HIGHFLYERS/#12 Vol.3 | Aug 6, 2015

本との出会いは、人との出会い

村岡恵理

Text: Takeyasu Ando / Photo: Atsuko Tanaka / Cover Photo Design: Kenzi Gong

村岡さんが東洋英和のチャペルへと案内してくれた。新約聖書の一節には「始めに言葉ありき」とある。11世紀、世界最初の長編物語が、日本で、それも女性の手によって誕生した。15世紀にグーデンベルクが発明した活版印刷は、印刷技術だけでなく、知識や思想も発展させたと言われる。言葉は物語となり本となって、私たちの文明と文化に密接してきた。21世紀、それは何が変わり、変わらないのか。作家・村岡恵理さんに聞いた。
PROFILE
村岡恵理

作家 村岡恵理

村岡 恵理(むらおかえり) 作家。1967年生まれ。翻訳家村岡花子の孫。東洋英和女学院高等部、成城大学文藝学部卒。著書「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」(新潮文庫)は、2014年前期NHK連続ドラマ「花子とアン」の原案となる。「アンを抱きしめて」(絵・わたせせいぞう/NHK出版)。編著に「村岡花子と赤毛のアンの世界」(河出書房新社)など。日経ビジネスアソシエ、WEB女性自身にエッセイを連載中。

外国のことを知りたい人こそ、まず自国の文化と歴史から知ってほしい。

「ネットが普及したことで、今の若い人たちは昔より文章を読んでいる。SNSなどによって昔より文章を書いている。読み書きの機会は昔より増えている」という意見があります。

ああ、そうなんでしょうね。そうなのかもしれませんね。ネット上で面白いことを書いてる人たくさんいますよね。言葉はみんなが使えるわけですし、発信したい人が自由に発信できることはいいことだと思います。ただ、名前を名乗らず言葉を凶器のように使うのは、例えば、人を貶めたり、誹謗中傷したりするのはフェアじゃない。言葉をそんなふうに使うのはずるいと思います。

活字離れ、本離れ、書店・出版業の斜陽といったものについて、どうお感じになりますか?

書店に行くとわかりますが、この時代でも本はたくさん出版されてます。欧米と比べても、むしろ出過ぎなくらい、日本は次々と新しい本が出てますよ。ただ、売れなくなってきてることは事実で、だから新しい本を売る。売れないとすぐ回収し、また次を出す。このシステムに問題があるように思います。本当は徐々に広まっていくはずの労作や佳作にその時間が与えられない。いつか読もうと思ってた名作がいつの間にか絶版になっている。名作がいつもそこにあるという環境づくりも大切なのではという気がします。子どもは本が好きです。それは変わってないと思うんですね。お母さんに読んでもらったり、幼稚園の先生に読んでもらうのが大好き。小学校3年生くらいまでは、みんなが本を読むと思うのです。

そもそも本を読むということは、人の何を意味するのでしょうか?

どんな本を読んできたかということは、どんな人と出会ってきたかということではないかしら。本との出会いは、人との出会いくらい大きなもので、逆にたくさん出会えばいいというものでもないのでしょう。だから、この人というくらい、繰り返し同じ本を読むのもいいと思うんですよね。量も大事だけれど、それ以上に質が大事かなという気がします。出会いによって何かが得られたり、生きていくことへの指針になるような言葉に出会えたら、それはもう人生にとってかけがえのないもの。翼を与えられるというかね。それこそ花子さんは、本を読むことで激動の時代を生きる翼を与えられたのだと思います。本を読むことで得られた知恵とか知性というものは、生きていく上で翼になると信じていますね。

ネットや映像では翼になりえないんでしょうか?

人によってはなるのかもしれませんね。それこそ今は電子書籍で読書する人もいますしね。私はネットにあるものは情報だと思うんです。私自身も、調べものをするためにインターネットはよく活用します。でも、調べものだけでは翼は生えてこないですよね。私にとって、本を読むことはエンターテイメントです。勉強というかた苦しいものではなく、それ自体が極上の時間であり、娯楽となり、癒しになるという。だから、あと味の良いものを読みたいです。

子どものころ誰よりも本を読み、『赤毛のアン』を翻訳したおばあさまでしたが、プリンス・エドワード島の地を踏むことのないまま亡くなりましたね。村岡さんは、ルーシー・モード・モンゴメリが舞台に選んだ彼の地を訪れる時、どんなことをお感じだったのでしょう?

まず、モンゴメリのお墓に行かなきゃということ。素晴らしい原作をありがとうございましたと伝えたかった。それと興味があったのは、プリンス・エドワード島の「赤」についてです。プリンス・エドワード島の道も、主人公の髪の毛も赤い。『赤毛のアン』の中で「赤」はキーワードでした。といっても実は「赤」には何十色とあって、プリンス・エドワード島はどんな「赤」なのか、この目で確かめたいなと思ってました。まず現地で見た道の色は、「赤」というよりサーモンピンクみたいな色。雨が降ると鉄が混ざって茶色がかり、空気、光、湿度によって、それぞれ「赤」が変わる。だけど、夕焼けの時なんか水平線がアプリコットみたいに金色の光で、赤い道が夕陽と一緒にずっと続いていく。そんな奇跡みたいな瞬間もありました。たしかに西洋には髪の毛の赤い人がいますが、『赤毛のアン』といいながら、あの物語の中でも、だんだんアンの髪が赤毛ではなくなっていくのですよね。たとえば、ギルバートに求婚される頃のアンは金髪。それが違和感として残ってたのですけど、「もし、この時間だったら、アンの髪の毛は金髪に見えたかも」という時間が、あの島にはありました。

村岡さんの視点が面白い、独特です。

実際にとてもいい場所ですけど、やっぱりあの島を舞台にしたモンゴメリの物語が素敵なんですよね。文学の素晴らしさ、言葉の力を感じました。カナダで人口も面積も一番小さい島に、アンが歩いた道や、輝く湖水や、歓喜の白路を求めて、観光客がやってくる。みんな、モンゴメリに魔法をかけられた人たち。文学の魔法、言葉の魔法、その素晴らしさをプリンス・エドワード島で感じましたね。

『アンのゆりかご』の中で、花子さんが英米文学を専攻する学生から「翻訳家になるにはどうすればいいか」と相談を受け、日本の古典や詩歌も勉強するよう助言するところがありました。これは今、何かと叫ばれる日本の「国際化」や「グローバル化」にも関係してるのでしょうか。

そうですね、大事なことですよね。まず私たちが、どこに根を持っているのかということ、自分が何者であるかということを知らなければ、相手のことだって理解できるわけありません。特にそれが外国の違う文化の人たちなら、その人たちの考え方を理解するために、お互い想像力というものが必要になってきます。何もないところから想像力は沸き上がってこないですよね。自分たちのことを知ってこそ、相手のことを想像したり思いやったりできると思うのです。だから、私たちの国の文化や歴史を知っておいてほしいですね。それは良いところも悪いところも含めて。

次回へ続く

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