幼少期に経験した、自然の中での両親の教え。中学時代に起こった地元の森林破壊をきっかけに環境問題に関心を持つ
四井さんは北九州で生まれ育ったそうですが、幼い頃はどのような子供で、ご両親にはどのように育てられましたか?
うちの両親は大学病院の職員だったので、職業的には農的な暮らしとか、あんまり関係なかったんですけど、僕が小一の頃に森に囲まれたところに家を建てて、そこが自然に囲まれたすごくいい場所でした。斜面の上に敷地があって、その下には大きな池があって。いつも仲間たちと森に遊びに行ったり、森の中にツリーハウスを作ったりしてました。あと、当時は果樹の木を植えるのは、木から実が落ちる様子は、人の首が落ちることを連想させるから縁起が悪いと言われていたんですけど、親父たちはそれでも本当は植えた方がいいんだって、庭にネーブルとかレモン、みかん、かぼすとかを育ててました。食べた琵琶のタネをペッと捨てたら大きな木になって実がついたりとか、とにかく農的な暮らしをしてくれていた。当時は「エディブルガーデン」なんて言葉はまだなかったけど、当時すでにやってたんです。僕がパーマカルチャーに辿り着いたのは、幼少期の経験が少なからず影響していると思います。
育った環境から自然に興味を持つようになったんですね。
その後、僕が中学生の頃、学園都市開発で、遊んでいた森が少しずつ切られ始めたり、筑紫哲也さんの「ニュース23」で環境問題を取り上げているのを観て、環境にすごく関心を持つようになりました。自然がどんどん壊れていくのを身の回りで実感していたから余計に、こんなことはやっちゃいけないと思った。僕の故郷は今もあそこにあるけど、当時の景色はもうないですからね。あんなに静かな所だったのに、下には大きな学園都市と大きな道路があって、僕のお気に入りだった池は全部埋め立てられてます。 そういう意味で僕が今やっていることは、環境破壊と資本主義の流れに対する反動なのかもしれないですね。
なるほど。その後、信州大学の農学部森林科学科に進学されたんですよね。
最初は環境を意識して木こりになろうと思ったんですよ。それで当時信州大学農学部に森林科学科というのがあったので、そこに入りました。最初は森づくりを通して環境に関われたらいいなと思ってたんですけど、実際に林業を学んでみたら、助成金どっぷりで、産業としても全然成り立ってないし、植えるものはみんな針葉樹。いくら木を植えたって、環境を変えるためには、人々のライフスタイルを変えていかないと価値観は変わらないと思いました。それと同じ頃、僕は日本人なのに洋風の家に住んだり、テーブルと椅子に座って食事をしたりしていて、本来日本人ってどういうことなんだろうということも意識し始めていました。そこで、完全に昔の暮らしに戻るのは難しいから、明治、大正、昭和のような和と洋がうまく寄り合った文化を取り戻すのがいいんじゃないかと思って、卒業後、地元の宮大工の門を叩きに行ったんです。住む場所を文化のある暮らしに変えれば、そのようなライフスタイルにもなりますし、そういう家を作るということは山の木を使うことになるじゃないですか。大工さんを支えることにもなって、技術も伝統文化も伝わることになりますし。
それで門を叩いてみて、どうでしたか?
オートメーション化がすごく進んでいて、僕が求めていたものと違うなと思いました。その時に、人が作るってとてもすごいことだけど、やっぱり限りがあるんだなと思って、自然を相手にすることをしようと思ったんです。それで砂漠の緑化などをする緑化工学を学ぼうと大学院に進学しました。そこで舵を切って良かったですよ。本当にいろんな偶然が重なってそうなったけど、今このことをやってるのは必然的なんじゃないかって思うんですね。
ちなみに、日本でパーマカルチャーデザイナーは四井さんの他にもいるんですか?
いますよ。でも、「それはパーマカルチャーじゃないじゃん」みたいなことが多いですよね。僕自身、パーマカルチャーリストとして名乗れるようになるまでは時間がかかりました。例えば愛知万博では、オーガニックレスレストランに隣接する庭に設置したバイオジオフィルターという仕組みを設計して、庭に土ができたり、ビオトープの水が讃えられたりとか、完全な循環の仕組みを作ったんです。他にも、万博会場初の麦畑を作って麦を収穫したりと、本当に大きなことをやりました。そのように、自然の仕組みを応用して、持続可能な仕組みを作るのがパーマカルチャーだと思っていたんですけど、実はそうじゃないんですね。人が暮らすことが駆動力になって、全体の仕組みが動いて、そこに人だけでなく色んな生き物が住むことによって、色んな活動が生まれる。実は生き物が持続可能な仕組みになるように、自然の仕組みに組まれているわけですね。でも人間はそこから違う生き方を選んでしまっているので、循環の仕組みの中に入れなくて、暮らすことが環境を壊すことになってしまった。僕自身、そのことに気づいたのは山梨に引っ越してからでした。
畑で採れた大きなこんにゃく芋
長野にいた頃は、まだそのことに気づいていなかったんですか?
それまでは循環の仕組みを組むことがデザインだと思ってたんです。でもそうじゃなくて、暮らすことが同時に持続可能な仕組みを生むんだと気づいて。長野から山梨に移って、うちの近くにもバイオジオフィルターを家族と一緒に作って、実際に10年以上使ってますが、暮らすことによって排水が出て、その排水によって微生物が繁殖し、微生物が分解した無機物を僕らが植えた植物が吸収して、それを野菜やワサビとして収穫したりしてます。また、僕の住んでる場所は、本来は山の中の乾燥している所なんですけど、僕らが住むことによって水辺の環境が生まれ、水の中に栄養分が含まれて、たくさんの生き物が増えたことを実感しました。
素晴らしいですね。
それまでは「エコロジーって何?」って聞かれたら、「地球にインパクトを与えないような暮らしをすること」って答えてたんですけど、そうじゃなくて実はエコロジー、あるいはパーマカルチャーというのは、人が暮らすことによってより場を豊かにすることなんじゃないかと知って。その時に、なぜ豊かになっていくのかを考えたら、実は命の仕組みというのはこういうことなんだと思ったんです。それからやっと自分自身をパーマカルチャーリストだと言えるようになり、パーマカルチャーデザインに活かせるようになりました。
やぎのユキと
実体験を通して、やってきたことが結びついた瞬間があったんですね。
そうです。みんな便利さにすごく気を取られていて、暮らしの大切なことを忘れてるんですよ。僕も多分そのうちの一人だったと思います。でも家族とその場を築いてきて、「自然の仕組みってここまでできてるんだ」とか、いろんな気づきがありました。多分その仕組みは、人知を超えるところまで形作られています。大元の命の仕組みというのは、本当にシンプルです。シンプルな仕組みの組み合わせが複雑な生態系を組み立てている。フラクタル理論って言いますけど、ある一つの理論に沿って複雑になっただけなんです。その命の仕組みに沿って自然の仕組みやいろんな生き物の多様性、有機的な繋がりが生まれたり、生き物が暮らすことによって空気ができたり、水が綺麗になったり、土ができたりということに繋がっていくんです。
では、この仕事をされていて、しんどいと感じることは何かありますか?
人々の温度差ですね。僕はみんなが平和に暮らすためにいろんな提案をしていて、クルックフィールズとかいろんな商業施設とかを設計し、そこをスタッフに運営してもらうわけですけど、スタッフの中にはお金をもらえなければそんなことをやる必要もないと思ってる人もいて、その温度差を感じると残念に思います。みんなが同じように地球環境に問題意識を持って行動していれば同じベクトルを向くはずなのに、その温度差があることで、環境のことをやるのはいいけど、まずは利益を上げないといけないんじゃないかと、軌道に乗ってから環境に投資をしようとかって話になるわけです。
たくさんの野菜やハーブなどが育つ畑をバックに
資本主義な世の中で起こりがちな問題ですが、スタッフの方との間に温度差を感じるのは辛いですね。
今現在は、利益を上げるだけでなく環境についてもちゃんと考えた対応をしていないと、銀行も融資しないようになってきたからいいですけど、大企業とかでなく、中小とか個人の暮らしの中ではまだ効率とか採算性とかの方が先に立ってます。昔だったらお金を稼ぐのに面倒くさいことをやるのは当たり前だったけど、今は便利さから面倒がどんどん省かれていって、ある意味怠けてお金を稼いでるのに、それを効率だと言ってるわけですよね。そういう考えでは文化もちゃんと形成されないし、人々がものづくりをできなくなってしまいます。あと、体勢の社会になってるから、資源を大切にしようという考えもないし、それを修理する技術もない。そうすると文明は価値観として持続可能じゃなくなってしまうんですよ。
次回へ続く