BICULTURAL SOULS
#26 | Dec 29, 2021

「成功は、努力と運命」。母国ベナンの教育の向上と、文化の発展を願い活動を続けるゾマホンが、苦労連続の半生を通して培ったこと

Text & Photo: Atsuko Tanaka

様々な分野で活躍する日本在住の外国人の方々をインタビューするコーナー“BICULTURAL SOULS”。第26回目のゲストは、ベナン共和国出身のゾマホン・イドゥス・ルフィン(Zomahoun Idossou Rufin)さん。厳しくも愛情に溢れた両親に育てられ、小さい頃から勉強の大切さを知ったゾマホンさんは、努力のもと大学に入学。在学中、あることをきっかけに中国へ留学し、その後94年に来日。学校とバイトの両立で大変な日々を送る中、ある夜立ち寄ったのラーメン屋でスカウトされ「ここがヘンだよ日本人」に出演して一躍注目される存在となった。日本で活躍する一方で、母国に小学校を建設したり井戸を作ったりと様々な功績を残し、2002年にはベナンの国民栄誉賞を受賞。2004年にベナン大統領特別顧問を経て、2012年から4年の間、駐日ベナン大使として就労した。今もなお、ベナンと日本の架け橋として活動を続けるゾマホンさんに、母国での思い出や、中国留学時代、来日してから現在の活動に至るまで、文化の違いや成功についてなどを聞いた。
PROFILE

IFE財団代表・コメンテーター ゾマホン・イドゥス・ルフィン/ Zomahoun Idossou Rufin

1964年、ベナン生まれ。 1980年代後半北京語言文化大学修士。 90年代前半は日本へ、上智大学大学院に入学。 98年偶然にTBS系列のバラエティ番組『ここがへんだよ日本人』に抜擢され、 レギュラー獲得。稲川素子事務所からオフィス北野へ移籍する。 たけし軍団の一員となり、ビートたけしの国際アドバイザーになる。 2000年代に次々と母国で学校建設に励み、ベナン国民栄誉賞を受賞。 2012年〜2016年駐日ベナン大使就任のため、オフィス北野から離れる。 現在は西アフリカと日本の間のコンサルティング業、架け橋として活躍中。

ゾマホン・イドゥス・ルフィン

―ゾマホンさんは西アフリカのベナン出身ですが、どんな場所で、どのような環境で育ちましたか?

私は、ベナンの真ん中辺りにあるダサズメという町で育ちました。経済的首都のコトヌーから北へ車で1時間半、緑や山が多くあるところです。

 

―小さい頃印象に残っている情景や、思い出を教えてください。

月夜のもと、村のみんなで集まって、お年寄りの人から昔のことや、伝統、知恵についての話を聞いたこと。歌も歌ってくれたり、とても楽しかった。

 

ご両親はどんな方で、どんな育てられ方をしましたか?

父は公務員で働き者。私には、勉強や身なり、他人への接し方の大切さなどをすごく厳しく教えてくれました。一番厳しく言われたのは「人生は甘くない」ということ。母は農民で、休みなく働いてました。とても愛情に溢れた人です。

 

―ゾマホンさんが通っていた小学校はどんな学校でしたか?(*ベナンの教育制度は小・中・高と643制で、小学校6年間が義務教育

ダサズメの小学校は、大体一クラス80人くらい。私が行った学校は、屋根は草でできていて、壁はなく、丸太を椅子の代わりにして他の生徒たちと一緒に座って勉強してました。色々学んだり、みんなと遊ぶことが好きだったから、学校はとても楽しかった。

 

―中学時代はどんな日々を送りましたか?

父が過労で亡くなって叔父に世話になることになり、叔父の住むコトヌーへ移って中学に通いました。学校に行く前に、毎朝家の掃除から叔父さんの車を洗ったり、朝食の準備や、私の兄弟の世話などをしました。それだけでもすごく疲れるけど、中学校までは約10キロの道を歩いて通学しなくてはいけない。学校が終わったら走って家に帰って、また家事をやって。夜、宿題をする時は、おじさんには内緒で車の中で電気をつけて勉強をしてました。その頃はまだ家には電気が通っていなかったからね。そんな毎日だったので、学校に行き続けるのは本当に大変なことでした。

 

―その後、高校に進学されて、いかがでしたか?

高校も同じように、学校と家事との両立で大変だった。ベナンでは高校も大学のように専攻があるので、私はアフリカ文学を専攻しました。アフリカが抱えている問題をどう解決したら良いのかをその頃から考えていたんです。でも数学や物理などの理系も得意でしたよ。

 

―そして卒業後、ベナン国立大学(現国立アボメ・カラビ大学)に行かれたのですね。

大学に受かったはいいけれど、学費をどう払うか悩んでいました。ある時うちを尋ねてきた親戚のおじさんが、私が大学に受かったことを知って喜んでくれて、入学金をくれました。経済的に豊かな人が貧しい人を助けるのが私たちの文化です。おじさんには本当に感謝しています。でも、入学金を無事に払えてホッとしたのも束の間、今度はペンやノートなどの文房具を買うお金がない。これもまた他のおじさんたちを尋ねてお金をもらったりしてました。食べ物を買うお金もなかったから、学校でお水を飲んで空腹をしのいでました。

 

―大学時代に、漢字を見て衝撃を受けて、中国に行くことを決めたとか。

たまたま中国大使館の前を歩いていて、漢字を見て、「なんだこれ!」と思いました。それが言葉と知ってびっくり。すごく興味が湧いて、漢字を勉強したいと、これは中国に行くしかない!と思った。そうしたらベナンと中国には国費留学の制度があることがわかりました。試験を受けたら受かって、4年間中国に留学することになったんです。実際に住んでみたら、想像していた中国と全然違って驚きの連続でした。

 

―どんな学生生活を送りましたか?

北京の大学では、中国文化と中国語を専攻し、孫文や孔子の思想を学びました。寮生活を送りながら学校では真面目に勉強して、ルワンダ大使館とかコートジボワール大使館とか、いろんなアフリカの国の大使館でバイトを始めました。掃除や外交官の車の洗車など、真冬の凍える寒い日も、一生懸命。その姿を見て感心した大使が、大使の運転手とか良い仕事をくれるようになり、そのうち大使の専属通訳をすることになった。私は遊ぶことには興味がなかったから、毎日学校とバイトの繰り返し。それで稼いだお金は自分の国に仕送りしていました。

 

―日本に行こうと思ったのはその頃ですか?きっかけは?

大学と大学院のクラスメイトに日本人がたくさんいて、みんなとても丁寧で礼儀正しかった。彼らを通して、日本をもっと知りたいと思ったんです。日本は小さな国で資源が少ないのに、経済大国になった理由も知りたかったし、日本と日本文化を勉強することは、ベナンの発展について考えるのにも役立つと思った。それで修士課程を終えた後、94年に自費で日本に留学しました。

 

―初めて来た時はどんな印象を受けましたか?興味深かったことやカルチャーショックな出来事などありましたか?

中学の頃、学校で日本人はみんな侍みたいな格好をして刀を持って歩いてる、日本は怖い国だと聞いていました。大学時代にできた友達はみんな優しかったから大丈夫だと思っていたけど、やはりちょっと心配でした。でも実際に来たら、街は綺麗で安全だし、みんな優しくて丁寧。びっくりしました。

 

―最初の2年間は日本語学校に通いながら、色々なバイトをされたそうですね。その頃はどんな日々を送られていましたか?

私は高円寺に住んでいたんですけど、毎朝7時過ぎの電車に乗って、午前中は江戸川区の日本語学校で勉強して、その後は千葉まで行って午後2時から6時まで印刷工場でのバイト。時給は450円。終わったらまた今度は中野で8時から9時まで日本人に中国語を教えて。このバイトの時給は3000円だったけど、1時間しか教えられない。人生甘くないね。その後は自転車で東中野に行って、夜10時から朝の3時まで引越し会社のバイトです。これも時給450円でした。それで朝方帰って、3時間くらい寝て、という毎日でした。ある時、疲れていた私は、工場のバイト先で、機械に左手の人差し指を挟んで切断してしまいました。1ヶ月入院してとても辛かった。でも、保険がおりて上智大学大学院の学費を払うことができました。その時に色々とお世話になった高橋さんは、日本での私の保証人にもなってくれた、私にとっての恩人です。

 

―それはとても辛い経験でしたね。上智大学大学院では、主にどんなことについて学んだり研究されていましたか?

日本に住み始めて、日本がこれほどの先進国になった理由には、教育がベースにあると思ったので、ベナンにも基礎教育を普及させる必要があると思いました。それで日本の教育について研究を始めたんです。博士論文のテーマは、「母国ベナンにおける初等教育普及の問題点」でした。

 

―大学院で勉強しながら、変わらずバイトも続けてという生活を送られたんですか?

勉強の内容は専門的なことが増えたし、バイトも同じようにやっていたから、睡眠時間はさらに減って、すごく大変だった。住んでいたアパートはお風呂もシャワーもない、トイレが共同。お湯が出ないから、寒い時も冷たい水で絞ったタオルで体を拭いていました。シャワーやお風呂に入りたいときは銭湯に行く。でも、高くて毎日は行けないから多くても週2回ね。私のように苦労した黒人は、他に日本にいないと思いますよ。でも、日本に住んで勉強できるのは本当にありがたいことだといつも思ってました。

 

―その頃「ここがヘンだよ日本人」などのテレビ番組に出演し、活躍されるようになったかと思いますが、きっかけは?

ある給料日の夜、一生懸命働いたご褒美に味噌ラーメンを食べようと思って、ラーメン屋さんに立ち寄りました。ラーメンを頼んで待っている時に、ある外国人が入ってきて、私の隣に座って、どこの国から来たのかとか色々質問をしてきた。私はお腹がすいていたし、あまり話したくなかったけど、嫌々質問に答えていったら、テレビ収録があるけど明日空いてるかって聞かれたんです。座って喋るだけで12000円もらえるって聞いて、すぐにやる!って言いました。日本に来て4年後の98年3月のこと、運命の出会いですね。

 

―出演してみていかがでしたか?

世界中のいろんな国の人たちが300人くらい集まっていましたが、私は仕事で疲れていて、番組の収録が始まって5分で寝てしまったんです。いびきもかいていたみたい。収録が終了する5分前に、司会者が出演者の中でまだ喋ってない人はいるかって聞いたらしく、私の隣に座っていた外国人が私を指差した。それで私の寝ている様子が映されて、他のみんなが「君は何しに来たんだ!」って怒った。それに対して私は何も考えず、「お金をもらえるから来ただけ、仕事で疲れてるんだよ」と言ったら、みんなはさらに怒った。収集がつかなくなって、大きな声で「静かに!」って言ったたけしさんに、私は「あなた、誰?」って。家にテレビがなくて、たけしさんのことを知らなかったんです。ビートという名前に対しても「なんでビートって付けたの?日本の名前をつけないなんて、あなたは勉強不足ですね」って言った。そうしたらたけしさんは「ごめんなさい、勉強不足で恥ずかしい」ってテーブルの下に隠れたよ(笑)。

 

―そんなエピソードがあったんですね。

あと、日本人の観光客は世界中のどこにでも行ってるという話を、ある人が言って、それを聞いた私は「それは間違っている!」と怒ったんです。私がベナンに住んでいた時、日本人を一人も見たことがなかったからね。その様子が番組の告知映像で何度も使われて、番組の視聴率は水曜の夜のトップになった。それで気に入られて、レギュラーに選ばれました。これも運命ですね。

 

―その後、たけしさんの誘いで軍団に所属され、たけしさんのアシスタントとして働くようになり、今もアドバイザーとしてお仕事されているそうですね。ゾマホンさんにとってたけしさんはどんな方ですか?何か印象に残る出来事などありますか?

私にとって、たけしさんは神様。どんなに偉い人と比べても、心が違う。包容力があって人種差別のない人です。テレビのたけしさんと本当のたけしさんも違います。彼より日本の文化を守ろうとしている人はいないと思います。そして、好奇心が旺盛で、外国のこともよく知ろうとしていて、相手が日本人でも外国人でも、生きる機会を与えようという気持ちを強く持っている。例えば、23年前にこんなことがありました。たけしさんが、ある海外のジャーナリストからインタビューを受ける時に私が同行したことがあったんですが、通訳の人がアフリカのことで間違えた通訳をしました。私は控室でたけしさんに、その通訳の人は間違えているから、代わりに私がやりますと言ったんです。そうしたら、「ゾマホンさん、それはダメだよ。あの通訳の人はあの仕事をして生きてるから」って。「あの人の仕事を取ったら、あの人はどうなる?」って。たけしさんはそういう人です。

 

―素晴らしいですね。ところで、ゾマホンさんはこれまで自国に多くの学校を設立されてきました(自著を出版し、印税で建設)が、今それらの学校はどうなっていますか?

小学校はこれまでに、たけし小学校、江戸小学校、明治小学校、あいのり小学校など7校を設立しました。設立後は国に寄付して、今もうまく運営されています。生徒の人数は学校によって違うけど、それぞれ大体500人から700人くらい。学校では、フランス語の文法から、フランスの地理や文化などが教えられています。生徒たちはみんな静かに授業を聞いて、ちゃんと勉強してますよ。そうしないと教室を追い出されるからね。あとは、たけし日本語学校という日本語学校もあります。日本語や日本の文化、考え方を伝えたいと思って作りました。

 

―そうしてベナンと日本の架け橋として様々な取り組みに挑んできたのですね。

2002年にはIFE財団を設立して、先ほど言った小学校設立のほか、貧しい村に井戸を掘ったり、小学校の給食制度を作ったり、人々の健康と学力の向上に務めてきました。そうした功績が認められて、ベナンの国民栄誉賞を受賞しました。

 

―素晴らしいです。その後はベナン大統領特別顧問(2004年)を経て、2012年から4年間、駐日ベナン大使として就労されましたね。最近は主にどんな活動をされていらっしゃるのですか?

今は主にビジネスのコンサルティング業やアドバイザーとして仕事をしています。多くの日本の企業がアフリカでのビジネスの機会に注目しているので、私はみなさんをベナンだけでなく南サハラの国々にお連れして、仲介役として務めています。


―では、ベナン人の国民性を教えてください。

南サハラの国々の文化はほとんど一緒なので、ベナン、トーゴ、ブルキナファソ、コートジボワールとかの間で文化的な違いはあまりないですね。ベナンにはヨルバ民族とかフォン民族とか、いくつかの民族がいますが、他民族間の文化の違いもないです。個人主義ではなく集団主義で動き、伝統的な文化を大事にします。でも学校に通っている人たちは、フランス語やフランスの文化について学んでいるので、考え方や行動様式が少しずつ近代的になってきています。

 

―母国語のヨルバ語、フランス語、日本語で。ゾマホンさんが好きな言葉は?

ヨルバ語は「ife(イフェ・愛情)」、フランス語は「cher ami(シェー アミ・親愛なる友達へ)」、日本語は「ご協力お願いします」。

 

―日本の人がベナンに行ったら、是非行って欲しいと思うゾマホンさんおすすめの場所はどこですか?

絶対に行って欲しいのは、たけし日本語学校と、あいのり小学校、いのうえ小学校と江戸小学校、明治小学校にも是非行って欲しいです。観光は、帰らざる門がおすすめ。ここに行かなかれば、ベナンに行ったとは言えない名所です。

 

―日本でゾマホンさんの大好きな場所は?

明治神宮。日本の歴史と文化を味わえるから大好きで、よく行きます。あとはここ、赤坂にあるエコ ロロニョン(EKO lolonyon)。ベナンの隣の国、トーゴ共和国のご飯を味わえます。何を食べても美味しいね。今日私が食べたのは、ボマニャニャという、魚介や青菜などを煮込んだ料理。私はこれに辛いソースをたくさんかけて食べる。辛いのは大好きです。

 

左:エコ ロロニョンのオーナーシェフのエドモンド氏と 右:ゾマホン氏も大好きなトーゴ料理のボマニャニャ(魚介類と青菜の煮込み)とアクメ(とうもろこしで作ったお餅)

―ゾマホンさんが好きな日本の文化や特性はどういうところですか?

日本人は、自分ではなく、まず相手のことを先に考えますよね。そういうところは、とても素晴らしいと思います。

 

―逆に変化が必要だと思うところを教えてください。

歩きタバコは良くないですね。あとは人種差別がなくなったらいいなと思います。それと、できるだけ日本の教科書の中でアフリカの現状を教えて欲しいです。

 

―ゾマホンさんが日本に住みながらも大事にしているベナンの文化、習慣はありますか?

自分の国の衣装は必ず着ます。これはヨルバ民族の衣装ね。いつでもどこでも、絶対に着ます、例えマイナス100度だったとしても。あと、家ではご飯はベナン料理を作って食べます。でも、味噌汁とか、フランスのニース風サラダも好きです。ベナンの音楽も大好きね。

 

―今社会で起こっていることで気になることはありますか?

日本をはじめ、先進国にもっとアフリカの現状、地理的、歴史的なことを教えてもらいたい。あと、ベナンの小学校ではフランス語の文法や歴史、中学校と高校ではフランスの哲学など、土着と関係のないことを教えているので、それは問題ですね。自分たちの言葉で、自国の歴史をよく身につけて欲しいと思います。

 

中学教科書に掲載されたゾマホン氏の活躍(東京書籍 新しい社会地理 平成26年版)

―ゾマホンさんが生きていくうえで一番大切にしていることはなんですか?

礼儀正しさです。それさえあれば、頭が良くなくても大丈夫。世界のどこでもやっていけます。

 

―では、ゾマホンさんにとって、成功とは何ですか?

成功は、努力と運命。運命に頼っているだけではダメ。私は大成功してると思います。日本で真面目に生きていたら絶対にいいことが起こる。それは私の経験から知ってます。日本に来られて本当に良かった。神様に感謝します。

 

―最後に、今後の夢を教えてください。

これからも日本とアジア、アフリカの架け橋として、教育面や文化、ビジネスなど様々な領域で活動を続けていきたいと思います。

 

取材協力:

Mr. Dabadie Florent

エコ ロロニョン/EKO lolonyon

住所:東京都港区赤坂2丁目17−72

Tel: 03-6277-6979

https://ekololonyon.com/

 

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