HIGHFLYERS/#20 Vol.3 | Dec 1, 2016

11PM出演で人生が一変。テレビの仕事が激増した反面、家族は崩壊、ストレスで顔面麻痺に。テリー伊藤が与えた復帰のきっかけとは

Text: Kaya Takatsuna / Photo: Atsuko Tanaka / Cover Image Design: Kenzi Gong

Mr.マリックさんインタビュー第3回目は、マジシャンとしてテレビで一世を風靡した時代のお話。木曜スペシャルやNHKスペシャルに出演し、名声を手に入れ頂点に立ったはずのマリックさんですが、超有名人となったマリックさんの環境は、周りの人が入れ替わり、家族が崩壊し、御自身はストレスが原因で顔面麻痺で入院するなど、数多くのトラブルを抱えていました。マリックさんが有名になったことで見えた風景や、逆に犠牲にしたこと、そしてそこから学んだことなどをたっぷり伺いました。
PROFILE

サイキックエンターテイナー/超魔術師 Mr. マリック

1988年、超魔術生誕。「11PM」にて衝撃的デビュー。 超魔術は瞬く間に世間に知れ渡り、日本中に旋風を巻き起こした。「きてます」や 「ハンドパワー」などの流行語を生み出す。 1990年のゴールデンアロー賞・話題賞、ATP賞を受賞。 TV・単独ライブツアー等は勿論、歌舞伎座・コンサート・イベントなどの舞台演出、特殊効果、技術指導等も行うなど、活躍は多岐にわたる。 現在は、自身の活動に加え、若手の育成を精力的に行っており、2014年に韓国で開かれたマジック界のオリンピック“FISM”のアジア予選では、特別講師として招かれ教鞭を執った。 どの年代からも幅広く支持されている超魔術は今も進化をし続けている。

今、目の前にあることに一生懸命になることが次に繋がる。どんな悲惨なことでも、それを経験した意味を見出すことで救いが見つかる

14年間の東京での実演販売の後、テレビの世界へ進出していくきっかけは何だったのですか?

デパートでの仕事も一応落ち着いた頃、世間はユリ・ゲラーの超能力ブーム真っ只中でした。僕の中にも、あの超能力を超えるくらい不思議なものを観せたいというのが中心軸にありました。当時は超能力が本物でマジックはインチキだから、お金を払ってマジックショーを観に行こうとする人達は少なくなっていたんです。それで僕はマジックが出来る場所を自分で見つけなきゃいけないと思って、自ら売り込みにいきました。当時品川にあったパシフィックホテルの最上階に、ペトロ&ガプリシャスやロス・インディオスが定期的に歌っている夜景の綺麗なナイトクラブがあって、ここなら毎晩やりたいなって思ってね。でも座席は夜景の見える窓側を向いているので、ステージを見てもらえないんです。それで苦肉の策でカップルの座っているテーブルの前に行って「お札持ってますか?」って言ってお札を借りて、ビリビリに破いてパッと元に戻したり、お札を浮かせたり、指輪を消してキーホルダーから出したりと、客の目の前で不思議な事をやったんですよ。そしたらキャーって歓声が起きるから、夜景を見てた人達も何の騒ぎだと、どんどん集まってくるんです。クロースアップ・マジックというのは、まだプロのマジシャンもやってなかったから、もの凄く新鮮だったみたいですよ。

ユリ・ゲラーと

マリックさんの人生には、必ずクロースアップが転機のタイミングで関わってくるんですね。

「壁際に追い込まれた鶏は空を飛ぶ」って言うじゃない。追い込まれなかったら飛ばないし、飛べることさえ忘れているでしょ。追い込まれた時に出る力こそ超能力であって、その環境だから出来るんですよ。その後、パシフィックホテルがホテルオークラを紹介してくれて、オークラのラウンジで毎週1回やらせてもらっていた時、色んな有名人達が来てくれました。デーモン小暮さんが人間の姿で来たり、宝塚のスターが公演後にファンまで連れて来ちゃったり、坂本九さんの奥さんが夢を見せてあげてほしいと娘二人を連れてきてくれたりと、色々なことがありました。それが口コミでテレビ局に伝わって、その後浅草ビューホテルでやった時に、「11PM」のプロデューサーと作家さんが観に来てくれて、11PMに出演することになったんです。一つの事をやると、不思議な事に次の仕事を呼ぶんですね。そんな先の事まで考えていたわけじゃないんです。全てはタイミングと環境と周りの人の輪ですよね。この3つが揃わないと成功は絶対にないですよ。

そこからまた人生が大きく変わったんですね。

一晩で変わりましたね。最初に11PMに出演した時は反響はありましたけど、世の中の人達が振り返るってほどではなかったんです。やはり凄かったのは日本テレビのゴールデンタイムの「木曜スペシャル」に出てからですよ。

Mr.マリックとしてテレビで大人気を博した頃

Mr.マリックという名前はいつから使っているのですか?

伊勢丹で実演販売してた時に、多くの子供達が買いに来ていたのですが、僕の本名の松尾さんでは普通すぎて、なんか威厳がない(笑)。沢田研二さんのジュリーのようにニックネームを付けたくて、3ヶ月間くらい考えたんです。それで、マジックとトリックを重ねて、マリックとつけました。“マリック先生”っていう名刺を作って「出来なかったら聞きにいらっしゃいね」って子供に渡していたんです。伊勢丹のお客さんを集めて店休日に「マリック手品教室」もやっていたんですよ。

11PMをきっかけに大ブームになって、テレビをつければマリックさんを必ず目にする時代がありましたが、御自身の中でも「俺ってすごいんだ」という自覚はありましたか?

やっぱり勘違いしますよね。今まで僕の周りにいた人が総入れ替えして、全く違う人が集まって来ました。それまでは自分が働いて稼いだギャラは全部自分で使えるという個人商売だったんですが、メジャーになると私が何かやったことによって周りで儲かる人も大勢出てくるんです。全然知らない人がわーっと集まって来て、お金だけが私の目の前を通過していくのが分かるんですよね。はたから見たらものすごいお金稼いでいるように見えていたと思いますが、実際は通過していってただけなんですよ。私も一人でやっていた時よりはいいわけですし、みんなも儲かるからそれはそれで全然いいんですけれども、待遇がガラッと変わってきますから自分自身が勘違いしてきますよね。

その頃、ご家族との関係はどうでしたか?

もう家庭崩壊ですよ。家族はそれまで通りの生活を送っているわけですからね。息子はもう大きかったから、卒業生総代で「お父さんはマリックですけど、僕は僕で生きていきます」って凄いこと言ったらしいけど(笑)、娘は学校を退学させられて。テレビという世界で僕なりに幸せをもらったけれど、それなりに犠牲も出てしまった。でも娘も色んな意味で苦労してたけど、音楽を続けてラッパーとして活躍して、今こうして親子で一緒に番組に出るようになって。テレビに再び絆をつなげてもらったんだと思うと不思議ですよね。

Mr.マリックとしてものすごく売れた時代はどのくらい続いたんですか?

結構続きましたよ。ただ僕は突然、ストレスが原因で顔面麻痺という病気になったんです。ストレスって、例えば金銭面の問題だけとか問題が一つだけならただのストレスで終わるんだけれども、あちこちでどうしようもない問題が起きて、問題がいくつも重なってくると壊れてくるんですよ。僕は顔が真ん中から完全にずれて断層ができて、鉄板みたいになってしまったんです。昭和医大に行ったら、「今このまま即入院です」と言われ、ペインクリニックといってその頃まだ出来たばかりの治療を受けました。この時、この治療を受けられたのが不幸中の幸い。だから人生はね、やっぱりタイミングは絶対です。絶対に運ですよ。

でも運を引き寄せるには、ただそこにいるだけではダメですよね。

やっぱり目の前にあることを一生懸命やってなきゃダメ。一生懸命やることが運を呼ぶ力になって、みんなが何とかしようと集まってくれるんですよね。治療の時、喉に我慢できないほど痛い麻酔を1日に2回も打たなければならなくて、刺す時に痛くて暴れちゃうから4人がかりで押さえられるし、痛さを知っているから拷問ですよね。でも、ドクターに「タバコ一本吸ったら注射する回数が一回増えるよ」って言われたおかげでタバコをやめられたんです。あの時、神様は僕になぜこの経験をさせたのか考えると、後からタバコをやめろってことだったんだって答えが出て来る。どんなに悲惨なことでも、そうして一つでも救いがあったら納得できるじゃないですか。世の中は悪いことだけで連なってないですよ。

復帰してからは以前と同じペースでお仕事されたのですか?

いや、全くならなかった。復帰後も2年ぐらいはほとんど仕事はできなくて、テレビからしばらく離れていたんですが、ある時テリー伊藤さんから「マリックさん、最近テレビに出てないけど何してんの?」って事務所へ電話があって、「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」や「ASAYAN」なんかに誘ってくれて。テリー伊藤さんは僕がまだ六本木のナイトクラブでマジックやっていた頃によく見に来てくれてた人なんですよ。事情を話すと、「じゃあ、扮装して出ればいいよ。バラエティだから」ってしきりにバラエティっていうのを強調してくれたんです。それがテレビに戻ってくるきっかけになりましたね。それからスペシャル番組をやったり、「たけしの誰でもピカソ」に出演したりしました。結局僕のスペシャル番組は全テレビ局でやりましたね。

過去の色んなことを振り返ってみて、マリックさんの人生で一番辛かった時はやはり顔面麻痺になってしまった頃ですか?

いや、やっぱり一番は元マネージャーが僕のマジックの種明かしをフライデーに売り込んで、「超魔術の嘘」という6ページぐらいの記事が二回に渡って掲載されたことです。

それは裏切られたということですか?

これはねぇ、ものすごい深くお金が絡んだことなんです。テレビで有名になると先ず営業の仕事が入ってくるんですよ。そうすると営業会社とマネージャーはスケジュールの取り合いで喧嘩になる。お笑い芸人の方なども皆経験していると思うんですが、僕たちは来た仕事を一生懸命やるしかないんだけどね。それで、営業会社は会社として成り立っているけど、僕がまだ無名の頃からテレビに売り込んでくれたマネージャーは個人でやっていたから邪魔者扱いされてしまって。そのマネージャーは靴底がすり減るぐらい一生懸命売り歩いてくれて僕を世に出してくれたのに、ようやく有名になった頃にこじれたものだから、怒りの矛先は僕となってフライデーに売り込んだわけ。あの時は凄いニュースになって、僕も多くの非難を受けましたけど、それでもやはりテレビの方が力が強いんですよ。紙媒体では僕を潰せなかったんです。

そこから何か学んだことや、今も肝に命じてることはありますか?

仕事とお金は別物だということ。未だにそうですけど、僕は今日の仕事はいくらだとか、この番組の出演料はいくらだとか値段を聞いて仕事をしたことは一回もないです。お金のことは頭の中から外して、今度の仕事は何人のお客さんがいて、どういう人を楽しませなきゃいけないかとか、その仕事で一番ベストなことだけを頭においてマジックに集中してきたのが良かったです。それでふと気付いた時には、ちゃんとお金が振り込まれていたっていうのが一番理想的な仕事の形でしょうね。

次回へ続く

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