—ご出身はイタリアのローマだそうですね。どのような幼少期を過ごしましたか?
私はイタリアを代表する世界遺産の「フラウィウス円形闘技場」(コロッセオ)の近くで生まれ育ちました。子供の頃は小さくて細かったので、古代グラディエーター達のように体を鍛えようと思って、近所の空手の道場に通っていました。あとはコンピューターとプログラミングが好きで、ハードウェアのパーツを集めていくつかのPCを作ったりもしていました。日本の任天堂やセガやSNKなどのゲームもしていましたよ。
—小さい頃からコンピューターを作っていたとは、意外な一面を知りました。では、ご家族はどんな方達でしたか?
私にとって両親と親戚のみんながファミリーでしたね。週末はローマの南東にあるザガローロという田舎町でみんな集まって、ブドウ畑のところで食事したりしていました。大人はザガローロ産の美味しいワインと美味しい料理を満喫して、子供はサッカーやゲームボーイなどをして遊んでいました。イタリアは日本と同じように少子高齢化社会ですので、一人っ子か2人兄弟が一般的です。従兄弟たちは実の兄弟の様な存在でした。
―イタリアの教育制度と、小中高はどのような学校に通ったのかを教えてください。
イタリアは、小学校が5年、中学が3年、高校が5年というのが一般的です。小学校は私立のシスターの男女共学校に通ったので、朝からお祈りをしたりしていました。中学は公立で、その頃からコンピューターの授業を受けていました。そして空手は一生懸命続けていましたね。その後高等専門学校に進んで、建築とデザインを勉強しました。バチカン周辺に昔から芸術家の工房があって、美術の学校も多いので、そのうちの一つに通ったのです。生徒や先生は個性的で変わっている人が多くて、校内はアンダーグラウンドな雰囲気が漂っていました。相変わらず私はコンピューターとプログラミングが好きで、当時流行り始めていたインターネットも得意でした。友達や従兄弟たちなどに、コンピューターとインターネットの使い方を教えに行ったりしていましたね。
―ベリッシモさんが料理に出会ったのはいつ頃だったんですか?
ローマの真ん中に住んでいると、ラッキーなことに毎日美味しいものに出会えるんです。ローマは古くからイタリアの首都として栄え、昔から多民族国家で外国人がとても多いので、いろんな国の食材が入ってくるんですね。それと、私にはシェフの叔父が二人いたので、子供の頃から夏休みになると彼らの家に遊びに行ったりして、男性が料理する姿を見て料理に興味を持ちました。それで彼らのお手伝いをすることもありましたが、当時はまだ仕事にしたいとは思っていませんでした。
―ちなみに大学では哲学を勉強されたそうですね。
論理的に頭を使う事が好きなので、もともと子供の頃から趣味で哲学の勉強をしていました。私にとって哲学はプログラミングの様なもので、沢山の共通点がありますし、社会と文化を分析するためのノウハウを与えてくれます。それでローマ大学に入学して勉強していました。しかし、ヨーロッパの経済的な不況で、将来的に哲学に関連する仕事が非常に少なくなってしまったんです。そこで哲学のノウハウを活かして、私にとって何が一番必要かを再び考えてみました。まずはもっと世界のチャンスに目を向けてみようと思って、軍隊に入ればいろんな出会いもあってイタリアの他の都市にも行けるし、精神と身体も鍛えられると思って陸軍へ志願しました。
―入隊してみていかがでしたか?
私が入隊したのはニューヨーク同時多発テロの前で、特に戦場などの危険なエリアに行く事がなかったので、運良く、軍人生活は楽しかったです。イタリア中の様々な軍人仲間たちと交流が出来て、凄く勉強になりましたし、沢山のお友達が出来ました。とは言え、軍にいる間は命の危険にさらされる場合もありますし、軍の法律に従わないといけなくなるので色々と自由が奪われます。任期満了後は実家に帰り、ゆっくり休みました。
―その後日本に来ようと?
小さい頃から空手やゲームをやって、日本が凄く好きになっていたので、日本に留学をするため軍隊にいる間に貯めたお金で、2001年の21歳になった頃、日本に来ました。
―日本に来た頃、印象深い出来事は何かありましたか?
90年代はよく2000年前後に日本に大地震が必ず来ると言われていたので、どんな揺れにも非常に敏感で、いつもビクビクしていました。イタリアも地震国ですので、震度7クラスの大きな地震が起きたことがありますけど、ローマはないんですね。なぜなら、ローマの地下は空洞が多い凝灰岩でできていて揺れが吸収されるので、大きな地震が起きても町はあまり揺れないんですよ。僕がローマに住んでいた時も、10年に一度、震度1とか2程度の地震しか起きませんでした。ある日、大きい地震というのがどのくらいのものなのかを知りたくなって、関東大震災のような大地震の揺れを再現する機械があると聞いて、その体験ができる都内の防災館に行ったんです。それで大体どの程度なのか理解できたので、ライフスタイル等の対策を考え始めました。
―それは珍しい体験をされましたね。他に、カルチャーショックだったことは?
楽しいことの方が多かったですね!でも、日本の飲食店の値段とサービスには驚きました。例えば牛丼屋のように安い値段で、美味しいご飯と良いサービスを提供しているところがたくさんありますよね。イタリアでは、ランチは安くてもその3、4倍はします。また一方で、銀座の高級クラブのようなとても高いものもある。そして、そんな対照的なお店がたまに同じエリアに隣接していたりするので、それにもびっくりしました。
―確かに、面白い着眼点ですね。学校生活のほうはいかがでしたか?
私が通っていた日本語学校(神田YMCA)の生徒はほとんどアジア人で、ヨーロッパ人は2、3人、イタリア人は私だけ。私は自分のことを“ミスターYMCA”と呼んでいたら、そのうちみんなからもそう呼ばれるようになりました。イタリア人らしくコミュニケーション能力を活かして、異文化コミュニケーションをうまく取っていたのです。中国人や韓国人など、みんなと仲良くして、いろんな国のグループからいつもパーティーや飲み会に誘われていました。盛り上がっていましたね(笑)!
―さすがです!料理人としてのキャリアはどのようにして始まったのですか?
クラスメイトはみんなバイトをしていたので私も何かやろうと思って、最初はモデルをしたりイタリア語を教えたりしていました。少し経って料理を教えようと思って色々調べたら、公民館でキッチンが安く借りられることを知り、そこで料理教室を始めたのです。来てくれる人を集めようと、近所のあらゆる掲示板にチラシを貼ったり、近所の人たちに頭を下げてお願いしたりしましたが、なかなか集まらなかった。それでホームページを作って発信したり、雑誌に営業をしに行ったりして、少しずつ生徒が増えていき、料理関連の仕事依頼も来るようになりました。
―最初はどんな仕事をされていたんですか?
女性誌などでイタリア料理のレシピの紹介などをしていました。学生の頃、僕は友達に料理を振る舞うのが好きだったのでよく作っていたんです。そうすると友達が料理本を持ってきてくれるようになって、そこに載っているイタリア料理のレシピを見たら「何だ、コレ!?(笑)」と思って。本場のイタリア料理とだいぶ違っていたし、これなら僕にもできると思いました。
―それで、料理だけですぐに生活していけるようになりました?
いいえ、10年くらいかかりましたよ。よく「石の上にも3年」と言いますが、そんなに甘くなかったですね(笑)。しばらくはモデルやエキストラなどのフリーランスの仕事をしながら料理をやっていました。そこで少しずつネットワークを広げてビジネスチャンスを掴んでいったのです。だんだんとテレビに出る機会とかが増えていくと、最初の頃に断られていた大手事務所から逆にスカウトされるようになったりもしましたが、よく考えてみた結果、大手事務所に入るメリットが少ないと判断して、結局自分でやる道を選んで株式会社を立ち上げました。あの時そうすることを選んで本当に良かったと、今つくづく思いますし、最初から信じてくれていた方々に感謝の気持ちでいっぱいです。
―ちなみに古代ローマやルネサンス期の料理を研究されているのですか?
2017年から北京大学のダニエーレ・マクッリャ准教授と、昔のイタリア料理レシピの研究をしています。古代ローマ人のカエサルやルネサンスのレオナルド・ダ・ウィンチなどが実際にどんな料理を食べていたのかをリサーチし、その歴史を紹介して、レシピを今の食材に合わせて再現しています。おかげ様で、東京大学をはじめ、日本、アメリカ、ヨーロッパの大学や文化会館で沢山のイベントを開催させて頂いていますよ。とても楽しいプロジェクトです。
北京大学のダニエーレ・マクッリャ准教授と
―オリーブオイルのソムリエでもありますが、お勧めのオリーブオイルを教えていただけますか?
いくつかありますが、品種で言うとイトラーナが好きです。トマトの風味がするんですよ。基本のオリーブオイルの楽しみ方は、辛みの強いもの、苦味が強いもの、デリケートで落ち着いたものなど、3本くらい違う品種を揃えて、料理に合わせて変えるのがいいと思います。苦みと辛みはポリフェノールで決まり、ポリフェノールが豊富だと味がしっかりしていて、時間と共に酸化するのでその味は消えていきます。ちなみにオリーブオイルの収穫の時期は、北半球で大体9月頃から11、12月です。出来たばかりのオリーブオイルは新鮮過ぎるので、味が非常に強いです。1ヶ月落ち着かせて使った方が良いと思います。また、オリーブオイルはワインと同じように、今年は出来がいいとか、去年はまあまあ、一昨年は良くなかったとか、毎年産地によって出来が違いますし、オリーブの品種によっても味は変わるので、そういった知識を持ったプロフェショナルなオリーブオイルのソムリエがこれからの時代もっと必要になっていくと思います。
―では、コロナ後、ベリッシモさんの考え方や仕事において、何か変化や影響が出たことなどはありましたか?
日本に来た頃から、いつか大きな地震が来るかもしれないと想定して、そうなった時の準備は常にしていました。まさかコロナが起きるとは思いもしてなかったけど、危機の時期が必ず来ると予測していたので、落ち込むことは全くなかったです。どんなことが起きても、その中で自分に何ができるかを見極めることが大事だと思いますし、どんなチャンスを掴むかはその人の能力次第だと思います。私は長いことこのマスコミ業界で活動してきましたが、色々なことが刻々と変化しています。主流だったテレビの影響力は昔と比べると弱くなって、今はOTTサービスやSNSの力が強くなってきています。ですので、私は料理研究家としてYouTubeのチャンネルで料理動画の発信をしたり、ライフスタイラーとしてSNSなどで好きなファッションやレストランを紹介することにフォーカスしています。そうやって常に新しいプラットフォームの可能性を分析し、そこで何が出来るのかを考える事が大事だと思います。
―インスタでも、その活躍ぶりを拝見しています。ベリッシモさんはファッションセンスもとても素敵ですが、好きなブランドなどありますか?
私はブランドに拘るというよりは、食材と同じように、そのものを見て判断します。実際にお店や工場などに行って、お店の人や職人さんとコミュニケーションを取りながら、どれにするか決めるのが好きです。イタリアのいいところは、プレタポルテを扱うショップなどにもファッションの知識が豊富なベテランの店員がいて、似合うものや最新ファッション情報などを教えてくれたりするところです。服はコミュニケーションツールだと思うので、ただ流行りで買ってしまったら面白くないし、もったいないです。自分がどういう人で何を伝えたいとか、見た人にどんなことを感じて欲しいかなどを考えながら選ぶのが賢いですよね。
―おしゃれな着こなしのポイントは?
バランスがすごく大事ですね。女性が主人公ですので、男性はあまりかっこ良すぎるとキザっぽくて嫌われるので、ちょっとしたかわいさや、かっこ良さの中にも自分らしさと味を出すのが大事かなと思います。あとは、服がより良く見えるように体を鍛えること。それと同時に、脳も鍛える。男性も女性も、会話を通して魅力を感じる人は素敵ですね。
—では、イタリア人の国民性を教えてください。
イタリア人は、昔からアフリカやアジア、ヨーロッパなどのいろんな民族の遺伝子が混ざっているので、これといった国民性はあまりないんです。共通点で言うと、ジェスチャーをよく使いますね。古代から違う民族や文化が入り混じって、言葉が通じないからジェスチャーがすごく発達したのです。あとは、どこに行っても笑顔で、誰とでも仲良く友達になろうとするところですかね。そのように柔軟性を持つことが大事だと思います。私も日本に来てからは、日本の文化と風習をしっかり勉強しながら、日本のスタイルに合わせて自分のノウハウを活かす事に心がけています。
—日本語とイタリア語で好きな言葉は?
学生の頃、日本語の四字熟語を勉強しました。その中で「七転八起(しちてんはっき)」がとても印象的でした。イタリア語は、古いイタリアの言葉であるラテン語のことわざが好きです。「Mens sana in corpore sano (メンス・サーナ・イン・コルポレ・サーノ)」(健全なる精神は健全なる身体に宿る)を大事にしています。空手の生徒たちにこのモットーを教えています(笑)。
―イタリアに行ったら是非行って欲しい、ベリッシモさんが大好きな場所はどこですか?
故郷のローマですね。ローマはどこも美しいですが、日の出の時間に歴史地区のお散歩をしてもらいたいです。静けさの中、ローマの色と香り楽しむことができますので、非日常的な神秘的な魅力を感じられると思います。
—日本で好きな場所はどこですか?
日本全国好きですが、最近仕事で沖縄本土、石垣島や宮古島などによく行きます。海を眺めてサンセットを見ながら、美味しいワインを飲んで葉巻を吸って、美味しい料理を食べる。そして美しい女性と会話をして。そういうことができるのは沖縄ですね。
—ベリッシモさんが好きな日本の文化や特性はどういうところですか?
昭和のデザインが好きです。平成、令和のデザインは欧米の影響が強くてあまり好きではないですね。昭和のデザインは日本の文化の深みを実感させてくれるスタイルなので、そのまま進化して欲しかったなと思います。開発によって古い商店街とかがなくなって、昭和のテイストが少なくなってきているので、とても残念です。
―では、小さい頃からずっと続けていらっしゃる空手から学んだことを教えてください。
空手はやり始めてから30年以上経ちます。空手家として一番大事なのは、自分の人生に満足すること。満足するために、自分が持っている力は出し切って、人を尊重して、謙虚な気持ちでできることは全て挑戦することです。空手からはそういう精神を学びました。
オマーンの砂漠にて
―ベリッシモさんが日本に住みながらも大事にしているイタリアの文化や習慣はありますか?
ワインの質に拘ることです。日本の人もお酒が大好きな方は多いですけど、飲んで酔うことは好きでも、本当に質のいいものを飲んでいるかと言ったらどうなのでしょう。せっかくの貴重な人生なのだから、美しい人と本当に美味しいお酒を飲んで、上品な会話をしながら、いろんな国の芸術と美食を楽しみたいと思います。まあ、そういうことを大事にしていますね(笑)。
—他に住んでみたい国はありますか?ずっとこれからも日本にいる予定ですか?
もちろんです。日本を拠点にして、アジアとのビジネスを増やしていきたいです。アジアは他にも美しい国がありますので、とても興味があります。東南アジアが好きで、特にタイとかラオス、ミャンマーによく行っています。日本とイタリアの中間にあって、どちらにも行きやすいのでいいですね。あとは中東も好き。いずれにせよ、古い歴史と美しい文化があるところに強く魅力を感じます。
—世の中で起こっていることで、気になることはありますか?
少し前ですが、ユーロ2020(UEFA欧州選手権)で、サッカーのイタリア代表がイングランド代表に勝ったことです。試合の前、イングランド人は自分の代表が優勝すると思って、“It’s coming home”( 「トロフィーがサッカーの母国(ホーム)であるイングランドに戻ってくるぞ!」)と言っていたのですが、結局イタリア代表に決勝戦で負けてしまって、謙虚さがないとネット上でニュースになりました。それで“home”が“Rome”になって、“It’s coming Rome”になりました(笑)。謙虚な姿勢を持つ事の大事さを改めて実感しました。
―では、今後やっていきたいことや夢はありますか?
人間の脳は無限な可能性があると信じていますので、やっていきたい事は星の数ほどあります。僕の仕事に関しては、社会貢献しながら時代の変化に合わせて多方面的に進化し続けていきます。芸術や美食を楽しむために、変化と進化を繰り返しながら初心を忘れず前進していきたいと思っています。
―ベリッシモさんが生きていく上で一番大切にしていることは?
食べることは特に大事にしています。質の良いものを食べれば、良い体が作られるし、健康でいられて病気はしがたいです。質の良い栄養を摂れば頭も良くなるので、食べるものには拘りたいと思います。そしてこの「食」の大事さを、もっと子供たちに知ってもらいたいです。子供たちの明るい未来のために、次世代育成もしっかり大事にしていきたいと思います。
―最後に、ベリッシモさんにとって成功とは何ですか?
自分の人生をやり切ったと、喜んで笑顔でこの世を去ること、それが私にとっての成功です。
取材協力:メズム東京
住所:東京都港区海岸1丁目10-30
TEL: 03-5777-1111
メズム東京、オートグラフ コレクション / mesm Tokyo, Autograph Collection
JR東日本グループとマリオット・インターナショナルが初提携し、2020年4月に開業したラグジュアリーホテル。ホテルロビーやバルコニー付きの客室や、「アーティストのアトリエ」がコンセプトのバー&ラウンジ「ウィスク」からは、日中は浜離宮恩賜庭園の爽やかな緑と水辺のコントラスト、夜は非日常に誘われるベイエリアの煌めく夜景が一望できる。