HIGHFLYERS/#48 Vol.2 | Jul 15, 2021

デザイナーズブランドが生まれた日本のファッション最盛期の時代に、プロダクトデザインの道へ挑戦

Interview & Text: Kaya Takatsuna / Photo: Atsuko Tanaka / Cover Design: Kenzi Gong

吉岡さんインタビュー2回目は、幼い頃のことから独立するまでのこと、そして現在の事務所について伺いました。佐賀で生まれ育った吉岡さんは、化学と絵に興味を持ち、有田にある高校のデザイン科に進んで、デザインの勉強を本格的に始め、その後、上京して桑沢デザイン研究所に進みます。当時は、ファッションの分野で鬼才と言われるデザイナーが多く活躍した時代。その最先端で、プロダクトデザインの道を進むと決めた吉岡さんは、どんな人たちと出会い、交流を深め、どのようなものに刺激されていたのでしょうか。また、2000年に島根の米蔵を移築して建設したという、事務所の建築時のエピソードも伺いました。
PROFILE

デザイナー / アーティスト 吉岡徳仁

1967年生まれ。倉俣史朗、三宅一生のもとでデザインを学び、2000年吉岡徳仁デザイン事務所を設立。 デザイン、建築、現代美術の領域において活動。詩的な作品は国際的にも高く評価されている。 国際的なアワードを多数受賞し、作品はニューヨーク近代美術館やフランス国立近代美術館など、世界の主要美術館に永久所蔵されている。 アメリカNewsweek誌による「世界が尊敬する日本人100人」に選ばれている。 代表作には、オルセー美術館に常設展示されているガラスのベンチ「Water Block」をはじめ、クリスタルプリズムの建築「虹の教会」、結晶の椅子「VENUS」、ガラスの茶室「光庵」などがある。

築150年の米蔵を島根から東京に移築して、事務所を設計。人々に感動を与えるようなものを考えることが作品作りの原点

佐賀県佐賀市のご出身だそうですが、幼い頃はどのような子どもでしたか?

静かで、活発な子どもではなかったみたいです。 佐賀って特に豊かな自然があるわけでもないんですが、田んぼでいろんなものを捕まえたり、川で遊んだりはしていました。

子供の頃

幼少時代からレオナルド・ダ・ヴィンチの影響を受けたそうですね。

影響というか、興味がありました。小学校の時、化学と美術に興味があったので、理科と図工の二つの科目が好きでしたね。化学は発見の連続で、いつも衝撃があって、そういうものに対してもすごく好奇心がありました。実験が好きだったので、絵に化学の要素を入れたり、キノコの胞子を使って図案を考えたり、ダヴィンチの飛行船の模型を作ったりしていました。

ご両親はどのような方で、どのように育てられましたか?

両親は音楽など文化的なことが好きで、僕は4人兄弟なのですが、一番上の姉が音楽、2番目の姉がスポーツなど、昔から文化や芸術を楽しむ家庭でしたね。

小さい頃になりたかった職業はありますか?

小学校2年生ぐらいの時から、デザイナーや画家になりたいと言っていました。デザイナーになると書いた小さい頃の作文もあります。父親からデザイナーという職業があるよと聞いて夢を膨らませたことを覚えています。

中学・高校時代はどのように過ごされましたか?

中学生の時は油絵をやっていました。画家の先生から油絵を習って、鳥の絵とか、瓶、果物、静物などの絵を描いていました。高校からは、デザインは勉強するもの、ということを意識してデザイン科に進みました。デザインを毎日学校で勉強するって、そんな楽しいことあるんだという感じで過ごしていましたね。宿題もたくさんだったし、学校は山の中にあって遊ぶ場所なんて何もなかったけれど、本当に楽しかったです。

高校卒業後は上京して、桑沢デザイン研究所に行かれました。

東京に行ってみたかったのと、友人が受験するので自分も受けてみようという軽い感じでした。 桑沢ではプロダクトデザインを学びましたが、時代とともにファッションが盛り上がった時期で、周りの友人はみんなファッションを勉強していたので楽しかったですね。当時のファッションの世界ってすごく刺激的でした。自分のデザインも、そのような新しいものを体験できるようなものにしたいと思っていました。当時の工業製品はデザインされていないものがほとんどで、デザインされたものはあまりない時代でした。

当時のファッションは、どういうブランドが流行っていたんですか?

デザイナーズブランドで、もちろん三宅一生さんもいるし、川久保玲さんなど、パワーを感じる人がたくさんいらっしゃいました。

あの時代を東京で学生として体験できたのは、人生に相当な影響があると思います。

新しいものが次々と生まれるので、すごくワクワクしていました。僕の中でも、プロダクトデザインで何か今までにない新しいことができるんじゃないかなという気持ちがありました。空間にすごく興味があって、高校の時にグラフィックの平面的なものをデザインしていたこともあり、次は何か立体的なことをやりたいと思っていました。

そこから倉俣史朗さんや三宅一生さんとの出会いがあったんですか?

そうですね、ファッションがちょうど社会に注目されるのと同時に、その店舗を作る空間デザイナーにも注目が集まりました。倉俣史朗さんや内田繁さんが実験的な新しいことをされていました。

ファッションともリンクしながら、吉岡さんは空間デザインの方に進まれたんですね。大御所のお二人から学んだことはありますか?

その当時は、みんなエネルギッシュでモノづくりに情熱的でした。とても大変でしたが同じ時代に色々な体験ができたことは素晴らしい思い出です。例えば、倉俣さんのところで働いていた時も石岡瑛子さんがいらしたり、一生さんに、「吉岡くん、何か面白いものないかな?」と言われて、「こんな素材を見つけてきました」って新しいものをお見せすると、それを見て新しいアイデアが次々と生まれていったり。次の時代を切り開くような体験をたくさんさせていただきました。

Stedelijk Museum Amsterdam「Energieën」展で、ISSEY MIYAKEのインスタレーションを担当した時の様子(1990年)

その時代って、なぜそうだったと思いますか?

最近思うのは、今は情報があることで選択の幅がどんどん広がるイメージですが、実は逆で、情報によって価値観が限定されて、想像の可能性が狭くなってきているのかもしれないですね。だから綺麗ではあっても、「これはなんだ!」と驚かされるような新しいものがなかなか出にくいというのはあるかもしれないです。学生たちの作品にしても、昔は良くも悪くも個性的なものを作る人がたくさんいました。今はみんな綺麗だけれど、どれも似ているクローンのようなデザインが増えているように感じますね。

吉岡さんは、その後フリーランスとなり、ご自身の創作活動を始めたそうですね。

はい、当時はイッセイミヤケのパリコレクションの帽子などのデザインをさせていただいていました。それで自分自身の創作活動が始まり、それが雑誌に掲載されるようになって、そこから注目されるようになりました。その当時はデザイナーという職業が社会で認識されていないという感じで、特に対企業になるとデザインは特殊なものというイメージがあったと思います。僕らの時代は、デザインがないところから全てが始まり、作っていったのですごく面白かった。

ISSEY MIYAKEのパリコレクションのためにデザインした透明な帽子(1992年)

デザイン事務所を設立された当時のことをお伺いしたいんですけど、当時大変だったことはありますか?

2000年に事務所を設立しましたが、ただデザインが好きで没頭していました。実現したいアイデアがたくさんあったので、それを形にすることだけを考えていました。事務所は、150年前の米蔵を島根から移築しました。その頃には、海外の方がたくさんいらっしゃるようになっていたので、皆さんに喜んでいただけるような建築を作りたいという想いから移築のアイデアを考えました。150年前の構造体と現代の素材のコントラストをつけた新しい建築です。

上段左、中:米蔵の解体前と後 上段右、下段:代官山に移築し、完成した事務所

海外の方が来た時に何か面白いものを見せたいとか、人を喜ばせたいという考えに及ぶのは、何か子どもの頃の体験などに原点があるのですか?

コミュニケーションが小さい時から下手だったので、何かを作ってみんなを喜ばせたい、驚いてもらえるようなものを作りたいというのはありましたね。今でもそうなんですけど、どうやったら皆さんが感動するようなものを作れるかというところが発想の根本にあります。ここも、最初はガラスの日本家屋を考えていたんです。でもさすがにガラス張りのところには住めないので(笑)。でもそれが、今、国立新美術館で展示されている「ガラスの茶室 – 光庵」に繋がっているんです。

©︎Yasutake Kondo「ガラスの茶室 – 光庵」。国立新美術館にて2022年5月30日 (月) まで特別公開中
https://www.nact.jp/2019/chashitsu/

移築も大変ではなかったですか?木を全部外して運んだんですか?

古い日本の歴史と未来の融合というコンセプトは決めていました。太い柱が使われている建物を探すため、雪が降る地域まで出向いて探しました。実際の蔵の外観を見た時は損傷がひどく難しいと思いましたが、中を見た時にここだと思ってすぐに決めました。偶然ですが、俵孝太郎さんの実家の蔵だったんです。事務所が出来てからは毎日のように取材に来ていただいていたので、毎日朝から大掃除して、それが仕事のようでした。

次回へ続く

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