性にすることにしました。
―かなり大きい作品もあるんですよね。
3メートルくらいのものもあります。作品はいい評価を得るようになって完売したり、賞ももらったりして、大学卒業後はギャラリーと契約もしてアーティストとして活動してました。だけど1年経った頃にリーマンショックが起きて、ビザを延長できなくて日本に帰らないといけなくなってしまって。やっと自分の居所を見つけて肯定力がついたところだったのに、また振り出しに戻るみたいな感じでした。
アメリカ滞在中に、女性をテーマに制作した彫刻作品
―日本ではどんな生活を送ったんですか?
落ち込んでる私を親が見かねて、鎌倉に豪華なマンションを用意してくれてそこに住んで、お小遣い数10万を夜の街で使うみたいな、親の愛情に感謝もせずにくだらない日々を過ごしてました。それである日出会った男性に恋をして、一緒になると決めて親に言ったら、大喧嘩になって家を出ることになって。結局その彼とはのちに別れて、また新たに出会った人のところに転がり込んで。そのうちこれじゃいけないと思って、携帯の販売のバイトを始めて、今にも崩れそうな家賃3万の家に引っ越して、犬と2匹で暮らし始めました。でもやっぱり自分の本当にやりたいことではないし、こんな人生ならいっそうのこと無い方がいいと思っていた頃、ある日友達の車に乗っていた時に、事故にあった死体を見てしまったんです。その時に「自分はまだ生きている、このままじゃダメだ」と思って、本気で変わろうと思いました。それで「陶芸」で色々調べて、陶芸の産地として美濃が出てきて。その後10日で移住しました。
―10日とは行動が早いですね!移ってどうでしたか?
移ってから4、5年の間は食べていくのはすごく大変でした。最初の頃お世話になった陶芸家の方に作品をけなされてカチンと来て、その人は器を作る人だったので「私も器を作って同じフィールドで戦ってみせる!」と意気込んだのはいいものの、やってみたら超大変で。温度帯の縛りがあったり、器は口につけるものなので毒性がないものにしないといけないし、下手したら現代アートより作る工程が大変だと思いました。でも一回ハマるととことんやりたくなるタイプだし、年齢がその時24歳で焦りもあって、勝ち上がっていくには誰もやっていないことを最新の技術を使ってやろうと決めました。当時村上隆さんの本を愛読していて、「現代の技術でやることが現代のアーティストの役目だ、技術に金を惜しむな」というようなことが書いてあって、今は工芸作品を作っているけれど、いずれは現代アートの世界で勝負する!と感化されて。
―ちなみにガバ鋳込みという製法で作られているそうですが、なぜそうしようと思ったのか、またどんな製法なのかを教えてください。
鋳込み形成は、回転体を作るろくろ形成と違って、どんな形でも作ることができます。私が描く、自由な発想のもと生み出されるデザインを叶える唯一の形成方法になるし、複製が可能な点も良いと思いました。また、初期費用がろくろは無料なのに対し、鋳込み形成は数十万円と資金がかかってしまうことから競争率が低いので、いろんな角度から見ても、お金をかけても良いと思える技法でした。製法は、まず粘土に水や珪酸ソーダを混ぜて泥にして、それを吸水性の高い石膏型に満杯になるまで流し込みます。そうすると泥は水分が吸水され硬い土の層に変化していきますが、これがカップの厚みとなるんです。好みの厚みになったら、残りの泥を「ガバっと」外に吐き出します。ガバ鋳込みの由来はそこから来ています。
―とても美しいカップとソーサーを作られていますが、このスタイルに至った経緯を教えてください。
昔からヴォーグやエルなどのファッション誌が好きでよく見ていたんですけど、プロップスとして陶磁器が出てこないことに気づいて、じゃあ私が作ろうって、そうしたファッション誌のページに出てくるようなオシャレなものを目指して作ることにしました。テーマは彫刻の時と同じ「女性」で、でも新しい挑戦として全く違うアプローチでやりたかったので、シンプルではなくゴージャスに。カップの上の部分がボンと膨らんで途中がキュッと絞られているのは、コルセットをイメージしているんです。女性ならではの曲線美や、曲線の不安定さの中にある美しさはすごく意識していて、可愛いがってあげたくなるような、丁寧に取り扱ってもらえるような細さで作っています。カップに付いている装飾は、ピアスだったり、私が小さい頃に影響を受けたビクトリアン調の家具などをイメージして作ってます。
―東金さんの作品のスタイルを一言で表すとしたらなんでしょう?
伝統と革新です。伝統技術を使って、革命を起こすような新しいものを作れていると思います。
東金が手がけた繊細で美しいカップの数々
もう一つのアトリエ内には、インスピレーションの元となる雑誌の切り抜きやイラストなどが壁いっぱいに貼られている
―自分のスタイルを築くのは簡単なことではないと思いますが、そこに苦労している人がいるとしたらどうすれば良いと思いますか?
一番簡単なのは無いものを探すこと。そして無いものに対して何ができるのか、問題があるとしたらそれは何かを考える。例えば私のことで言うと、「ガバ鋳込みは大変過ぎて誰もやってこなかった手法」、これが問題です。でも私がやって解決すれば、そこの中でトップに立つことができ、注目してもらえる。まだ着目されていないものに着手して、そこを極めることによって自分のスタイルは確立できるんじゃないかと思います。
―現在アトリエは多治見と土岐市との2ヶ所にあるとのことで、今回撮影させていただいたしたアトリエ (2023年4月に、“土をコンセプトにした複合施設”「THE GROUND MINO」内にオープン)について教えてください。外から東金さんが作業されている姿が見える形になっていますが、このような公開アトリエをずっとやりたいと思っていたそうですね。
はい、本当は銀座とか青山とかでやりたかったんですけど、家賃が高くて。とにかく継承者を促したいので、多くの人に見てもらって、かっこいいと思ってもらったり、こんな工程があるんだ、楽しそうとか、自分もできるかもと思ってもらえたらいいなと思ってます。 ガバ鋳込みをやってる家の子達ってみんな家業を継がないで都会に行っちゃうんですよ。「こんな汚い仕事やりたくない」とか、「夢がないしお金にならない」とかの理由で。でも私はここでこれだけのものを作ってお金を稼いでるし、こんな環境でもできるんだということが伝わればいいなと。
―アトリエもそうですし、東金さんの髪も洋服も全てピンクですが、自分のカラーをピンクにしている理由は何かあるのですか?
一昨年までは黒髪ロングだったんですけど、人生をやり直したいと思っていた時に、父親に命の危機があって、もし父があの世に逝ってしまっても会話できるようになりたいと思ったんです。それで、ある元旦の夜にお台場の観覧車に乗りに行って、一番上まで行った時、空に向かって大声で「この世の真理と死後の世界と、作家として進むべき道を教えてくれ」と叫びました。そうしたらその日の夜寝ている時に宇宙の映像が見えてきて、綺麗に輝くピンク紫をはっきりと見て。このエネルギッシュなピンクにしたらいいんじゃないかと思って、ピンクにしました。
ピンクの頭で派手な感じは従来の陶芸家らしくなく、会った人の印象に残りやすいみたいで、初めて個展をした時に来てくださったVOGUEの編集者が、1年経った頃に「そういえばピンクの頭の子いたな!」って思い出してくれたようで、記事(2023年1月号、「伝統と革新」)にしてくださったんです。色にもそれぞれ違ったバイブスがあることは科学の視点でも証明されているくらい有名な話ですが、ピンクの頭は私に人が集まるエネルギーを与えてくれました。ピンクを取り入れて大正解でしたね。
―確かに、作品もそうですがご自身もとても印象深いです!それでは最近発表された、シェ・シバタとのコラボレーションについて教えてください。コラボはどのような経緯で実現することになったのですか?
去年の夏、シェ・シバタのオーナーの柴田さんが私のアトリエを偶然発見してくださって、クッキー缶のデザインを依頼されて販売したのですが、今回はその第2弾として、「アロマ」というボタニカルフレーバーのショコラの缶のデザインをさせていただきました。昔からシェ・シバタのスイーツは大好きだったのでとても光栄ですが、嬉しいだけではなく、私も柴田さんに負けないくらい活躍して、コラボして良かったと思っていただけるようになる為にもさらにエンジンがかかりました。
―とても素敵な仕上がりですね。制作する中での気づきや大変だったことなどはありましたか?
初めて100%自分のものではない作品作りとなりましたが、クライアントの要望を踏まえてデザインするのは、とても大変なことだと色々と勉強になりました。もしかしたら私は根っからのアーティストなのかもしれません(笑)。
シェ・シバタとのコラボレーション。上段左:風味豊かなクッキー「スペキュロス」上段右:多治見市長(中央)と柴田武氏(右)と 下段:香水をイメージしたボンボンショコラ 「アロマ」
―では、ご自身の価値観に変化や気づきを与えてくれた出会いや言葉があったら教えてください。
クリスチャン・ルブタンです。彼は、靴という実用品にアート性を持たせて美術館で展示をしたり、革新的なことをしてこられた方。靴がアートになるんだったら器もなると思ってとても刺激を受けました。あとは先ほども言った村上隆さんです。村上さんがおっしゃっていた「死ぬまでアートをやる」ということに対してはすごく共感しました。死ぬまでできるかっていう問いに答えられないということは、他にやれることがあるからで、その問いがすごく大事だって。私はその問いに答えられる人生を送ってきたと思ってますし、何に対してもそれを死ぬまでやれるかと自分自身に問いかけています。
―憧れたり尊敬する方はいますか?
やっぱり私の父親以上に尊敬できる人はいないかなと思います。産んでくれて、高い学費を払ってくれて、育ててくれて感謝しています。
―好きな音楽や映画、本、アートなどで特に影響を受けたものは?
本は村上隆さんの「芸術闘争論」。音楽は小学校の時に聴いていた浜崎あゆみさん、セリーヌ・ディオン、ホイットニー・ヒューストンとかですね。映画は「ムーラン・ルージュ」、あと「タイタニック」は100回くらい観たかな。自分の人生にないものを補うみたいな意味で恋愛ものが好きです。それから「シカゴ」、「キャッツ」とかのミュージカルも好き。アートはマルセル・デュシャンの「泉」や、アンディ・ウォーホールの「ブリオ・ボックス」とか。ウォーホールの「プロダクトだってメッセージがあればアートだ」みたいな、新しい文脈を作ることとか、めちゃめちゃ影響を受けました。
―最近ハマっていることはありますか?
歌です。幼い頃から歌っていたので自信があったのですが、以前知り合いに私の歌を否定されてから、悔しくてまた毎日歌って練習してます。ミュージカルの曲を歌うのが好きです。ポップオペラも好きですけど、レッスンを受けた時にコテンパンにされて、技巧やルールを守らないといけないし、苦戦してます。
―東金さんの理想の人間像は?
最後まで諦めない人。そうしたら必ず転機が訪れるから。どん底にぶち当たってもやめなかった結果今があるって証明できたら、自死を考え直したり夢を諦めそうになった人の助けになれるかなと。とにかく挑戦し続けることはすごく大事だと思うので、その姿勢を見せれる人、作家でありたい。
―社会で起こっていることで、気になることは何ですか?
虐殺とか戦争とかですね。これしか正解がないと思ってるような、自分達の世界を統一することが正しくて、それに反発する人は殺すって酷いことだと思います。テレビは見ると本当に辛くなるから、数10年見てないです。
―東金さんにとって、チャンスとは?
人が運んでくるもの。そしてそのチャンスを運んできてくれた人もハッピーになることが私にとっての本当のチャンス。チャンスをものにするというのはそういうことだと思います。自分だけが得をするのは、最終的にチャンスではなくなります。また、自分でチャンスを作りにいこうとする時も、うまくいかないことが多いです。
―それでは成功とは?
2種類あると思っていて、一つは金銭的に豊かになるとか名誉を得るとか、自分や自分の周りの人たちだけの成功。もう一つはもっと母数が多い、例えば歌手が何万人の前で歌って感動させるような成功。人によって成功の概念は違うし、今の自分にとっての成功は小さいことですけど、家族を養って、私を育ててくれた親に恩返しをすること。世界で日本人として戦って功績を残す。でも、究極は死んだ時に「良い人生だった」って思えることかな。
―最も成功してる人と言ってすぐに思い浮かぶ人はいますか?
イーロン・マスクとかですかね。人類で初めての試みとかたくさんやってるし。でも周りからはそう見えても本人はそう思ってないかもしれないし、難しいですね。そういう意味では私の父は成功したと思います。たくさんの子供と孫がいて、みんなに愛されているんで成功だと思う。
―最後に、3年後、5年後、10年後の自分はどうなっていると思うか教えてください。
今はまだ自称現代アーティストですけど、3年後はちゃんと現代アーティストになってそのマーケットで戦ってると思います。5年後は、今手がけている大きなカップの作品のシリーズが評価されて、ルーヴルとか世界クラスの美術館で展示をしていると思う。10年後には二人目の子供がいて、子供たちに「このお母さんで良かった」って思ってもらえるほど、家族も幸せにしながら作品を作っているんじゃないかと思います。