BICULTURAL SOULS
#27 | Mar 23, 2022

舞台「パンドラの鐘」で、衣裳デザイナーに抜擢。日本のノスタルジックさに魅せられた、ポーランド育ちのオランダ人ファッションデザイナー

Text & Photo: Atsuko Tanaka

様々な分野で活躍する日本在住の外国人の方々をインタビューするコーナー“BICULTURAL SOULS”。第27回目のゲストは、ファッションデザイナーのAntos Rafal(アントス・ラファウ)さん。オランダ人で、ポーランドで生まれ育ったアントスさんは、小さい頃からファッションに興味を持ち、専門学校で洋裁を学びます。そしてアムステルダムに渡り、大学でファッションを学んで、卒業後はアルマーニやGAPなど大手ブランドで経験を積みました。その後2008年に独立以降も、様々な国を転々とし、2018年に日本に移住。先月は自身のブランド「ANTOSTOKIO(アントストーキョー)」の2022-23年秋冬コレクションを発表。また、6月から上演される舞台「パンドラの鐘」では、衣裳デザイナーに抜擢されるなど、今後の活躍に注目が集まるデザイナーの一人です。アントスさんの半生を通しての様々な出来事や、デザイナーとして大切にしていること、祖国や日本の文化について思うことなどをお聞きしました。
PROFILE

ファッションデザイナー アントス・ラファウ / Antos Rafal

欧州の著名メゾンブランドをベースに、2001年よりデザイナーとしての活動をスタート。イタリアやロンドン、アジア等でキャリアを積むなか、訪れた日本にて着物文化や日本の伝統に感銘を受け移住を決意。2019年に自身ブランドであるANTOSTOKIOを東京にて設立し、世界に向けてコレクションを発信する。

アントス・ラファウ

―アントスさんはオランダ人で、ポーランドで生まれ育ったそうですね。小さい頃の印象に残っている街の情景や、思い出を教えてください。

私はポーランドのラドム(Radom)という小さな工業都市で生まれ育ちました。共産主義の時代でしたので、今とは全く違って、とてもシンプルに穏やかな時を過ごしたと思います。でも街並みがグレー一色だったので、もっとカラフルで幸せな場所に行ってみたいと夢を抱いていました。

 

—ご両親はどんな方で、どんな育てられ方をしましたか?

愛情に溢れた親で、僕や兄弟に対して自分たちの理想や願望を押し付けることなく、自由に育ててくれました。私には兄がいますが、兄が犯した失敗を見て色々学んで良い子にしていたので(笑)、両親も僕が選ぶことに対しては信頼感を持って、何でもやらせてくれたと思います。

 

―幼い頃はどんな子で、どんなことに興味を持っていましたか?

元気いっぱいで、色んなことに興味を持ち、よく物事を観察する子供でした。絵をよく描いていましたね。絵を通して、カラフルで、より良い新たな世界を想像できるから。他は読書も好きだったし、映画もよく観ていました。80年代のポーランドのテレビはとてもセンスの良い番組や映画を流していて、私のお気に入りはフランス映画でした。

 

―ポーランドの教育制度について教えてください。

今はわかりませんが、当時の制度は、小学と中学が一貫で8年間でした。ポーランドはかつてロシアの植民地だったので、ロシア語を学ばないといけないのですが、私は反発していたのであまりいい生徒ではなかったかもしれないです(笑)。中学を卒業後は高校に進学するか、技術の専門学校に行くかの選択肢があり、私は洋裁学校に行って、洋服の仕立てなどを4年間学びました。

 

―当時からファッションに興味があったんですね。

10歳ぐらいからフランスや海外の雑誌を見て興味を持つようになって、テレビでファッションをよく観察してましたね。クリエイティブで鮮やかな色を放つ、華やかな世界に魅せられたんです。その頃からすでにファッションデザイナーになろうと決めていて、友達にはそう信じてもらえなくても、自分の中ではこれだ!とわかっていました。それで洋裁学校に入って、それまではあまりやる気のなかった私でしたが、とても積極的になり、友達もたくさんできて、執筆したり絵を描いたり、いろんなことに挑戦しました。私のデザイナー人生の基礎がその頃に築かれたと思います。

 

―その後は大学に進学されたんですか?

18歳でその学校を卒業した後、ワルシャワ美術アカデミーのインダストリアルデザイン科に入りました。そこでアートを学んだのですが、オブジェクトを造るのは私がやりたいこととは違うと思って、結局1年で辞めたんです。在学中にワルシャワのファッションのコンペティションに申請して、ファイナリストに残ったこともあり、やはりファッションの道へ進もうと決めました。それでアムステルダムのヘリット・リートフェルト・アカデミーに入学申請したら受かって、95年にアムステルダムに移りました。

 

―そこでファッションについて学ばれたんですね。

ファッションはもちろんのこと、グラフィックデザインもとても興味を持っていたので両方勉強しました。シルクにプリントした洋服を作ったり、今の私のスタイルはその頃から始まっていましたね。面白いことに、卒業制作は原宿のファッショニスタをモデルに作っていたんですよ。当時はもちろん日本に来たこともなかったけれど、i-DやThe Faceなどのファッション雑誌で日本のファッションを見て興味を持っていたんです。

 

―アムステルダムの生活はどうでした?

とても最高でした。90年代当時のアムステルダムは、ヨーロッパや世界において一番自由な都市だったんじゃないでしょうか。カトリック教の強いポーランドから、ルールに捉われず自由なアムステルダムに移って、全く違う環境でしたが、すぐに馴染んで本当に素晴らしい時を過ごしました。私が行った学校は、アバンギャルドで自由な校風を大事にする教育方針で、学生の60%は海外からの留学生だったし、いろんな文化の背景を持った友達もたくさんできました。でも時が経つにつれて、その自由さが少し行き過ぎているように感じ始めて、私自身がアーティストというよりは、もっとコマーシャルな世界で、実現性を持ったデザイナーとして活躍していきたいと思うようになったんです。

 

―その頃影響を受けたデザイナーはいましたか?

たくさんいます。当時で言うと、やはりドリス ヴァン ノッテンや、アン ドゥムルメステールなど、“Belgian 6”の影響は大きかったと思います。ベルギーのアントワープはアムステルダムから近いので、よく遊びに行っていました。ファッション界が盛り上がっていた時期で、とても面白かったです。

 

―アートスクールを卒業後はどのような道に進んだのですか?

友達を通して、ミラノでファッションデザインの仕事を探して、アルマーニのデザイナーとして働く機会を得ました。2001年の頃ですね。アルマーニは僕にとって第一希望のブランドではなかったのですが、大きな会社で経験を積みたいと思って。

 

―そんなに簡単に大きなブランドで仕事を見つけられるものですか?

今と比べると、あの時代は比較的簡単だったかもしれないですね。資金もあって、ファッション業界が盛り上がっていたし、どこのブランドも常に新しい才能を求めていたので。当時デザイナーは全部で30人くらいいました。メンズのデザイナーはイタリア人が多かったけれど、ウィメンズはアイルランド人やアメリカ人、フランス人、日本人など、ほとんどが外国人でした。私はまず、エンポリオ アルマーニのウィメンズで3年、その後ジョージオ アルマーニのメンズに移って、そこでもう3年働きました。

 

―アルマーニでは、どんな経験をされましたか?

2000年初期のアルマーニは最高の時ではなかったけれど、大御所デザイナーの元で色々学べて、とてもパワフルで素晴らしい経験をさせてもらいました。ファッション業界はとても強烈で、大変なこともありましたが、今となっては本当に貴重な経験だったと思います。

 

―ミラノの生活はどうでした?イタリア語はもともと喋れたのですか?

もともとは話せなかったけれど、すぐに習得しました。生活はと言うと、仕事もそうですが、とても強烈な日々でした。そして、ニューヨークで911が起こった後、全てが大きく変わりましたね。世界中がショックに包まれ、ファッション界も大きな打撃を受けて。その後、ロンドンでGAPがヨーロッパ部門を立ち上げ、新たにロンドンにオフィスを設けるとのことで、GAPのメンズディレクターとしてのオファーを受けて、ロンドンに移ったんです。

 

―GAPでの経験はいかがでしたか?

いいチームに恵まれてとても楽しかったです。当時のGAPはオシャレでクオリティも良く、さらにリーズナブルで、個人的にも大好きでした。GAPのイメージからは想像できなかったですが、パリの有名なスタイリストがファッションショーを手がけたり、大きな資金を使ってヨーロッパ部署を作り上げました。ですが、今度はリーマンショックが起き、オフィスを引き揚げることになって。ニューヨーク支社への移動の話もあったけれど、そのタイミングで自分のブランドを立ち上げようと思いました。そう言えば、日本に初めて来たのは、GAP時代に出張で来た時ですね。

 

―初めての日本はどうでした?

京都や大阪、金沢、長野、札幌などいろんな都市に行き、すごく楽しかったです。いつか日本に住みたいと思いました。

 

―日本のどんなところに魅力を感じたんですか?

コム デ ギャルソン、ヨウジヤマモト、イッセイ ミヤケなど、日本のデザイナーはとても好きでしたし、どのお店もディスプレイの仕方や、コレクションの揃え方など統一感があり、ディテールに対してのこだわり、物事の見方など全てが審美的で素晴らしいと思いました。

 

―話は戻りますが、GAPでの仕事を終えて、ご自身のブランドを始めたんですよね?

そう、リーマンショックで暗い世の中になって、ある人物と出会って、その彼と一緒にLAで「U Clothing」というブランドを立ち上げたんです。

 

―ロンドンからLAに移って、自分のブランドを始めるとは、大きな一歩でしたね。

本当に。それまでは大きな会社の下で働いていたけど、急に自分が会社をやる側の人間になるとはね。

 

―LAの生活はいかがでしたか?

LAは運転しないとどこにも行けないから、そういう意味では大変でした。ブランドに関しては、今の僕のブランドとは全く違ったスタイルで、Tシャツやセーターなどのカリフォルニアらしい、シンプルでクオリティにこだわった服を展開していました。それを6年間続けて、イタリアのコモに移った後は、ヨーロッパのストリートブランドのようなスタイルに変えました。そこに2年くらい住んで、またロンドンに戻りました。

 

―本当によく引っ越しをされていたんですね!でも、なぜまたロンドンに戻ったのですか?

ロンドンの方が良いビジネスを回せると思ったからです。プレスもたくさんいるし、いろんな都市に近く、便利だったので。あとは、GAPで働いていた楽しい頃を思い出したりして、単純にロンドンが恋しかったんですね。でも、色々なことが起こって、中国の大手ファッションブランドでコンサルタント/クリエイティブディレクターとしての仕事を請け負うことになって、ロンドンと中国を2ヶ月に一回行き来するようになってからは、とても大変でした。そのうちそこでの仕事の割合が自分のブランドより大きくなり、両立が難しくなったので自分のブランドを辞めて、香港に引っ越して、そこから中国の本社に通っていました。

 

―今度は香港に。初のアジアですね。どうでした?

私には1年中暑い場所は向いていないと思いました。LAに住んでいた時も感じていたことですが、ずっと休日を過ごしていて、リアルな生活を送っているように感じられないというか。四季のあるところで生まれ育ったからですかね。それで何かが違うと思って、当時から好きでよく訪れていた日本に移り住んで。そうしたら、コロナが起きてその会社はクローズしてしまったんです。

 

―それで自分のブランドにフォーカスしようと。

もともとの日本に来た理由がそうだったんですが、結果自分のブランドに集中できることになりましたね。2019年の夏に新たに「ANTOSTOKIO」を立ち上げ、2021年の秋冬から本格的なコレクションをスタートしました。

 

―改めて日本はどんな印象を受けましたか?

日本は過去の記憶が蘇ってくる感覚があり、人々の生き方や、他人に対する接し方などが古風で、ノスタルジックに感じます。全てに対して丁寧で、ルールに従い、世界のどこにもないような、とても特別な場所。私たち人間はいつも未来のことを考えて、何か新しいものを創造したり変化を求めたりしがちですが、過去にいる感覚、伝統を大事にするのは心が美しく洗われるように感じます。

 

―旅行で訪れるのと、実際に住むのとでは違うと思いますが、住んでみてカルチャーショックな出来事などありましたか?

新しいことや驚きはいつもあります。逆にそれに慣れてしまうのは嫌ですね。常に新鮮さを感じていたいです。マンネリに感じた時は京都に行きます。

 

―では、日本に来て最も嬉しかったことはなんですか?

日本に住めていることだけでも、とても幸せに思います。仕事に関しては、僕の服が何かで特集されたり、褒めてもらえたり、実際に着ている人を見た時とか、シンプルなことかもしれませんが、とても嬉しいです。ブランドがスタートしてからまだそんなに経っていないので、大きな出来事はないですが、ブランドを続けているだけでも素晴らしいことだと思ってます。

 

―逆に大変だったことはありましたか?

日本語があまり話せないので、コミュニケーションを思うように取れないことですかね。でも、皆さん私の日本語を一生懸命聞いてくれて、とてもありがたいです。時には大変なこともあるけれど、日本人の方々との仕事はとても楽しいです。

 

―先月は、2022-23年秋冬コレクション「ayumu」を発表されましたが、テーマやコンセプトをお聞かせいただけますか?

テーマは懐古、昔を振り返ることです。ユニセックスで響きの良い名前を探していた時に「歩(あゆむ)」という言葉に出会い、過去から未来に向かって歩んでいくことを意味しますし、良いなと思って。今回が初のフルコレクションとなりますが、ジャケットやスーツはロマンティックな雰囲気を重視し、フォーマルで男らしい素材を使いながらも、ソフトなタッチでカジュアルさも大事にしているので、着ていてとてもリラックスできると思います。また、ボンバージャケットやシャツには、このブランドのシグネチャーとも言えるバンダナコレクションのデザインを基に、枯山水の石や紅葉など禅の世界を表現して、シルク素材にプリントしたものなどもあります。

 

2022-23年秋冬コレクション「ayumu」

―本当にどれもとても美しいですし、アントスさんの素材へのこだわりも感じられます。

私にとって、見た目だけでなく着心地の良さはとても大事なことなので、素材は全て尾州のウールや100%シルクを使用しています。着ていただければその良さはわかっていただけると思います。

 

―素晴らしいです。ところで、6月に開催されるBunkamuraシアターコクーン で上演される「NINAGAWA MEMORIAL パンドラの鐘」で衣裳デザインを担当されることになりましたが、きっかけについて教えてください。

去年の2月に渋谷のパルコでポップアップショップを開いて、初のコレクションを販売していたのですが、パルコに併設されている劇場で、当時上演されていた舞台の演出を務めていた杉原邦生さんが私の洋服を見て気に入ってくださって。その時はあまり言葉を交わさなかったけれど、私のことを覚えてくださっていたようで、今回このような素晴らしい機会をいただいたんです。

 

―必然的な出会いだったんですね!アントスさんにとって、衣裳デザインを手がけるのは今回が初めてとのことですが、どんなところにやりがいを感じますか?

とても大きなチャンスなので、すごく楽しみに感じています。私は衣裳デザイナーではないけれど、私なりの視点から良いものを作れる自信がありますし、イメージに関しては邦生さんと意思疎通ができていると思うので、問題ないと思います。チャレンジな点は、実際に形にする上での技術的なところですかね。

 

―では、アントスさんがデザイナーとして一番大切にしていることはなんですか?

多くのデザイナーやファッション好きな方たちは、見た目や今までにないものを重視する人が多いと思うけど、私は服に袖を通した時に感じる感情だったり、着心地の良さを大事にしています。だから素材には、とてもこだわっているんです。

 

―デザインにおいては、どんなことからインスピレーションを受けることが多いですか?

雑誌や本、映画など、日常に起きる小さなことでも、いろんなものを見たりして考えているうちに、自分の中でまとまってアイデアになります。最初はわからなかったとしても、後でわかることが多いですね。


—では、オランダ人とポーランド人の国民性を教えてください。

オランダ人はとてもはっきりと物事を言います。小さい頃はポーランドで過ごしたからわからなかったけれど、オランダで過ごして気づきました。ポーランド人はとてもノスタルジックで、詩的な世界感を好みます。私は両方の特性を持っていると思います。

 

—オランダ語、ポーランド語、日本語で好きな言葉は?

オランダ語は「Lucifer(ルシファー)」。英語だと悪魔という意味だけれど、オランダ語ではマッチなんですよ(笑)。ポーランド語は「pączek(ポンチキ)」。ドーナツという意味なんですが、私がドーナツがとても好きなのと、好きな人だったり、赤ちゃんのような愛らしい人のことを呼ぶ時に使う愛情のこもった言葉なので。日本語は「木漏れ日」。サウンドも好きですし、実際に木漏れ日を見ると、いつも故郷を想い出したり希望を持って前向きな気持ちになれるんです。

 

―ポーランドとオランダでアントスさんが大好きな場所はどこですか?

ポーランドはワルシャワです。いろんなカルチャーがミックスしていて、古い街並みを散策したり、美術館に行ったりするのが好きです。最近はヴィーガンフードがとても流行っていて、ヴィーガンレストランも増えているようですね。オランダはアムステルダムをサイクリングで色々回ると楽しいと思います。南の方はブルジョアな雰囲気が感じられるし、住宅街の街並みも良いですね。ただ、今は戦争の影響で様々な状況が変わってきているかもしれません。本当に早く収束して欲しいと思います。

 

—では、日本で大好きな場所は?

ありきたりかもしれませんが、京都はやっぱり特別です。祇園の古い街並みに足を踏み入れれば、その雰囲気に引き込まれるし、例えば道を歩いている時に、どこかから三味線の音が聴こえてきたりしたら、それでもう十分。

 

—アントスさんが好きな日本の文化や特性はどういうところですか?

あるがままを大事にするところ。自然に任せて強制したり何かを加えるわけではないのに、全てがとても美しく、そして、あらゆることに軽さを感じます。そういう日本のミニマルさに惹かれますね。

 

―日本でファッションデザイナーとして活動していきたいと思っている外国人にアドバイスをするとしたら?

行動に移すのみ。私はあまり深く考えずに物事に着手して、やった後に色々と考えだすタイプ。まあ、とにかくやることですね。

 

―アントスさんが日本に住みながらも大事にしているポーランド、もしくはオランダの習慣はありますか?

特にないですね。前から習慣は持ってなかったと思いますが、持つべきかな(笑)。その時に感じることを大事にしています。

 

—日本以外に他に住んでみたい国はありますか?

もう十分いろんなところに住んだので(笑)、日本が良いです。でも、未来のことはわからないですね。

 

—社会で起こっていることで、気になることはありますか?

誰も望んでいない戦争。とても怖いです。母と毎日連絡を取っています。故郷にいる家族、友達、そして何より被害に遭っているウクライナの人々が心配でたまりません。また、いまだにコロナ終息の兆しも見えていないし、世界でいろんな悲しいことが起こっています。でも、そこばかりにフォーカスしてしますと暗くなってしまうので、今自分のできることをやるのみです。

 

―本当にその通りですね。では、今のファッションシーンをどのように見ているか教えてください。

コロナ後は、ファッション業界を含め世界は急変してしまいました。今、ファッションは変化の中にいて、来年もまた変わっていると思うし、どのような流れに進むのか先を読むのが難しいです。人々が服を買うのに、考えたり気をつけるようになっていますが、私の希望としては、人々がもっと自分の着ている服に対して、それがどこでどのように作られたのかとか、どんなメッセージが込められているのかなど、もっと理解力を深めてくれたら良いなと思います。いろんな情報が溢れているし、メディアがコントロールしている部分もあるので難しいこともありますが、大手ブランドばかりでなく、ユニークさを大事にしているローカルのブランドも大切にしていってもらえたら嬉しいです。

 

―今後挑戦したいことや夢はありますか?

まずは、私のブランドの認知をもっと深めたいです。プライベートなことでは、多分皆さんと同じで、ハッピーで穏やかな暮らしを送ること。

 

—最後に、アントスさんにとって、成功とは何ですか?

私にとっての成功は、人生において良い選択をしていくこと。自分が決めた判断に対して後悔するのではなく、常に前を向いてハッピーでいたい。コロナ後の2年間は、あらゆることが思うように進まなくて、心配が尽きず、常にポジティブでいるのは難しかったです。そこにさらに戦争が起き、私たちが受けている心のダメージは自分たちが思う以上に大きいと思いますが、それでも希望を捨てずに頑張っていけば、いつか明るい未来は訪れると信じています。

 

 

COCOON PRODUCTION 2022 NINAGAWA MEMORIAL「パンドラの鐘」

古代から現代へ、遥かなる時空を超えて壮大なスケールで描かれた本作は、「挑戦に満ちた非常に面白い本」と巨匠・蜷川幸雄氏が語った通り、日本の歴史のTABOO に真っ向から挑んだ衝撃作。世紀を超えてもなお色褪せないメッセージを新演出により現代を生きる人々にお届けします。

公演日程:2022/6/6(月)~6/28(火)

会場:Bunkamuraシアターコクーン

詳細はオフィシャルHPにて

 

アントス・ラファウ Information