BICULTURAL SOULS
#24 | Jun 23, 2021

NHK総合テレビ番組「BENTO EXPO」のMCを務め、バラエティーやCMと幅広く活躍する人気タイ人タレント。活動を通して、日本とタイの架け橋に

Interview & Text: Minori Yoshikawa / Photo: Atsuko Tanaka

様々な分野で活躍する日本在住の外国人の方々をインタビューし、日本と祖国の文化の違いなどをお話し頂くコーナー“BICULTURAL SOULS”。第24回目のゲストは、タイのチョンブリー出身で、タレントとして活躍するサハノンチャイクン・ブンシリさん。外国人観光客が多く訪れるビーチの近くで育った影響で、幼少時から海外に住む夢を持っていた。歴代首相などが卒業したことで有名な名門、タマサート大学を首席で卒業後、タイ国政府観光庁認定ガイドライセンスを取得し旅行会社に勤務する。その後、海外移住を夢見て応募した読売新聞の日本留学奨学金に受かり、2002年に初来日。2003年に木村拓哉主演のTBS系人気ドラマ「GOOD LUCK!!」へのエキストラ出演をきっかけに、今では人気タイ人タレントとしてレギュラー番組を複数持つ。NHK総合テレビで放映中(毎週火曜12:20~)の弁当ドキュメンタリー番組「BENTO EXPO」でMCを務めるほか、TBS系列「世界くらべてみたら」等多数のバラエティー番組、ドラマや映画、CMなどに出演している。また、タイ代表として出演していた「ネプ&イモトの世界番付」では、家族に内緒でタイに帰国するサプライズ企画で最高の親孝行ができたと言う。日々の生活の中で、常に感謝することに重きを置くブンシリさんに、大切にしていることや幸せの定義などについて聞いた。
PROFILE

タレント ブンシリ/ Bunsiri

1978年タイ・パタヤ生まれ。2001年国立タマサート大を首席で卒業。日本には読売新聞奨学金制度で来日。日本大学藝術学部にて演劇を学び日本の芸能界へ。以来、タイと日本の架け橋的存在として、NHK総合「BentoExpo」やTBS系列「世界くらべてみたら」、情報番組等のコメンテーターなど多方面で活躍。底抜けに明るい笑顔で、幅広いファンに人気を博すタイ人タレント。

ブンシリ

—ご出身はタイのチョンブリーだそうですが、どんな場所、どのような環境で育ちましたか?


出身地はチョンブリー県のシーラーチャー群というところで、父が区役所に勤めていたので、区から提供された家で育ちました。団地のように区役所職員の家がずらっと並んでいて、そこの子供たちと近くの森で遊んだりしていました。とてもやんちゃな子でしたね。自然に囲まれた環境だったので、週末にはよく海に行って、大きな岩の下に潜む魚や海老などを獲ったりしていました。

 

—小さい頃印象に残っている街の情景や、当時の思い出を教えてください。

家からちょっと離れたところにあるロイ島という島まで、シーラーチャー群本土から橋の様なコンクリートでできた道路が渡っていて、歩いて行けるんです。500mくらいあって、島まで歩いて渡りながら見れる風景がとても印象に残ってますね。島に着いて小高い丘を登ると、山頂にはワット・コ・ロイという寺院があります。100年以上前にラーマ5世が建てて、僧侶をそこに呼んだと言い伝えられています。今では地元の人々が美しい景色を見て癒されるために訪れる神聖な場所です。僕も友達や家族とよくピクニックしに行きました。

 

—その美しい情景が目に浮かぶようで是非行ってみたいです。ところでご両親はどんな方で、どんな育てられ方をしましたか?

裕福な家庭というわけではありませんでしたが、公務員でしたので、区から助成金や福利厚生、健康保険などが支給されていましたが、給料は高くなく5人も子供がいたので、どちらかと言うと家計は苦しくて、欲しいものを買ってもらえることはほとんどなかったですね。例えば、当時カセットテープさえも1個しか買ってもらえなくて、ラジオから流れたお気に入りの音楽を、1個のカセットに繰り返し録音して使ったりしてました。父は、わずかな給料の中で好きなこともうまくやり繰りしていました。例えば、ギャンブルが好きでしたが、家族に迷惑かけないよう、わずかな給料の中でうまくやりくりして、家計を支えてもいました。母は専業主婦で、料理がうまくてとても優しい人です。両親共に自由に育ててくれたのですが、一番上の兄だけは非常に厳しかったですね。17歳離れていたので理不尽なことでよく怒られました。寝坊でもするものならみっちりお説教されたり。父はそういうことは何も言いませんでしたが、家は裕福ではないし財産もないのだから、できるだけ勉強して知識を財産にするようにとだけは言っていました。ですから僕は、勉強は小さい頃からよくしましたね。

 

子供の頃。両親と

—調和の取れた素敵なご家族ですね。それでは、中学、高校と通っていた学校はどんな学校で、そこではどんなことを学びましたか?

シーラーチャーでは有名な、幼稚園と小中高一貫の大きな学校に通っていました。そして小4から高校を卒業するまで吹奏楽部に所属しました。大会の前になると学校で合宿しながらの特訓があるのですが、仲の良い友達みんなと寝食共にできて、寝坊してもすぐクラスに行けるし、とても好都合で楽しかったです。楽器にホルンを選んだことは少し後悔してますけどね。サックスとか人気なものを選んでいたら、その後も演奏する機会が持てたかもしれないですから(笑)。

 

―音楽以外に興味を持っていたことはありましたか?

実は音楽も特に興味を持っていたわけではないんです。兄が入っていたので覗いてみたらホルンを渡されて…。友達もいたから楽しくて、気付いたら高校卒業まで続けました。その頃興味を持っていたのは映画やドラマを観ることでしたね。今はホラーが好きでよく観ますが、当時は映画館に行くお金もないし、ネットもなかったので、テレビで放映されているものを観るくらいでした。

 

高校生の頃

―その後、歴代首相などが卒業したことで有名な名門、タマサート大学に通われたそうですが、どうしてこの大学に行かれたのですか?

もともと弁護士になりたいという夢があって、タイで法学部が有名なのはタマサート大学だったんです。自分のステータスを上げるためにも田舎街から出て都会で生活をしたかったので、実家から2時間離れたタマサート大学はそういう意味でもちょうど良かったんです。結局第一志望の法学部には偏差値が足りず、第二志望の社会学部に入りました。

 

―タイも日本みたいに大学に入るのは難しいんですか?

大学にもよりますが、難しいと思います。僕が高校まで通っていた学校は田舎の学校だったので、教育レベルも高くなかったですからなおさらです。その年にその学校から全国テストに受かったのは僕だけでした。子供の頃から分析する力はある方で、仕組みを理解するのが得意でした。持ち前の分析力で何がテストに出るのか事前に予想して、効率良く勉強していました。

 

―大学時代はどんな学生生活を送っていました?

当時バンコクに住んでいた姉の家から通っていましたが、トゥクトゥク(三輪タクシー)と小さな乗り合いの車、船まで使って通っていて、渋滞の具合によっては2時間くらいかかりました。サークルには入らず、バイトすることは兄から禁じられていたので、友達と遊んだりして過ごしていました。同級生は真面目な人が多く気の合う人がいなかったので、後輩とよく飲みに行ったりしていました。社会交流をすることは大事ですから、食費を削ってでも飲みに行きましたね(笑)。その代わり、家ではカップラーメンや、ソースをたっぷりかけて味を濃くした素焼きそばをおかず代わりに食べたりして、お腹を満たしていました。

 

大学の卒業式。家族と

―大学生活のそういうところはどこの国も同じですね。卒業後、タイ国政府観光庁認定ガイドライセンスを取得されたそうですね。

はい、子供の頃、パタヤと言う観光客が多く訪れるビーチでよく遊んでいて外国人を目にすることが多かったので、その頃から大使館などで働いて、海外に行くことが夢だったんです。卒業後に同じ大学で旅行コースに再入学し、ライセンスを取得しました。取得後旅行会社で1年働いて、ガイドとしてではなく予約受付の仕事をしました。そこでよく旅行会社が集まるセミナーに参加させてもらい、キャセイパシフィック航空のセミナーに参加した時に、抽選で香港旅行が当たったんです。それが僕の初海外旅行でした。

 

―そうだったんですね。日本にはいつ頃から何をきっかけに興味を持たれたのですか?

高校性の時にパタヤで遊んでいて、色々な外国人と会う機会があったのですが、中でも日本人はみんな性格が良いのが印象的だったんです。出会って意気投合して、ボーリングに行ったり食事したりして、最後に別れる時に必ず「一緒に撮った写真を送るから住所教えて」って言われて。一度しか会ってない人がそんなことしてくれるのか半信半疑でしたが、本当に律義に送ってくれるんですよ。初めて現像された写真に手紙が添えられて送られてきた時は感動しました。それから日本にはずっと好印象を抱いていたんです。

 

―その後、実際に日本に来ることになったきっかけは?

タマサート大学では毎年一人、筑波大学に交流学生として行くことができる奨学金プログラムがあったんです。どうしても行きたくて応募し続け、3年生の時にやっと受かりました。出発に向けて1年間日本語を勉強したのですが、書類不備があって無効になってしまいました。すごく楽しみにしていたので失望していたら、兄が読売新聞の奨学金で日本に行けるプログラムを見つけてくれて、運良くそれに受かって日本行きが実現しました。

 

―日本に初めて来た時はどんな印象を受けましたか?

最初住んだのは神奈川川崎市の鷺沼という街で、ゴミ一つ落ちてなくて、なんてきれいな街なんだろうと思いました。あと日本の安全性にも驚きましたね。タイの家の窓には必ず防犯の鉄格子があるのですが、日本にはないので驚きました。

 

日本に来日した頃

―カルチャーショックなことなどありましたか?

家具などまだまだ使えるものをゴミとして捨てることですね。今でこそメルカリなどのアプリを通して売る人も増えましたけど、未だに捨てる人は多いですよね。日本に来たばかりの頃、新聞配達をしていて、夜中の2時とかに住宅街を走ると、いたるところに家具が置いてあるんです。今は違法ですけど、当時は勉強机を持っていない僕の為に、先輩が机を拾ってくれました。なんでお金を払ってまで捨てるのか未だに理解できないです。

 

―いい状態のものがゴミになるのを見るのは心苦しいですよね。当時、読売新聞の奨学金制度のため、2年間新聞配達をしながら日本語学校に通われたんですよね?どんな体験をしましたか?

日本語をより早く習得したかったので、学校で勉強する傍ら日本のドラマを観たり、歌を聴いて勉強しました。当時はパソコンもなかったので、500円の歌の本を買って歌詞を見ながら聴くんです。モンパチやゆずなどの歌謡曲が主でしたね。日本語学校の後は、文部省から奨学金が下りて、東京農業大学に1年間研究生として行きました。その頃既に芸能会に興味があったので、研究制度を終えた後はその大学には行かず、日本大学の芸術学部に一年間通いました。

 

―どうして芸能界に興味を持たれたんですか?

学生生活を送っていたある日、タイ人の友達からタイ人エキストラの求人の話を聞いたんです。なんとなく楽しそうだなと思って、事務所にエキストラとして登録をして応募したら採用されたんです。それで最初にもらった役が、「GOOD LUCK!!」という木村拓哉さんが主人公のドラマで、木村さんが操縦する飛行機がタイに到着して、ホテルで鞄を運ぶベルボーイの役でした。画面に映ったのは一瞬でしたが、学校の友達や知り合いに「見たよ!」と言ってもらえてすごく嬉しかったんです。それがきっかけとなって、他にもCMなどの仕事をもらえるようになりました。そのうち、それを見た知らない人からも声を掛けられるようになって、異国に住む寂しさのようなものが和らいだんですよね。僕なんてタイにいたら普通の人だからテレビに出られる可能性はほぼないのに、日本ではタイ人であることでチャンスを掴みやすかったんです。

 

―その後は、学校と両立しながら芸能活動を続けられたんですか?

そうですね。でも、日本大学に通っている頃には仕事も結構入って来るようになっていたので、学校に行くより現場での経験を優遇して一年で辞めました。でも芸能の仕事だけでは食べていけないので、レストランで働きながら活動を続けました。その頃、笑っていいともの俳句コーナーの準レギュラーとして出させて頂いたり、ある程度の知名度は付いたのですが、その後は少し停滞気味になってしまって。その頃今の奥さんとなる人と、彼女が英語圏に留学したかったこともあり、イギリスに1年と、オーストラリアに1年住みました。とても楽しかったですが、日本の住みやすさが恋しかったのと、そろそろ真面目に責任のある生活をしなくてはという思いから日本に戻りました。以前お世話になっていた芸能事務所に再登録に行くと、ありがたいことにその翌日からお仕事を頂けて、芸能生活に戻ることができました。

 

―これまでたくさんの番組に出演されていますが、特に印象に残っている番組はありますか?

「世界番付」という番組で頂いた、父に内緒でタイに里帰りするサプライズ企画です。父はテレビ局の方を連れて帰った僕を見て、本当に驚いて泣いて喜んでくれました。日本に未だに来たことがない父に、日本のテレビ番組で活躍している姿を見せて親孝行することができ感無量でしたね。夢が一つ叶いました。

 

「世界番付」で、タイにサプライズの里帰りをした

―芸能界で生きていくのは大変なことだと思うのですが、どのようにして仕事を維持されているのですか?

おっしゃるように生き残っていくのは容易な事ではないです。僕の代わりになる人はいくらでもいますからね。もう始めて長いので、新人の方よりは何が求められているかを理解していますが、自分が特別だとは思っていません。努力を怠ればすぐ追い抜かれてしまいます。僕ができるのは、頂いた仕事に対して100%以上の自分のできる事をして、また呼んでいただいたり、レギュラーを継続させてもらえるように努力し続けることです。

 

―継続あるのみですね。では、仕事を通して大変だったこと、嬉しかったことなど教えてください。

大変なところは会社員と違って仕事が保証されてないところですね。今嬉しく思っているのは、MCを務めさせてもらっている「BENTO EXPO」でアドリブを認めてくれることが増えてきたことです。自分らしさを出させてくれているのがとても嬉しいんです。もう一つは、テレビで僕を見て、タイに行きたいと思ってくれる人が出てきてくれていることです。僕がテレビに出ることで日本人がタイに興味を持ってくれて、旅行で訪れてくれることでタイの産業が少しでも潤ってくれたら嬉しいですね。タイのホテルに泊まってトゥクトゥクに乗って屋台でご飯を食べて、マッサージを受けたりして、日本人の人達には楽しい思い出を作ってもらえるし、タイの裕福でない人たちに貢献できたらいいなと思います。

 

―素敵ですね!その他にやってて良かったと思うところや、やりづらいと感じることはありますか?

テレビに出始めた頃は、よく番組を観てくれた人たちからメッセージをもらっていて、それがすごく嬉しかったし励みになりました。頻繁に出るようになってからは逆に少し減ってしまったので、ちょっと寂しいです。やりづらいところは、意見を自由に発言できないことですかね。タイはニューハーフが多いからLGBTの発言も普通にできるんですけど、日本ではまだまだ公にされていなくて息苦しく感じます。どんどん話題に出して、伝えていかないといつまで経っても変わらないですから、そういうところがもどかしいですね。

 

—では、日本語とタイ語で好きな言葉はなんですか?

日本語は「一期一会」です。一つの出会いがきっかけで他の人にも繋がったり、他のことに発展したりするのだから、その出会いに感謝するというのはすごく素敵な考えだと思います。知り合いの日本人で、僕と出会ったことがきっかけでタイに興味を持ち始めて、すっかり魅了されて移住した人がいるんです。人生何があるかわからないですね。タイ語で好きなのは「コップンカー(ขอบคุณ ค่ะ) 」、ありがとうという言葉です。感謝する気持ちを言葉に表すのはとてもいいことだと思います。いいことをしてくれた人にありがとうと伝えることで、その人もその言葉に支えられて、もっと頑張ろうとか、いい人でいようなどと思えるでしょうから、伝えるべきだと思うんです。

 

—どちらも感謝することを大切にされているブンシリさんらしいチョイスですね。それでは、タイ人の国民性を教えてください。

大丈夫という意味の「マイペイライ(ไม่เป็นไร)」という言葉があるんですけど、タイ人はよく使うんです。何があっても「大丈夫、大丈夫」って。そしていい意味で物事を忘れやすく、臨機応変ですね。

 

―タイに行ったら是非行って欲しい、ブンシリさんが大好きな場所はどこですか?

プーケットですね。白浜のビーチは綺麗だし、シュノーケリングをして魚と泳いだり、日常を忘れて楽しめると思います。

 

ブンシリおすすめのタイの避暑地、プーケットにて

—日本で大好きな場所は?

草津です。冬に初めて行った時、雪に囲まれた街を流れる川の水がすごく熱かったのには感動しました。温泉が川として流れているなんて考えたこともありませんでした。僕はお風呂が大好きで、収録前は必ず銭湯に行って顔をマッサージしたりするんです。収録でスベった時にも行って、チャラにします(笑)。タイにはお風呂に入る文化がないのですが、日本に来てからお風呂のリラックス効果にはまりました。銭湯に行くと少なくとも2時間は入りますね。最初の1時間で「体を洗って湯船に浸かる」を3セット程繰り返します。次に熱い湯船と水風呂に交互に入るんです。高円寺の小杉湯が清潔で好きで、よく行ってますよ。

 

ほぼ毎日通っているという小杉湯

—では、ブンシリさんが好きな日本の文化や特性はどういうところですか?

その道に長けた職人に一目置いているところです。タイは完全なる学歴社会で、大学、大学院に行って学位を取ることで認められます。日本も学歴重視なところがありますが、専門性を高め、卓越した人を尊敬して崇めますよね。例えば自分の子供がゲームが好きで、その道に進みたいと言ったら、気持ちを尊重してサポートする親が多いことも素敵だなと思うんです。

 

―逆に変化が必要だと思うところを教えてください。

もう少し融通が効く社会になればいいなと思います。例えば、日本でレストランに行って、炒飯に目玉焼きを乗せてと頼んでも、大抵はやってくれないじゃないですか。僕からしたら、お客さんがそれを求めてるんだったら、難しいことではないし、やってあげればいいのにと思ってしまいます。他にも、八百屋さんに開店10分前について何か買おうとすると、まだ開店前だからと売ってくれなかったり。日本人が約束事をきちんと守ることは素晴らしくて大好きですけど、そういうところはもう少しゆるくてもいいんじゃないかなと思いますね。ちゃんとしすぎていても、生きていて苦しくなってしまうと思うので。

 

―日本の社会がより良くなるには何が必要だと思いますか?

教育制度から変えていく必要があるんじゃないかと思います。日本の制度は受験勉強には力を入れていますけど、身になる教育はあまりされていないように感じるんです。タイでは、小中高は勿論、幼稚園から落第制度が適用されています。日本では、塾通いは大変そうですけど、学校の勉強はそれほどしなくても、テストに受からなくても進級できちゃいますよね。あと、発展途上国で学校に通えないでいる多くの子供たちの存在を教えることも良いのではないかと思います。日本の子供たちは学校に通って勉強できることが当たり前で、それがどんなにありがたいことかを理解できてないと思うんです。感謝の気持ちを持って欲しいなと思います。

 

―ブンシリさんが日本に住みながらも大事にしているタイの文化、習慣はありますか?

命に対する考え方です。タイの人は、いじめや親不孝などをすると罰が与えられると強く信じています。あと、人や生き物を助けて徳を積むことで自分にも良いことが返ってきたり、良い来世を迎えることができるとも信じているので、毎日正しい行いをして、人に迷惑をかけないように気を付けています。それで言うと、僕は、毎年夏に地面に転がって起き上がれないでいる蝉を目にすると、どうせ死んでしまうにしても、安らかに死なせてあげたくて、拾って木に戻してあげるんです。たくさんいるので大変ですけど、蝉と僕はお互い助け合ってるんだなと感じるし、そうしている自分が誇らしく思えて幸せな気持ちになるんです 。こういう日々の中の小さな幸せって必要だと思います。

 

—そういうところに幸せを感じられるって本当に素敵ですね。ところで、ブンシリさんが他に住んでみたい国ってありますか?

韓国ですね。韓国ドラマも好きだし、旅行では何度も行ったことがありますが、家族や友達を大切にする文化があるところに魅力を感じるんです。

 

—その理由にもブンシリさんのお人柄が現れてますね。では、社会で起こっていることで気になることはありますか?

日本でのコロナウィルスのワクチンの普及が遅いことです。他の国と比べてはるかに遅れていますよね。

 

―ブンシリさんがこれからやっていきたいことや夢はありますか?

僕が出演する番組を観て笑ってくれる人が増えることですね。それにはたくさんの人に楽しんでもらえる仕事をしなくてはいけないと思います。あと自分のSNSで企業とコラボをして、タイをPRすることで、日本とタイの架け橋になれたらいいと思います。

 

―生きていくうえで一番大切にしていることはなんですか?

感謝する気持ちを持つことです。授かった命に感謝して、父に仕送りをしたり、生き物の命に感謝しながら食べ物を頂いたり、無駄にしないこともそうですし、人との出会いに感謝して生きていくことも忘れてはいけないと思います。

 

—それでは最後に、ブンシリさんにとって成功とはなんですか?

安らかな心を持つことです。誰かに認めてもらうことが成功と思ってる人は多いと思いますけど、自分のことを十分だと認めて、安らかな心でいられることが成功だと思うんです。つまり成功とは自分の心の中にあるんですよね。十分でないことがたくさんあるとしても、自分の中にピースな部分を見つけることが大切だと思います。

 

撮影協力:小杉湯

住所:杉並区高円寺北3−32−2

TEL:03-3337-6198

HP: https://kosugiyu.co.jp/

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