本の世界に放牧されていた幼少期
先ほど、記念コーナーを拝見してきました。おばあさまの軌跡が手にとるように伝わってきて、素晴らしい展示だと思います。あれだけの蔵書や資料を整理し運ぶのに、いろいろご苦労もあったでしょう。
うちは物が残ってたのですね。祖母は大正8年(1919年)に祖父と結婚し大森に家を構えました。以来、亡くなるまでそこを動かず、家は関東大震災や第2次世界大戦を経ても焼けずに残りました。祖母自身が物を捨てない人だったこと、さらに、私の母も物を捨てない人で、そうして、物が残っていったのですね。私は祖母を知らずに育ったので、残された本や原稿用紙を通して祖母を感じていました。一つ一つ調べて整理をしていくうちに、それがライフワークになっていました。
もともと、終の住処である大森に「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」があったとお聞きしています。今回、ここ東洋英和へ移設することになった経緯を教えていただけますか。
文学者や研究者の遺族って、どの家も、蔵書や資料をどうしようかという問題に直面すると思います。祖母の場合は母校がいいかなという私たちの希望がありました。学校も受け入れてくださるという姿勢でした。だけれども、具体的にいつ移設するかは決まってなく、それが去年のドラマ化を契機に、一気に話がまとまったわけです。昔どんな人がいたかというのは、学校にとっても貴重な資料。村岡花子だけでなく、花子を通して、外国人宣教師や同時代の女流作家など、強く雄々しく生きた人々の姿を内外に伝えていこうということで、東洋英和で受け入れてくださることになりました。
村岡花子さんは日本の文学史に名を残した方です。その功績を追って後世に伝えようとする人たちは他にもいたと思うのですが?
それがね、いませんでした。確かに、祖母が翻訳した作品が国語や道徳の教科書に掲載されてることもありますし、村岡花子訳の作品は現在でも出版され続けています。しかし、一翻訳者の人生について、あるいはその人がその翻訳にどんな思いを込めてきたかまでを、文学史上で語られることはほとんどないです。今でこそ英語の原書が読める人は増えましたが、祖母の時代は翻訳者を介して物語が伝わり広がっていました。私たちの日本語はとてもマイナーな言語ですので、翻訳という職業には確固たる役割があります。しかし、それがどんなに名訳であり、どんなに思いを翻訳者が込めていたとしても、やはり原作ありきですね。翻訳者とはあくまで黒子ですので、時代と共に作品が他の翻訳者に変わっていきます。前の翻訳は言わば踏み台になって、言葉が古くなったりすると、そこに上書きされて新訳として「リニューアル」されてしまうものですよね。
村岡花子(1893 - 1968)
「リニューアル」する出版社の事情もあるのでしょうが、寂しいですね。
第2次世界大戦中、英語は敵性言語とされ、英文の原書を所有してるだけで危険がおよぶこともありました。それでも祖母は、自分の住む大森が戦火に包まれた時でさえ、『赤毛のアン』の翻訳を諦めませんでした。それはカナダ人宣教師から友情の証として受けとったもの。まだ女性や子どもたちの本というものが軽視されていた時代、この作品をかならず後世が必要とするという思いがあったからです。プライベートでは祖母は幼い息子を亡くしています。我が子は亡くしたけど、一人の女性として日本の子どもたちに良質な家庭文学を届けたい。そう決意して、本とも時代とも向き合ってきました。翻訳という仕事に込めたその思いを汲み取り、今の時代に伝えてあげられるのは家族しかいないのかなと思いました。祖母にとっては私たちだったのですね。
おばあさまは翻訳家として草分だっただけでなく、婦人参政権運動などでも日本の先駆者でした。
祖母の生涯はさまざまなものを含んでいます。文学史や出版界の事情、日本の児童文化史、キリスト教文化史、そして近代女性史。また、私たちの大切な家族でもあるのです。交友関係がとても広かったので、当時の社会の様子が見えてきました。でも活動を始めてみて知ったのは、多くの方が『赤毛のアン』や『フランダースの犬』を村岡花子の訳で読んで読者体験から希望を与えられていたこと。今回、私が書いた本がドラマ化されて、そういう声がたくさん寄せられて嬉しく思っています。
ドラマ化といえば、『花子とアン』は、村岡さんの著書と比べると根本的に違うというか、当然ドラマですのでフィクションの部分はあると思いますけど、ほとんど別物のように感じました。
別物を作ろうとなさっていたんでしょうね。確かにテレビは影響力が大きく、戸惑うこともありました。テレビの力にはかなわなくても、祖母の本当の姿は、私が活字で伝えていけばいいと思いました。たとえばドラマをきっかけにして、村岡花子に関するいろんな展覧会が開催されましたし、東洋英和も入学希望者が増えたそうです。テレビというものが、特に朝ドラというのは、今は大きなコマーシャルなのかもしれませんね。
東洋英和女学院はご自身にとっても母校ですね。村岡さんはどんな英和生でしたか。
父の仕事の関係で関西で生まれ育ちましたので、中学から転校してきたのです。祖母も母も卒業生でしたが、そんなのお構いなくいたずらばかりしてましたね。村岡花子の孫なんて大したことないくらい、もっとすごい人のお孫さん、お子さんがいましたから。そういったことも生徒同士では関係なくて、友人と伸び伸びと過ごしてました。
在校中はよく本も読まれたのですか。
『嵐が丘』や、谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』などに刺激を受けました。祖母の本は中学に入る前に一通り読み終わっていました。家には祖母の本や祖母がいいと思った本がごろごろあって、そこに放牧されてるような環境でした。おばあちゃんの本だから読みなさい、と言われることもなく、自然と手に取って読める環境だったのですね。幼少期は「文学少女」でした。小学校も中学の頃もたくさん読んでましたが、なぜか高校3年間が最も読まない時期でした。歌舞伎やお芝居、映画、洋楽など、いろんなものに興味が分散してた時期だったのかもしれません。また読むようになったのは大学に入ってからです。
大学を経て村岡さんも文筆の道に進まれるわけですが、おばあさま、お母さま、お姉さまは翻訳がベースにあるのに対し、末っ子の村岡さんはやや異なったベクトルをお持ちのように感じます。これには何か理由が?
何となく同じことはしたくないなと思ってました。同じ分野でなくてもいいだろうと。姉も翻訳家でしたから、翻訳は私の仕事じゃないなって。雑誌の記者をしながら、一時は日本舞踊家になりたいと思っていた時期もありました。模索しましたが、結局書く仕事にどういうわけかなりましたね。
おばあさまの評伝、『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』を執筆される時、意識してた読者層はありましたか。
やはり私と同じ女性を意識しました。女性限定というつもりではありませんが、祖母が女性ですし、特に同年代の女性の方たちに読んでもらいたいなと思っていました。40代に差しかかると、自分たちのお母さんやおばあさんの苦労というものが想像でき、自分たちも次の世代に向けて何を残していけばいいか、ちょうどその両方を考えられるようになると思うのです。若い時には自分の世界しか見えなかったものが、ようやく未来と過去、歴史が見える位置に来るのですよね。その世代に一番伝えたいという思いはありました。「私たちのお母さん、おばあさんの時代って、こうだったんだって」と。
次回へ続く