HIGHFLYERS/#61 Vol.1 | Jan 30, 2024

「テオブロマ」開業25年を迎えたショコラティエの果てしない挑戦。銀座に志かわとのコラボ「バレンタイン食パン」が間もなく発売開始

Text & Photo: Atsuko Tanaka

HIGHFLYERS 第61回目のゲストは、ショコラティエの土屋公二さん。土屋さんは高校卒業後、19歳の時にお菓子の世界に入り、修行を積んだのちフランスへ渡ります。そしてある店で食べたチョコレートの美味しさに衝撃を受け、その道へ進むことを決意。時を経て、99年に当時日本では珍しかったチョコレート専門店「テオブロマ」をオープン。それから25年経った今も、多くの人々に愛されるチョコレートを作り続けています。情熱的でエネルギッシュな土屋さんに、半生に起きた様々な出来事や、尊敬するシェフのこと、チョコレート作りに対する思いや、2月に発売される銀座に志かわとコラボレーションした「バレンタイン食パン」についてなどをお聞きしました。
PROFILE

ショコラティエ/テオブロマ オーナーシェフ 土屋公二

フランスで6年間、有名ショコラトリーやパティスリーで修業後、帰国。 パリのショコラトリーの日本店でシェフを務めながら時を待ち、1999年東京・渋谷に チョコレート専門店「ミュゼ・ドゥ・ショコラ テオブロマ」をオープン。 日本にチョコレート文化とショコラティエという職業を広めた立役者の一人。 国内外のコンクールにおいて受賞歴多数。 土屋の個性が感じられるボンボンショコラから「味覚のマジシャン」と言われている。


 

小さい頃は、どんな子供でしたか?

3人兄妹の末っ子なんですが、6歳頃までは親の陰に隠れているようなおとなしい子供でした。でも小学5、6年頃になるとわりと悪くなって、喧嘩ばかりしてました。いじめたりはしなかったけど、変な正義感を持って、負けたくないみたいな気持ちがあったんだと思います。

 

ご両親はどんな方で、どんな育てられ方をしましたか?

父は漁師の息子として育ち、当時日本領だった鉄道の仕事で朝鮮半島に行って、帰国後は安定した収入を考えて会社員として働いていました。母は専業主婦。両親とも家族思いの自由な人で、勉強しろとか言われたことはないですね。自分に正しく生きろというようなことはいつも言われてました。

 

 

その頃土屋さんがなりたかった職業はありましたか?

周りの友達は野球選手になりたいという子が多かったけど、僕はそういうのはなくて。でも絵を描くことが好きで、3時間でも4時間でも没頭して描いてました。

 

中学、高校生の頃はどんな学生生活を送りましたか?

中学は部活でバスケットをしました。勉強はそこそこだけど、体育と芸術系は得意で、クラスで1、2番みたいな。明るい性格で、学校に行ったらクラス中の人と話す感じのタイプでした。高校では部活で応援団をやりながら、3年の時に生徒会長になりました。応援団と生徒会長って共通していることがあるんですよ。人をまとめたり、人前で話さないといけなかったり、そういうことはその時から苦手じゃなかったです。

 

お菓子作りはいつ頃から興味を持ったんですか?

初めてお菓子を作ったのは高1の時です。普段から洋菓子とかがあるような家ではなく、ケーキを食べるのはクリスマスくらいでしたけど、姉が高校の家庭科の宿題で、家でシュークリームを作らないといけない時があって。だけど上手くいかなくて途中で投げ出して遊びに行っちゃったんです。それで僕が本を読みながら作ったらまあまあ上手く出来て、友達にあげるとみんな喜んでくれて。楽しいなと思いました。

 

 

それでお菓子職人になろうと?

いや、お菓子作りを職業にする気はなかったです。今みたいに専門学校もなかったですし、どうしたら菓子職人になれるかわからなかった。それで友禅の絵を描く職人になりたいと思って、京都にある着物の友禅の会社の面接を受けました。1番いい成績で受かったんですけど、会社の人から「あなたのような活発な人には向かない仕事だから考え直した方がいいんじゃないですか」って連絡が来て。考えた結果諦めて、学校の先生がスーパーマーケットの社員になることを勧めてくれたので、町田にある大きなチェーンのスーパーに入社しました。

 

確かにスーパーの店員さん、向いてそうですね。

そうでしょ(笑)。最高に面白かったです。最初の2ヶ月は肉、魚、果物とかいろんな売り場を回って、希望を出して配属が決まるんですけど、魚は匂いが体に染み付いて取れなくて体力的にも辛いし、果物売り場を希望しました。ですが、入社した4ヶ月後に椎間板ヘルニアがひどくなって、自分の骨を移植するという大手術をすることになって。半年くらい入院して、退院後もしばらくは全く動けなかったです。それで首から腰まであるコルセットをつけながらでも出来る仕事を探して、地元の丸井の服売り場で働くことになりました。明るい性格だったし、友達に買ってもらったりして、誰よりも売りました。そうしたらそれが噂になって、上の人たちに社員になってくれと言われて。

 

持ち前の明るさが生かされたんですね。

正月明けに社員になる手続きをする予定だったんですけど、友達との新年会に向かう途中、車の事故にあってしまい、頭を打って前歯も折って、手の指も動かない状態で、また入院。それで色々考えた結果、お菓子屋さんになりたいと思ったんです。

 

 

なぜお菓子屋さんに?

楽しそうじゃないですか。昔お菓子を作った時にみんなが喜んでくれた思い出もあったし、「ケーキの仕事は楽、魚臭くない」と思って。親の知り合いに聞いてもらって、ロリエ常盤という地元のケーキ屋さんに就職しました。

 

どうでしたか?

出勤時間は朝の7時半から夕方の4時半と言われてたんですけど、初日は終わったのが夜の10時半。「こんな日もあるから」って言われたけど、次の日もその次の日もそんな感じで騙されたなぁと思いました。みんな「お菓子屋さんって夢あるよね」って言うけど、夢なんかないですよね。その日に習ったことをメモして、家に帰ってノートをまとめて1、2時間復習したり、休みは週1日でしたけど先輩から普段教えてもらないようなことを教わったりして、初年度は多分元日以外働きました。

 

辞めようとは思わなかったんですか?

全然思わなかったですね。最初は騙されたと思ったけど、知識がゼロから始めて、どんどん自分のプラスになっていくのがとても楽しかった。

 

その後フランスに行かれたんですよね。いつ頃から行きたいと思っていたんですか?

働き出して2年目の頃ですね。企業が開催している無料の技術講習会に行って、ある時講師の経歴を見たらフランスで修行したことが書いてあって、自分もフランスに行ってみたいと思ったんです。でも言葉がわからないし、知り合いもいない。とりあえずフランス料理をやってる人に聞いて、静岡に住むフランス人を紹介してもらい、半年くらいフランス語を習いました。結局覚えたのは1〜20の数字と、ボンジュール、マダムとメルシーくらいでしたけど(笑)、仲良くなるうちにフランス人と一緒にいることに慣れて自信がついたんです。

それで親にフランスに行きたいと相談してみました。反対されるかと思いきや、親父は「とっとと行け、若いうちに苦労した方がいい」って言うんです。親父は若い時に朝鮮で苦労した経験もあるし、自分が現役のうちはお金を工面してあげられるかもしれないからって。母も「私もそんなふうに海外に行く人が好き」って言ってくれて。お金は事故の保険が下りたのでそれをつぎ込んで、ソルボンヌ大学附属のフランス文明講座の入学手続きをしてフランスに行きました。

 

 

とても素敵なご両親ですね。フランスはどうでしたか?

学校の生徒は、僕以外はみんな大学生とか大学卒業生とかばかりだったけど、明るい南米人が多く、友達もすぐ出来てとても楽しかったです。それで3ヶ月のコースが終わった頃に、日本人の知り合いからパン屋を紹介してもらってそこで働いてお菓子を作りました。フランスってパティスリー(お菓子屋)の専門店は少なくて、ブーランジェリーパティスリーと言って、パン屋で庶民的なお菓子を作って売ってるんです。僕が働いた店はごく普通のパン屋さんでしたけど、フランス語もあまり話せない、経験もない僕が慣れるという意味で、この時の経験は後々有意義なものとなりました。

 

その後はどうなされたんですか?

先輩に、「フォンドール・チバ」という日本人が経営する店を紹介してもらって、そこではマカロンとかキッシュなどの料理を覚えたりして1年ほど修行しました。その後は郊外のケーキ屋さんから三つ星のレストランまで、全部で7軒くらいで働いて。そのうちの一つが「ラ・メゾン・デュ・ショコラ」で、そこで高級チョコレートと初めて出会いました。頂いたトリュフショコラがすごく美味しくて。

 

それでチョコレートに目覚めたわけですね。

そう、当時ラ・メゾン・デュ・ショコラはまだ無名で1店舗しかなく、厨房に二人しか入れないような頃で、僕が日本人で二人目の研修生でした。無給でしたけど、学校に行く以外やることがないし、そこに行けばチョコレート作りを覚えられるし食べられる。また、その時のシェフがミッシェル・ショーダンさんで、その後彼が独立した時に僕はお世話になるわけです。

 

ミッシェル・ショーダン氏と

 

なるほど、そういう出逢いだったのですね。

出逢いには恵まれました。当時フランスのパティスリーでは一番有名だったダロワイヨで働いた時の、パスカル・ニオーさんとの出逢いもその一つです。

 

その後日本に帰国されますが、きっかけはあったんですか?

日本に帰ってきたのは86年、当時日本はバブルで、DCブランドの全盛期でした。ビギ(BIGI)が代官山にお店を出してケーキ屋もやっていて、そこでシェフとして働くことになり急遽帰国することに。そこではケーキのシェフとして務めました。チョコレートも少し作ったけど、まだチョコの時代ではなかったんです。そうしたら3年経った頃、ミッシェルが独立をして、日本に店を出すから働いてほしいとの連絡が来て。そして90年、銀座の松坂屋で日本の店がスタートしました。またフランスにも半年ほど行って、ノウハウや秘密を教えてもらいました。

 

貴重な経験を積まれたのですね。

その時の経験はとても大きかったですね。ちなみに彼は何を一番大事にしてると思います?表では「鮮度、素材、技術」と言っているけれど、裏では「一番大事なのはロゴだ」って教えてくれました。あとは、手の洗い方からショーケースのドアの閉め方、掃除の仕方とか、全部理論があって細かくて、間違ったことをやると永遠に怒られましたね。

 

ご自身の独立はいつ頃から考えていたんですか?

日本ではバブルがはじけて、会社の売り上げも落ちていたけれど、チョコレートだけはうまく行っていたんです。だけど僕の給料は上がらなくて不満が出てきて。交渉し続けるのも疲れるし、このまま揉めていたら45とか50 とか大事な年齢になった時にクビを切られるんじゃないかと思って。それだったら辞めて、自分の店を持とうと考えたんです。会社や親方のために3年かけて次のシェフを育ててから独立しました。

 

渋谷にチョコレート専門店「テオブロマ」を開業(99年)

 

当時日本はまだチョコレート専門店がない時代ですか?

ないですね、ゴディバとか和光がやってるチョコレートの店くらいで、個人がある程度の規模でやることに、誰も賛成しなかったです。しかも、僕お金なかったですから。当時持っていたお金は300万円くらい。開店に必要なお金は8千万。

 

8千万ですか!

敷金とか、内装費、機械とかにかかる費用がそれで、運転資金抜いての8千万。当時38歳、不安でしょうがなかったですね。資金繰りは、講師とか顧問をやって300万くらい貯めて、あとは失業保険をもらったり、親や知り合いの社長さんから借りたり。機械屋さんにはお金は後で払うから機械を入れてくださいと土下座してお願いして。皆さんにお願いをのんでいただいてオープンすることができました。しばらくはずっと朝5時頃まで働いて、家に帰って3時間寝て、また戻って仕事してみたいな生活でしたね。

 

チョコの売れ行きや評判のほうはいかがでしたか?

店が広いし初めての経営だったんで、いろんなことが起こって、最初はなかなかチョコを作れなくて、できたのは生チョコとトリュフの2種類だけでした。保険としてケーキや焼き菓子も作って喫茶もやって、チョコが売れなくても大丈夫なようにしていたので良かったですけど。オープンして半年の間に何十種類かを作って、秋にやっと出すことが出来て、翌年2000年のバレンタインにはデパートからいっぱい話が来て、全然間に合わない状態でした。

 

結構すぐ軌道に乗った感じだったんですね。

そうですね、初年度の年間売り上げ目標は8000万くらいだったけど、1億2千万くらいいったかな。その後も売り上げ自体はずっと伸びていて、これからも上がっていくと思います。あと、いろんなところから来た出店の話を受けなかったことも良かったと思います。それと、僕は高校が県立の商業高校で、商売や会計の基礎を叩き込まれてるんで無駄遣いをしない。それから、肝の太さもありますね。シェフたちって大体目つきが怖いじゃないですか。みんな背負ってるんですよ、いろんなことが起きてもしょうがないって受け入れる覚悟がある。

 

これまで続けてこられた中で辛かったことはありますか?

ニュースにもなったけど、店でガス事故が起きた時ですね。ガス事故って言うと、ガス爆発したみたいに聞こえるけど、古くなった給湯器が原因で、3階のダクトから外に出るはずの二酸化炭素が風の影響で厨房の中に逆戻りし、充満してしまったんです。頭が痛いというスタッフが数人出たのでガス会社に電話したら、救急車を呼ぶことになって。その途端ヘリコプターが空を飛んで、テレビやネットニュースに上がって。1ヶ月間店を閉めました。でもなんとかやってこれました。

 

それは大変でしたね。では逆に一番嬉しかったことはなんでしょう?

いくつかありますけど、まずは漫画「失恋ショコラティエ」に出てきたチョコレートを、作者と組んで再現して作って、三越伊勢丹限定で売った時のこと。初日は開店と同時に人が押し込んで階が揺れるくらいになったみたいで、結局新宿伊勢丹の催事場の6階から1階の階段、そして店前から花園神社まで列ができました。新宿以外も、大阪や名古屋も前日の夜中から行列ができたり、仙台は僕が前日の夜に手持ちで持って行って、鍵のかかるところに保管するという、それくらい大変でしたけど、嬉しかったというか、生きてる感じがしましたね。

あとはホワイトカカオを初めて知った時も感動しました。2013年に、ペルーで一番有名なシェフ、ガストン・アクリオ氏の奥さんのアストリッドさんから呼ばれてペルーに行ったんです。それまでうちの店はフランス製のチョコレートの原料を買って形を変えてチョコを作っていて、カカオ豆を買うという概念がなかったんですけど、ペルーで展示会にカカオ豆を売りに来るのを見て、そういうマーケットがあることを知りました。また、産地に連れて行ってもらった時に、初めてホワイトカカオを知って、食べてみたらとても美味しくて。

 

2013年、ペルーを訪れた時、初めてホワイトカカオを知った

 

やはり素材となるカカオは美味しいチョコレートを作る上でとても大事なんですね。

日本で売ってるチョコレートの原料はガーナ産がほとんどで、ベースビーンズという安い豆に、2割程度のフレーバービーンズを足して味を調節して作っています。対してスペシャリティチョコは100%フレーバービーンズで作っていて、しかも作り手が豆の焼きの温度や粒子などを考えて作っている。それを知ってから豆に対する価値観が変わって、自分たちで豆を仕入れてチョコを作ろうとなりました。

 

ー土屋さんは、7年ほど前からマダガスカルのカカオ農家の支援もされていらっしゃるんですよね。

はい、最初の頃はJICAと一緒に、今は自分たちでやっていますが、農家から豆を買うだけでなく、根本的な彼らの生活を助けることに注力しています。これがまたすごく大変なんですけどね。

 

どのような点が大変ですか?

農家の人たちに良いカカオ豆の作り方や豆の発酵の技術を教えて、自分たちで良い品質のものを作れるよう支援していますが、去年できていたことが翌年にはできていなかったりします。また、日本のような先進国では、自分がした仕事の報酬としてお金がもらえるということは当然のようにわかっているけれど、マダガスカルのような貧しい国はそういうことが教育されていないので、すぐにお金をもらえると思ってしまう。これまで40農家と取り組みをしてきて、今残っているのは1農家だけ。みんないろんな理由をつけてどっかに行ってしまうんですね。だからとても時間がかかることなんですけど、いい形で消費者に届けたいですし、いい味ということをわかってもらうための運動もしないといけない。農家に対して私たちは何を一番すべきなのかといつも考えています。

 

マダガスカルの農家たちと

 

近日発売予定の、銀座に志かわとコラボレーションしたバレンタイン食パンにも、そのマダガスカルのチョコレートを使用されているそうですね。

銀座に志かわのパン職人の方と打ち合わせをした時にマダガスカルのチョコを試食していただいたんですけど、こんなにフルーティーなチョコがあるんだとびっくりされて、これで作っていただくことになりました。最初は食パンのチョコの部分を渦巻き風に作るという案もありましたが、チョコが離れやすくなるし、だったら全面的に黒い方がインパクトあるんじゃないかということでこのような形に仕上がりました。ナッツとかオレンジが入っているのもすごくいいですよね。僕は軽く焼いて食べるのが好きです。

 

銀座に志かわとコラボレーションしたバレンタイン食パン。

 

では、これまで色々なチョコレートを開発されてきた中で、特に印象的な経験や気づきなどはありますか?

常々思うことですけど、とにかく時間がかかるということ。99年に店をオープンした頃、朝まで寝ないで毎日働いても、明日お客が来ないかもしれないという不安でいっぱいでしたが、25年やってもその危機感はいつもあります。また、今新しいことをやって注目を浴びるパティシエがいて、それはそれで素晴らしいと思う一方、うちは新進気鋭なことをやるのではなく、うちらしく世のためになることをやりたいと思ってます。その中で気づいたことは、大事なのはお金とかではなく、やっぱり人と人の関係なんだなということ。結局自分がどう生きるか、どう納得するかじゃないですか。お金が欲しいのか、技術か、知名度なのかとか、価値観も年と共に変わっていきますけど、最終的に自分がどうなりたいのか、自分の存在感を世の中にどう適合させていくのかを考えますね。それと、いつやめるかにも関わる。世間から「お前はもういらないよ」って言われたらやめないといけないかもしれないし。

 

深いですね。

チョコレートの星の下に生まれちゃったんですよね、宿命です。逃げたい時もあるけど逃げてはいけないし、他のことをしたいと思う瞬間があっても、やっぱり違うかなと思う。だって例えば僕がフランス料理とかおでんをやることを世の中が望んでるわけじゃないし、自分がやりたい・やりたくないとかではなく、日本中で一番カカオの農園に近いところにいて、金銭的にも人脈的もそれができる立場にいるのなら、まだそこにいないといけないのかなって思うんですよね。

 

まだまだずっといてほしいです!では、土屋さんが作るチョコレートのスタイルを一言で表すとしたらなんでしょう?

“土屋流”ですね。味の出し方から、パッケージデザイン、店の展開の仕方とか色々あって、例えば1000店舗展開するような店もあって、それはそれで世に貢献しているかもしれないけど、土屋流はそうじゃない。たくさん売ったからいいってことではないし、そもそもいいものはそんなにたくさん作れないです。自分のできる範囲で自分なりの、自分がいいと思うものを作ることが土屋流。

 

 

上段左→右:ボンボンショコラ、「失恋ショコラティエ」ウィンターコレクション、トリュフ 中段左→右:マジシャン デュ グー、タブレットミアメール(ペンギン)、ルビー&フリュイセッシェ(ハリネズミ) 下段左→右:オランジェット、キャビア ブラウン、マダガスカルプロジェクト ウィズ メープルシュガー

 

憧れたり尊敬する方はいますか?

チョコレートの親方である、ミッシェルは憧れでしたね。彼は手で作ることにこだわり、自分の目の届かないことはやらないタイプで、一生涯で1店舗のみでした。僕はもう少し大きな規模でやったけど、あんな職人にはなれないと思う。そういう意味で憧れるし尊敬する。あとは野茂さんとカズさんも好きでしたね。何が素晴らしいかって、彼らは海外で日本人のアスリートが活躍できる道を切り開いたわけで、そこの苦労は大きいと思う。築かれた道を後から行って、俺が一番っていうのは簡単だと思うけど、フロンティアというかパイオニアというか、最初に切り開くのは大変ですから。

 

では、土屋さんの理想の人間像は?

自分の未来を考えた時、90歳になっても現役でいるのがいいのか、もしくは60でリタイアして店を売ってお金を手にするのか、それともそこそこで職人は辞めて会社にいながら少し口を出すのがいいのか、何がいいのか考えるけど、どれも悪くないですよね。でもだからと言って、ボランティアで人のために尽くすだけのような人間ではないし、休みの日にゴルフをやりたいと思ったことも一回もないしね。僕らの中で現役って言うと厨房でずっと作ってることになるけど、僕の場合店の規模も大きいし、そこまでできないんですよね。そこで、企画でもなんでも、お菓子作りに絡んでることを現役とするならば、もうちょっとチョコレートと絡んでやっていたいですね。生涯かどうかはわからないですけど。

 

ご自身のやられていることで、日本や世界が変えられるとしたら、どんなところだと思いますか?

インターメデイア的なことかなと思ってます。僕はチョコレートの作り手でありながら、カカオ農家と作り手の間に入っていて、いろんな国に行って現地のこともわかっている。なので、若い人たちへのアドバイスはできるかなと。約40年の経験があって、引いて俯瞰で見ることができるから、一つの答えじゃなくてその人に合ったアドバイスをできると思います。

 

 

では、土屋さんにとって、チャンスとは?

人がピンチと思った時が一番のチャンスだと思います。チョコレートで言うと、ここ1年で相当値上がりしていて、輸入物は特にそうだけど、うちは自分たちで豆を買って国内で製造しているんで、そんなに高くしなくても大丈夫。それはチャンスかもしれない。

 

そういう時は戦略とか色々考えるんですか?

あんまり考えないですね。ほとんど閃きなんですよ。「あれやるぞ」とかって他人からしたら突然変なことを言ったりする。それから相性は気にしますね。人も商品的にも、相性の合わない人とは仕事したくない。それと大事なのはパッケージ。味はとても大切だけど、パッケージは味以上に大切だと思っています。

 

それでは、土屋さんにとって成功とは何ですか?

自分の思った仕事ができることですね。店舗数を増やすとか、お金を儲けるとかじゃなくて、自分の理想に近い仕事ができること。どれだけお金を持っていても、心が貧しかったり病んでいる人は成功してると思えないです。

 

最も成功してる人と聞いて思い浮かべる人は?

僕が尊敬するシェフ、パスカル・ニオー。彼はフランスの国家功労勲章を持っているすごい人ですけど、今は引退して画家として絵を描いて過ごしています。ちゃんとやることをやった後、楽しそうに自分らしく生きてるのは素晴らしいと思います。

 

パスカル・ニオー氏と、パスカル氏に描いてもらった土屋シェフの絵

 

土屋さんもそうなるかもしれないですね。

やりたいことはいっぱいあります。お店をやってからほとんどできてないけど、昔よくやっていた飴細工をまたやりたいです。コンクールに出すような大きなものではなく、ちょっと作って楽しんでみたいな。それとゆっくりお茶を飲みたいですね。

 

他に実現していないことで、これから挑戦してみたいことはありますか?

趣味として13年続けているキックボクシングの試合に出たいです。あとは、うちのお客さんをカカオ農園に連れて行くこと。農園に案内して、農家と消費者を結びつける取り組みをしていきたいです。

 

13年続けているキックボクシング。いつか試合に出るのを楽しみに、練習に励んでいる

 

 

テオブロマ Information

バレンタイン限定「テオブロマ監修 贅沢カカオ食パン」

販売:銀座に志かわ各店舗(*一部店舗を除く)

販売期間:2024年2月1日(木)~2月14日(水)、限定販売(数量限定のため無くなり次第販売終了)

WEB予約開始は1月10日(水)から

料金:キューブ型食パン2個セット(ビターチョコレート&オレンジピールとミルクチョコレート&マカダミアナッツ) 2,000円(税込)

https://www.ginza-nishikawa.co.jp/archives/news/valentine_info_2024

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