中村隼人
―小さい頃は、どんな子どもでしたか?
エピソードがめちゃくちゃあるほど、とても生意気な子どもでしたね。歌舞伎座で大先輩の舞台の最中に、その舞台裏で同じ歳の俳優とキャッチボールをしていたとか、今思うと自分でも衝撃です。でも、(松本)幸四郎さんや(市川)猿之助さんのような先輩方は楽屋が遊び場だったようで、さらに上の先輩方からいろんな常識を教わったり、褒められたり怒られたりしていろいろ学んだそうです。
幼少期
―ご両親にはどんな育てられ方をしましたか?
僕はわりとのんびり、のびのびと育てられたと思います。歌舞伎をやれとも言われなかったし、僕はもともと女方の家系なので、立役の芸というものが家に残ってないんですよ。そういった意味でも、 自由にさせてもらっていた感じです。逆に、宿命的な役がないことで、歌舞伎役者として後ろめたさとか悔しさがあって、すごく偏屈になった時期もありました。
― 歌舞伎以外で子どもの頃、夢中になったものや、得意科目などはありましたか?
バスケットをやっていました。得意科目は国語。古文の授業でみんながわからないものも、僕はすらすら読めましたね。
―ご自身の家が歌舞伎の家系で普通と違うと気づいたのはいつごろですか?
ちゃんと肌感覚で認識したのは高校を卒業したくらいですね。女方の家系として数々の名優の相手役を勤めてきているということや、お祖父(じい)さん(四世中村時蔵)の生前の映像を観て、こんなことをやっていたんだとか思うことが増えて、自分も歌舞伎役者になろうと思うようになりました。
―初舞台の時のことは覚えていますか?
覚えています。7歳くらいの時、朝起きたら父(二代目中村錦之助)に「隼人、着物着ろ」って黒紋付を着せられて、家を出たら見たことのない黒光りの車が止まっていて、劇場に着いてその当時の先輩方全員に挨拶に行って。初舞台は坂東玉三郎さんの子どもの役で、手をつないで歌舞伎座の花道を歩いたんですけど、当時は緊張していて永遠に終わらない道みたいにすごく長く感じた思い出があります。
―人生を変えた人物との出会いはいつありましたか?
僕の中では3回ぐらいポイントがあります。1回目は坂東玉三郎さん。僕は、女方の家系で女方として育てられましたが、身長が高かったので腰を落として演じるのが大変だったんですよ。高校1年か2年の時に、玉三郎さんが相手役に抜擢してくださって、(中村)獅童さんと三人で舞踊公演をやった時、「あなたは立役でいきなさい」と言ってくださったんです。そこから立役に転向したと言ってもいいし、 立役の基本的な道を示してくださったのは玉三郎さんですね。
―玉三郎さんがそうおっしゃった理由はなんだったと思いますか?
直接お伺いしてはいないですけど、身長、あとは顔の形かなと。僕は彫りが深くて頬がこけていて、昔の女の人の、能面みたいな顔に鼻だけスッと高いっていう綺麗の感覚とは真逆なので、だったら立役でいいんじゃないのっていうことだと思うんですけど。あとは声質とか、いろんな要因があると思います。
―それで思考がガラッと変わったのですね。2回目は?
2回目は市川猿之助さんとの出会いです。スーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)『ワンピース』の前から可愛がっていただいていますが、猿之助さんの主演としてのあり方、周りへの接し方、作品の作り方っていうのは一番勉強になりましたね。猿之助さんは主演だし早替わりで何役もやるので、一番大変で一番眠いはずなのに、深夜の稽古でもちゃんと周りを見ていて、関係各所に気遣いをしているんです。それに、新作を作る時は一人でマイクをずっと離さずに、全体に指示を出すなどして、演出や舞台監督の仕事までやる。理由を聞いたところ、自分が小さい時にこうやればいいじゃんと思ったことを今やってるんですって。だからあんなに人がついてくるんでしょうね。そうやって猿之助さんからは、新作の歌舞伎の作り方と主演としてのあり方を教えてもらいました。
―素晴らしいですね。3回目は?
片岡仁左衛門さんです。前から共演させていただいてますが、最近はお芝居をしっかり習うことが増えて、歌舞伎とは何かを教えていただいています。今度の新春浅草歌舞伎の演目である『双蝶々曲輪日記 引窓』も教えていただくんですけど、仁左衛門さんは、歌舞伎の言葉はどんどん時代が変わってわからなくなっているけど、気持ちがあれば伝わるとおっしゃいます。言葉がわからなくても海外の映画で感動するのは、役者がその役になりきることで伝わっているのだから、それと同じで歌舞伎も言葉を超えることができるし、形とか伝統というものに捉われがちだけど、大事なのは感情だと。その役の心があって、プラスその役に見えるような衣裳だったり、化粧の仕方、動き方という400年培われてきた技術が合わさって、初めて歌舞伎になるということをすごく細かく教えていただいています。
―現代劇を観ているファンの方もたくさんいらっしゃると思いますが、若い歌舞伎俳優の方達で歌舞伎を観てもらおうと努力されていることはありますか?
僕は高校を卒業してから何回か、国立劇場で年に2ヶ月だけ行われる歌舞伎鑑賞教室という、東京都の小、中学校、高校、専門学校が学校行事で歌舞伎を観る公演に携わらせてもらって、古典作品を一本観てもらう前に、僕が素顔で歌舞伎の歴史や演目の見どころを解説するというのを自分で演出したんです。そこで歌舞伎に触れた子どもが、面白かったと親に言って、親を連れてまた来ることがあったり、学校から生徒たちの感想文が1000枚とか2000枚くらい届いたりすることもありました。あとは『ワンピース』とか、今度『鬼滅の刃』も歌舞伎化するんですけど、歌舞伎はその時代に流行ってるものを取り入れて発展して守ってきた演劇だと思うので、その方向性も間違ってはないと思っていて。だからそういったことをたくさんしていけばいいんじゃないかなと思います。
―では、プロの役者として、最も大切にしていることは何かありますか?
やっぱりお客さんに届けるということですかね。現代劇と違って、歌舞伎は何百年も前の人間の感覚で作られたものなので、どうしてもわかりづらいことはあるんですけど、その作品の持っている魅力だったり、役の感情をより強調して掘り下げて演じることが大切ですね。歌舞伎が今の時代にまで残っているということは、絶対に作品に力があるんですよね。その力を信じて、もっともっと魅力を見つけていきたいです。
―今までの活動を通して大変だった時期やつらかった時期はありましたか?それはどのようにして乗り越えましたか?
もうずっと大変ですよ。テレビに出ればお客さんが増えるということでもないし、まだ答えが全然見つかってないです。
―お客さんが劇場に足を運ぶこと自体が習慣じゃないということなんですかね?
セリフがわからないっていう敷居はあると思います。あと日本人の感覚がどんどん海外に寄っていってる。体育の授業でもダンスの授業はあるけど、日本舞踊の授業はないですよね。今僕も洋服を着てるし、時代劇だって今テレビでやっているのは大河ドラマぐらいしかないじゃないですか。僕が子どもの頃は再放送と言えど、もっと時代劇をやっていたし。日本の文化っていうものがどんどん変わっていってるんじゃないですかね。
―つまり、歌舞伎を現代人に親しみやすくするところが一番大変ですか?
まあそれも大変だし、やっぱり役者としても長い道のりだなと思います。だって自分の尊敬する人間国宝の先輩たちが「自分はまだまだです」なんてインタビューでおっしゃっているのを見たら、あと50年か、って思います。
―自分の価値観に変化や気づきを与えてくれた出会いがたくさんあったと思いますが、今すぐに浮かぶのは?
浅野和之さんが言っていた 「役者は今の自分に満足したら成長が止まる」って言葉がすごく印象に残っています。歌舞伎は特に何回も同じ作品を上演するから、その作品が当たったらそれにずっと縛られちゃう、だから隼人は金字塔を自分で建てるなと言われて。金字塔とは人に建ててもらうのであって自分で建てるものじゃない、自分で建てた瞬間に成長が止まるって。それまでは、僕はどっちかって言うと、女方の家系に生まれたので、やらなきゃいけない演目がなかったからこそ、いつか金字塔を建てたいと思っていたのですが、浅野さんに言われて、なるほど見抜かれていたなって思いました。
―現代劇に出ている役者さんで、いつも刺激をもらう方とか影響を受けた方はいますか?
渡辺いっけいさん。本当にいろんな作品に出ている方ですけど、大事なシーンを撮り終わると、オッケーが出てもため息をついてるんです。 僕から見たらすごく素敵だったって言っても、「でもダメなんだよね。もう一回撮り直させてくれっていうのは簡単だけど、それを自分が超えられないこともあるから」みたいなことをおっしゃっていて。自分を超客観的に見てるんだなと思いました。やっぱり舞台出身で映像もやってる方の芝居のアプローチの仕方、生き方とかはすごくかっこいいなって思いますね。
―隼人さんも自分を客観的に見たりしますか?
客観的に見ることは意識してます。 特に熱量が多いシーンは、どうしても自己満足になっていくから、そうしないように心がけてますね。
―この度、新春浅草歌舞伎が3年ぶりに行われますが、意気込みをお話しください。
この新春浅草歌舞伎は、若手歌舞伎俳優の登竜門というような位置付けの公演で、僕は高校3年生の時から9年連続でずっと出させてもらっていたんです。そんな中コロナでできなくなって、率直にやっと再開したなっていう思いですね。特に自分が出させていただく演目『双蝶々曲輪日記 引窓』は、いつかやりたいと思っていた作品なので、それが帰ってきた3年ぶりの浅草で出来る喜びはすごくあります。
―コロナの間、これだけに限らずいろんな舞台が中止になってしまって、結構ストレスは感じていらっしゃいました?
ストレスっていうか、やっぱり存在意義はなんだろうなっていうのは思いましたね。コロナ前までは毎月出演させていただいていましたが、それが急になくなってしまったことで当たり前じゃないんだっていうのはすごく思いました。
―新春浅草歌舞伎はご自身にとってどのような存在ですか?
本当に育ててもらった登竜門です。普段歌舞伎座などの大きい劇場で大役は僕にはまだ早いですし、新春浅草歌舞伎では挑戦したい役をさせていただくという趣旨があるので、毎年大きなお役を経験させていただいて、本当に歌舞伎俳優として育ててもらいましたね。
―過去の新春浅草歌舞伎に出演した際の思い出に残るエピソードはありますか?
印象に残っている舞台としては、『番町皿屋敷』という演目をさせていただいた時は本当に嬉しかったです。何回も観ていた作品で全部理解していたつもりなのに、いざやってみると手も足も出ないっていう感覚だったりとか、そういうのは強く覚えています。それ以外も、全ての演目一つ一つに思い出がありますね。
―楽しみにされているファンの方に、どのようなことを期待して欲しいですか?
ずっと歌舞伎を愛してくださって、応援してくださるお客様にはこのメンバーで帰ってきたこと、皆この3年間で違う劇場で歌舞伎に出たり、ストレートプレイに出たり、テレビに出たりと、いろんなことが経験になっていると思うので、成長したメンバーを観に来て欲しいという想いがあります。そして、観たことのないお客様には1月の浅草って本当に日本の良いところが詰まっているので、浅草寺を初詣するも良し、仲見世とかでお土産を買ったりとか、あとは浅草にしかないものを食べたりとか、そういった観劇以外も楽しんでもらいたいなと思います。
―それでは、今の仕事を続けていく上で、最も大切にしていることを教えてください。
人とのつながりと、歌舞伎に関して言うと、向上心を忘れないこと、そして前日の自分よりも良くなるように心がけることですね。いろいろな資料を見たりとか、付人さんに毎日自分の映像を撮ってもらって動きを確認したりとかしてます。そういうことをやらないと、僕、不器用人間なんで周りと戦っていけないんですよ。
―今はどのようなワーク・ライフスタイルを送っていらっしゃいますか?
今は8、9割が仕事ですね。テレビの場合も台本を覚えていかないといけないし、12月の京都南座顔見世も二役勤めているので、台本を覚える時間も考えると9割ぐらい。公演中に来月の新春浅草歌舞伎の演目を教えていただくので、並行してそれも覚え始めて。忙しくしています(笑)。
―残りの1割は?
寝る(笑)。でも最近は飲みに行ったりもします。お酒は何でも飲みますけど、コロナ禍になってから今まで飲めなかったワインが飲めるようになったんですよ。 でも次の日に残ったりするので、基本的にはハイボールとか焼酎系にしています。
―好きな映画や写真、音楽やアートなどで一番影響を受けたものは?
映画は「ショーシャンクの空に」が好きですね。音楽は普通にいろいろ聴きます。ライブはブルーノ・マーズの、ラスベガス公演に一人で行きました。先輩たちに聞いたけど、みんな興味ないって、隼人一人で行って来いって言われて、PARK MGMっていう劇場で観てきました。周りは外国人しかいないし、MCは何を言ってるか全然わからなかったですけど(笑)。
―どうでしたか?
やっぱりエンターテインメント性が凄いなっていうのと、観客もみんなノリノリで踊って歌ってるので、お客さんのパワーも感じてやってるんだなっていうのはすごい感じました。
―最近ハマっていることはありますか?
最近はキャンプとダイビングをやっています。もともと僕はすごいインドア派で、休みの日は1日寝てるか家で Netflix とかを見てるかだったんですけど、友達にキャンプに連れていってもらったらハマって、それからアウトドア派になりました。9月には石垣島に潜りに行って、めちゃくちゃ気持ち良かったです。海に入ると、いかに普段体に力が入ってるかがわかりますね。 本当に脱力してきました。
―隼人さんの理想の男性像は?
落ち着いて寡黙で、言葉を多く語らないのがかっこいい男なんじゃないですかね。僕は無理ですけど。自然体でいる人かな、裏表なく。
―ご自身のやられていることで、日本や世界が変えられるとしたら、どんなところだと思いますか?
ウクライナとロシアの戦争が起きてから、エンターテインメントで世界を変えられるなんて簡単なことを言っちゃいけないっていうのはすごい思ったんですよ。でも、変えられないかもしれないけど、歌舞伎が日本文化の評価を少しでも上げるきっかけにはなれると思うんです。なぜなら世界的に見ても、これだけ演じられてきた古典演劇って歌舞伎しかないんですよね。その力は絶対あると思うので、それに甘んじずやりたいですね。
―一気に視界が開けた瞬間や、自分が成長したと実感した出来事はありますか?
成長したと思ったことは、歌舞伎じゃないけどありますよ。今NHK BS時代劇「大富豪同心」のパート3を撮っているんですけど、パート1でできなかったことというか、違和感に感じていたことを今ではさらっとやれている。俳優の石井正則さんがボソッと、「隼人さん、今のわかりました?パート1の時は苦労しましたよね、こういうところ。今全然何も思わなかったですよね。これが成長なんですよ」って言ってくれて。真ん中に立つことが多くなってから周りのことも気にして見るようになった気がします。
―では、隼人さんにとって、チャンスとは?
逃しちゃいけないものですかね。
―今まで「これは逃さなかった」っていうチャンスは?
どうなんですかね。逃しちゃったなとも思ってるけど、掴んだなとも思ってるので、わからないですけど。人それぞれチャンスって全然違うと思いますけど、僕はもういただいた仕事は全部チャンスだと思ってるので、それをいかに捕まえるかをすごく意識してます。
―隼人さんにとって成功とは何ですか?
自分が信じてやってきたことが周りから評価されることですね。
―歌舞伎界の未来はどうなっていくと思いますか?
すごく難しいですね。本当に大変な道のりになると思うんですけど、自分は歌舞伎の家に生まれて、歌舞伎役者として仕事させてもらってるので、その大変な道のりをみんなと一致団結して何とか乗り越えて、軌道に乗せられるように、転覆しないように、その力になれればと思います。
―3年後、5年後、10年後の自分はどうなっていると思いますか?
3年後は32歳ですね。多分30代になったらもうちょっとおとなしくなるっていうか、バタバタせずにできる役者になっていたいと思いますね。5年後は35歳、歌舞伎から必要とされる人間になっていたいです。10年後は39歳、やっぱり10年って一つのサイクルでいろんな事が変わっていると思うんで、乗り遅れずに頑張ってるか?って自分に聞きたいですね。
―まだ実現していないこと、これから挑戦してみたいことは?
自分がやりたい歌舞伎の演目リストを作っていて、全然実現していないものばっかりですけど、今80演目くらいあります。書き出してるのは主演の役だけで、脇役とかをいれたらもっとある。それを全部実現させたいですね。昔ある先輩と約束して、僕が20歳ぐらいになった時に、「あなたが30になるまでに主演ができないような役者だったら主演の道を諦めて脇役に徹しなさい」と言われたことがあって。僕の中ではその約束はまだまだ継続中で、その約束を守れるかどうかが、まだ成し遂げてないことですかね。あとは、映画に出てみたい。悪役をやりたいです。
《衣装クレジット》
ジャケット¥156,200、シャツ¥96,800、パンツ¥42,900、シューズ¥74,800
(以上全てYOHJI YAMAMOTO/Yohji Yamamoto press room)
問い合わせ先:Yohji Yamamoto press room
東京都港区南青山5-3-6 3F / 03-5463-1500
『新春浅草歌舞伎』 3 年ぶりの開催が決定!
昭和 55(1980)年のお正月に『初春花形歌舞伎』として浅草での歌舞伎興行が復活。以来、平成 15(2003)年に『新春浅草歌舞伎』と名称を変え、新たな歌舞伎ファンを増やしながら、浅草公会堂にて公演を重ねてまいりました。新型コロナウイルス感染症拡大の影響で、2020 年の公演を最後に開催が見送られておりましたが、 2023 年 1 月、3 年ぶりに『新春浅草歌舞伎』が帰ってきます。
日時:2023年1月2日(月・休)~24日(火) *休演9日(月・祝)、19日(木)
出演:尾上松也、中村歌昇、坂東巳之助、坂東新悟、中村種之助、中村隼人、中村橋之助、中村莟玉
詳細はオフィシャルウエブサイトをご確認ください。