HIGHFLYERS/#42 Vol.3 | Jul 30, 2020

世界も私自身も常に変化しているので、そのど真ん中は常に揺れ動いている。中道を生きるとは、すごくダイナミックなこと

Interview & Text: Kaya Takatsuna / Photo: Atsuko Tanaka

僧侶の松本さんインタビュー3回目は、僧侶になってからご自身が経験されたことや、定期的に続けている活動についてを中心に伺いました。インターネット寺院「彼岸寺」や、お坊さんのための学びの場「未来の住職塾」を開いた松本さんは、お寺の朝の習慣を一般の人と共有する「テンプルモーニング」という活動も行なっています。これは、たまに集まってお経を読んだり、掃除をしたり、お話をしたりするという、誰でも参加できる会ですが、コロナの影響によって一時は集まることができなくなってしまいました。そこで松本さんは、場所をラジオに変えて、今年4月よりポッドキャストで「テンプルモーニングラジオ」をスタート。ラジオは、毎週僧侶をゲストに招きお話を聞く前半と、お坊さんの読むお経が流れる後半とで構成されています。ラジオから流れるお経を聴きながら、松本さんは音について、改めてどんなことを感じているのでしょうか。他にも、今、どん底の最中にいる人がいるとしたらなんと声をかけるのか、また、常に松本さんがおっしゃっている「中道を歩む」ことについて、そして中道を歩むためには日々をどう心がけて暮らしていけば良いのかを伺いました。
PROFILE

光明寺僧侶 / 未来の住職塾塾長 松本紹圭

1979年北海道生まれ。僧侶/ひじり。世界経済フォーラム(ダボス会議)Young Global Leader、Global Future Council Member。武蔵野大学客員准教授。東京大学文学部哲学科卒。2010年、ロータリー財団国際親善奨学生としてインド商科大学院(ISB)でMBA取得。2012年、住職向けのお寺経営塾「未来の住職塾」を開講し、8年間で650名以上の宗派や地域を超えた若手僧侶の卒業生を輩出。著書多数、『お坊さんが教えるこころが整う掃除の本』(ディスカバートゥエンティワン)は世界15ヶ国語以上で翻訳出版。「松本紹圭の方丈庵 」noteマガジン発行。「 Temple Morning Radio 」ポッドキャストは平日毎朝6時に配信中。

コロナの影響でリアルが特別なものに。不要不急かどうかはその人にしかわからないから、大切なのは自分で考えるということ

僧侶になってから最も嬉しかったことはありますか?

「未来の住職塾」という、お坊さんの駆け込み寺のようなことをしてきた身からすると、塾生の住職さんから「こういう塾が開かれているタイミングに自分が住職をやることになったのは、とても幸運でした」みたいなことを言ってもらえるのは、嬉しいですね。自分が始めた塾が、その人が生きやすくなれることに少しは貢献できたのかなと。

では、今まで最も辛かったことはありますか?

ありますよ。でも辛かったことはあまり人に喋ることはないです。そして、割とすぐ忘れてしまいます。喋り方とか雰囲気なのかわかりませんけど、「松本さんって辛いこととかなさそうですね」ってよく言われます。そんなことはないんですけどね。

ではそのご自身の経験された辛いことを、どのように克服してきましたか?

まさにそういう辛いこととか苦しいことをどう受け止めていくのかっていうことが仏教なので。仏さまの教えには、ずいぶん助けてもらったように思いますね。

今、それぞれの環境で、どん底の苦しみの中にいる人に、なんと声をかけますか?

難しいですね。その人の苦しみの種類によっても変わるでしょうけど、自分に特別できることがあるとは思いません。ただ、ひたすら話を聞かせていただきますね。その上で、何か言葉が浮かんで来れば、こちらからかける言葉もあると思います。基本は、大丈夫っていうことを言いますね。思い通りにならなくても大丈夫、大丈夫じゃなくても大丈夫、そんな地平に僕たちは立っている。でも、その人自身の想いというものがあるんで、その想いが叶わない、思い通りにならなければ当然苦しみは生まれます。じゃぁ、どうするか。思い通りにしようとする気持ちを手放せば、苦しみは生まれません。かと言って、そういう想いが生まれちゃうんだからしょうがない。だから、待ちます。「時間が解決する」とまでは言わなくとも、「時間がかかるものです」と言うことは多いですね。暗闇を迷っている時には本当に出口なんかないような気持ちがするかもしれないけど、必ず光は差してきます。さすがに真っ暗闇を楽しもうよっていう気持ちにまではなれなくとも、心配いらないよっていうことですかね。

光明寺では長年、お寺の朝の習慣を共有する場として、「テンプルモーニング」をやられていますね。きっかけは?

かつて、インドに散らばって修行していた仏教修行者たちは、当然電話もインターネットもない中で、どうやってモチベーションを保っていたのか。およそ2週間に1回、新月と満月の日に地域の修行者同士で集まって、お互いに戒を守れているかを確認し合う、布薩(ウポーサタ)という反省会みたいなものをしていたそうです。ブッダは、修行を続けて完成するには仲間の存在が何よりも大事だと言ってたんですね。ひるがえって、今の生活の中にそういうモチベーションを保てるような機会ってありそうでないよなと思ったのがきっかけです。

確かに、仲間の存在はモチベーションに繋がりますね。

お寺という場で何かやるなら、みんなと一緒に続けられるものがいい。でも、お坊さんって案外、お葬式が入ったりで急に予定がキャンセルになってしまうことも少なくない。でも、朝だけは必ず空いているんですね。「お寺の朝」って響きからしていいし、自分も無理なく続けられるなら、“お寺のゴールデンタイム”は朝なんじゃないかなと思って。お寺の朝に生活習慣を整えてモチベーションを保てるような機会を作れば、いろんなお寺で取り組めそうな気がしたので、朝の時間帯に着目しました。まずは自分もやりながら、みんなにもこういうのどうですか?って提案していこうと思って、テンプルモーニングを始めたんです。お坊さんってお寺にいる限りは、必ず朝のお参りをします。わざわざイベントを開こうとしなくても、元々やってることなんですよ。だからお坊さんは普段から当たり前にやっていることを、ただ一緒にどうですか?って言うだけ。そのくらいがちょうどいいんじゃないかなと思って。都心で働いている人、学生さん、主婦の方、フリーランスの人など、中にはわざわざそのためだけに都心に出て来る人もいますよ。みんなでお経を読んで、お掃除をして、ちょっとお話をしています。

テンプルモーニングを開催した時の様子

コロナの期間でテンプルモーニングのあり方も変化しましたか?

開始から二年半くらい2週間に1回ずっと順調に続けてきたのですが、さすがにちょっとできないとなってお休みしてました。でも、せっかくみんなに定着してきた生活習慣を整える大事な機会がなくなっちゃうのは残念だし、さらに言えば、会社や学校に行くという習慣自体がなくなって生活が乱れに乱れている人とかも多分増えているはずで。だったらオンラインでも、何か皆さんの生活習慣を整えるために役立てるようなものができないかなと思い、4月からポットキャストで「テンプルモーニングラジオ」を始めました。ラジオはこれからも続けようと思っています。

オンラインとオフラインで感じている違いはありますか?

オフラインは、外の空気に触れて五感を使うものなので、実際に体を動かしますよね。でもそれが当たり前に出来なくなったおかげで、リアルが特別なものになりましたね。 一個一個しっかり味わってやろう、みたいな。

ポッドキャスト配信に使っている機材

人が集まる行為はまだ心配されていた方が多かったと思いますが、再開を踏み切れたのには何かきっかけがあったんですか?

不要不急のイベントは控えるようにとか言いますけど、僕のスタンスとしては、不要不急かどうかはその人が決めることなんで、「今日、絶対にお寺にお参りしないと、私の魂が死んでしまうんだ」と感じる人だっているかもしれない。つまり大事なことは、「自分で考える」ってことだと思うんですね。先ほど利他の話をしましたけど、他者のことも含めて自分で考えるということです。 法律で禁止されちゃったらそうせざるを得ないんでしょうけど、基本的にはお寺はいつでも開いているべきだと思いますし、どうしても来たい人は自分で考えて来てくださいねっていうスタンスです。もちろん、密になることを良しとするわけではありません。お寺としては、大勢集めよう、集客しよう、みたいな発想を捨てた上で、開いておくことが大事なんじゃないないかなって思ってます。

ポッドキャストでは、ラジオから流れるお経がとても新鮮ですが、動画ではなく、音で伝える方法をとったのには理由がありますか?音の可能性や、音と言葉の関係性について、松本さんが改めて感じたことを教えてください。

人間て理性と感性を行き来しながら、ものを捉えたり行動したりしていると思います。僕はどちらかといえば、左脳がはたらくというか、男性性が強いというか、理性が先行しがちです。子供の頃、お坊さんがお経を読んでいるのを聴いて、なんでこんなに意味のわからないものを唱えて、皆も呪文みたいに意味のわからないまま大人しく聞かされているのか不思議でした。理屈っぽい子供だったので、本当は意味があるんだから、例えば現代日本語訳で読むとかすれば良いのにって思っていたんです。でも、ポッドキャストでお経をある種音楽のようにして聴いて、意味以前に音として受け止められることを感じたんですね。

なるほど。

音って波ですよね。まずその波を耳や体で受け止めて、そこから頭を通してそれを言葉として立ち上がらせて意味として捉えている。つまり意味になる以前に波があるわけだから、 波として受け取る部分っておろそかにできないなって最近すごく感じて。多くの情報を頭で理解してもらおうと思ったら、間違いなくビジュアル込みのコミュニケーションで、スライドとかも使ってやるのが優れているけど、音を波として捉えて、それを身体で、感性で受け止めるみたいな部分を立ち上がらせるには、逆に情報を多くし過ぎない方がいいのかな、って思ったんです。世の中は今、オンラインで、よりコンテンツをリッチにしていこうっていう方向に動いてますけど、それより僕は引き算でいきたい。最小限のことで、何かその人の気づきとか、感性を立ち上がらせていくきっかけになるようなことができるんだったらそれに越したことはないと思って。今改めて、このお経という形式において、どういう要素がどういう意味を持っているかなっていうことを今までよりも深く考えるようになったおかげで、音への注目は自分の中で高まりましたね。

話は変わりますが、松本さんが日々おっしゃっている「中道を歩む」という言葉がとても印象的です。「中道」とは一体何でしょうか。

中道って中の道って書くから、じゃあ真ん中に行けばいいのねってなるけど、自分の生きる人生を中道で生きていこうって思った時に、どこが中道なのか、どこが自分のど真ん中なのかって、すごく難しいですよね。一つ言えることは、世界は常に変わっているし、自分自身も変わっているので、そのど真ん中は常に揺れ動いているわけです。 だから僕は、「自分の軸を持つ」とかっていう発想はちょっと危ないなっていう風にも思うんですね。というのは、 「私はこれなんだ、私の軸はこれなんだ」っていうのに拘ったところで、自分は変化していくんだし、変化していいはずなんです。でも軸に拘っちゃうと、軸と変化していく自分が乖離していって、引き裂かれちゃう人も結構いると思うんです。朝起きた時と夜寝る時と、たった1日の間で考えてることも体調もすっかり変化するくらいです。中道を生きるということは、固定化されたものじゃなくて常に変化するすごくダイナミックなものなんだっていうことですね。

では、「中道を歩む」ためには、私たちは日々の生活でどのように思考を変化させていかなければならないでしょうか?

それは、常に自分のちょうどいいところ、ど真ん中を探り続けるような、終わりのない営みです。そういう風に生きるためにどう思考を変化させるかといえば、モヤモヤすることから逃げないということです。 人間て、「わかった!」とか、「これでいいんだ」とか、「これさえあれば」とかを常に求めている、“スッキリしたがり屋さん”なんですね。でもそれは、スッキリした瞬間からすり抜けていくので、わかったとか掴んだとかいう時こそ危ないわけで。だからスッキリしないことを楽しめるようになるくらい、スッキリせずに生きることに慣れることです。掃除ってある意味永遠にスッキリしないんですよ、終わりがないんで。掃除は、中道を歩む練習でもあるんですね。

次回へ続く

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