HIGHFLYERS/#45 Vol.2 | Jan 21, 2021

ハードロックやブルースにハマった音楽漬けの中高時代。建築家を目指して入った大学でデザインの楽しみを知る

Text: Atsuko Tanaka / Photo: Atsuko Tanaka & Shusei Sato / Cover Design: Kenzi Gong

菅谷晋一さんのインタビュー第2章は、幼い頃のことから学生時代、そしてデザイナーの道を志すまでのお話をお伺いしました。小さい頃からものを作るのが好きだったという菅谷さんですが、中高時代は音楽にどっぷりとハマった時を過ごしたと言います。高校卒業後は建築家になることを目指して、北海道の大学へ進学。在学中は周りの友達の影響で、デザインの方に面白みを感じるようになりました。卒業後は、実家の町工場へ勤めた時期もありましたが、本当に好きなデザインを諦めきれず、その道へ進もうと決意されます。葛藤を乗り越えて着手したことなどもお話しくださいました。
PROFILE

デザイナー 菅谷晋一

1974年3月30日生、東京都出身。絵を描き、オブジェを作り、版画を刷り、写真を撮り、コラージュをし、映像のディレクションまで、ビジュアルをあらゆる手段で表現する。エポックのアトリエでは、音楽関係、装丁、ファッション、コーポレート・アイデンティティ、ビジュア ル・アイデンティティなどジャンルを問わず、日々ひとりで作り出している。

実家の町工場に勤めるも、デザイナーとしての道に進むことを決心。父の許しを得て、架空のアルバムジャケット制作に励んだ日々

子供の頃は何が好きで、どんなことをして過ごしたかなど教えて下さい。

ものを作るのが好きだったかな。一人っ子で、今みたいにおもちゃはそんなに安くなかったから、自分で作って遊んでた記憶がありますね。最初は親や幼稚園の先生からハサミの使い方が上手いねって褒められたり、何かを作っておじさんにすごい褒められたり、そんな些細なことが積み重なって、自分の自信になっていったというか。とにかく絵を描いたり、ものを作ったりしてました。

ご両親はどんな方で、どんな育てられ方をしましたか?

うちの父親は7人兄弟で下の方なんですけど、昔の父を知る人は遊びの達人って言うほどいつも遊んで元気の良い人だったそうです。僕にとっても父親というかお兄ちゃんみたいな存在でした。僕のことをたまに自分の弟の名前で間違えて呼ぶこともあったくらいなんで、本当に兄弟として見てたのかなと思いますね。母親は、僕と父親の先生みたいな感じだったのかな。規律正しい人で、父親がちょっとふざけていても、それを優しく見守ってたり、上手くバランスを取ってくれる人だったかと思います。

小さい頃は何になりたいと思っていましたか?

本屋さんになりたかった。多分図鑑を見るのが好きだったから、そう思ったんですかね。絵を見たり、いろんなことを知れるのが良かったんでしょうね。

中学時代はどんな学生生活を送りました?

音楽漬けですね。中学生の頃から「ベストヒットUSA」 とかで海外のミュージックビデオが流れ出して、周りは多分ブルーハーツとかを聴いてたんだろうけど、僕は洋楽ばっかり聴いてました。最初は Run DMC とエアロスミスが共演した 「Walk This Way」っていう曲にハマって。あれを聴いてヒップホップに行く人とロックに行く人と分かれるんだけど、僕はロックの方に行った。そこからハードロックが好きになって、Guns N’ Roses とかはすごい刺激的で、もうキャーキャー言ってましたね(笑)。休日はレコード屋に並んで海賊版を買って聴いたりしてました。

菅谷さんご自身がバンドをやろうと思ったことはなかったんですか?

ギターとかやったことはあるけど、向いてないと思って。手が小さいから結構難しかったです。それで、畳の上にジャケットを並べては、「かっこいい! 」ってやってました。そうやってビジュアル的にも音楽を捉えてたんだと思います。

高校の頃も同じように音楽を聴いて過ごされたんですか?

高校時代はロックの源流となってるブルースとかにも興味が行って、ライトニン・ホプキンスや、マディ・ウォーターズとかを聴いてましたね。その頃から、ライブに行くようにもなりました。高校の文化祭でラモーンズのコピーバンドをやってた先輩のライブを見て、すごい衝撃を受けたんです。学食でテーブルとかをどかしてライブするんだけど、パイプ椅子とかが飛んでるんですよ(笑)。そこから行けるライブは行ったって感じですね。印象に残っているのは、高校2年の大晦日に行った、東京ドームでのボン・ジョヴィとかシンデレラとか、いくつかのバンドが集まってやったライブ。友達と行ってすごい楽しかったのを覚えてます。

その後、大学ではデザイン形の建築を学ばれたそうですね。高校の頃から建築を学びたいと思っていたんですか?

そうですね。何で興味を持ったのかは忘れちゃったんだけど、建築家になりたいなって漠然と考えて、北海道の旭川にある東海大学の芸術工学部に入ったんです。校舎が山の上にあって、北海道だからログハウスとかを作るんですよ。そういうのが楽しそうだなと思って。学校には建築科とデザイン科があって、デザイン系の友達の方が多くいたから、段々デザインの方に吸い寄せられていきました。当時は、バンクシーがやってるような、ステンシルでスプレー作品を作ったり、そういうのをよくやってましたね。

卒業後はどのような道を辿られたんですか?

4年生の夏休みに周りのみんなが就職活動しているのを見ていて、その就職先のほとんどは大手のハウスメーカーとかで、僕が思ってたような建築家にはなれないんだと気づいて。それで悩んで、写真も好きだったから、カメラマンのアシスタントとして夏休みを過ごしたいと思って、あるカメラマンさんに手紙を出したんです。そうしたらオッケーをもらったんだけど、僕が交通事故にあってしまい、ダメになってしまった。結局やりたいこともできないなって思って、実家に帰って父親の仕事を改めて見た時に、これも面白そうだなと思ったんですよ。それで父親の元で仕事をしてもいいか聞いたら父も喜んでくれて、実家がやってる工場で働き始めました。

実際にやってみてどうでした?

うちの実家は、例えばステレオのパネルとか時計の部品とかを、一枚の鉄板からくり抜いたり加工したりする機械を作っていて、そこで3年働いたんですけど、やっぱり機械を作るよりデザインする方がやりたいって思っちゃったんですね。すごく悩んだけど、父親にそれを告げたら理解してくれました。父親も僕の気持ちに薄々気づいてたんでしょうね。やれることがあるんだったら色々勉強してやったらいいよって。

それでアートの方へ進もうと、どんなことをされたんですか?

Macのコンピューターが少し安くなった頃で、手に入れることができたので、自分が撮った写真を加工したりして架空のジャケットとかを作って作品をためていきました。これがやりたいっていうのは特になかったけど、その時自分ができることは、やっぱり好きなジャケットを作り続けることかなと思って、50枚ぐらい作って。それで色んな方に見てもらったんです。

次回へ続く

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エポックのアトリエ
菅谷晋一がつくるレコードジャケット

新宿シネマカリテほかにて絶賛上映中!

出演
菅谷晋一、ザ・クロマニヨンズ<甲本ヒロト、真島昌利、小林勝、桐田勝治>、  OKAMOTO'S<オカモトショウ、オカモトコウキ、ハマ・オカモト、オカモトレイジ>、青柳拓次、VLADO DZIHAN、DJツネ、佐藤有紀、石川明宏、森内淳、信藤三雄、佐々木進
プロデューサー・監督・編集:南部充俊|撮影:千葉真一(J.S.C)|音楽:青柳拓次|エンディング曲 青柳拓次 featuring 真島昌利|協力プロデューサー:汐田海平、戸山剛| 制作プロダクション:エイゾーラボ
配給
SPACE SHOWER FILMS
公式HP
https://epok-film.com

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