HIGHFLYERS/#21 Vol.1 | Jan 12, 2017

DJの経験からリオ五輪閉会式の映像演出まで。また、真鍋大度が捉える「東京」とは

Text: Kaya Takatsuna / Photo: Atsuko Tanaka / Cover Image Design: Kenzi Gong

今回HIGHFLEYRSに登場するのは、メディアアーティスト、プログラマーであり、DJやVJとしても活躍する真鍋大度さん。小劇場での実験的舞台やメディアアート作品制作からPerfumeのコンサートでは演出の技術サポートや、リオオリンピック・パラリンピック閉会式のフラッグハンドオーバーセレモニーのAR映像演出を含む技術面の支援まで、幅広く手掛けています。また、ビョークやノサッジ・シングなどの海外アーティストや高級ブランドのボッテガ・ヴェネタとのコラボレーションなども精力的に行う真鍋さんは、今まさにメディアアート界の第一線を走り続ける時代の寵児です。第1回目は、DJのお話からリオオリンピックのフラッグハンドオーバーセレモニーでのパフォーマンスの映像演出についてを伺いました。
PROFILE

メディアアーティスト/DJ/プログラマ 真鍋大度

2006年Rhizomatiks 設立、2015年よりRhizomatiksの中でもR&D的要素の強いプロジェクトを行うRhizomatiks Researchを石橋素氏と共同主宰。プログラミングとインタラクションデザインを駆使して様々なジャンルのアーティストとコラボレーションプロジェクトを行う。米Apple社のMac誕生30周年スペシャルサイトにてジョン前田、ハンズ・ジマーを含む11人のキーパーソンの内の一人に選出されるなど国際的な評価も高い。 2008年、自身の顔をデバイスとして用いて制作した『electric stimulus to face-test』 は世界の30都市以上で発表されてきた。その後 Ars Electronica(Linz)、STRP Festival(Eindhoven)、Resonate(Serbia)、Sónar(Barcelona) などの海外フェスティバルに数多く招聘され、様々なインスタレーション、パフォーマンス作品を発表。石橋素氏との共作『particles』は2011年、Ars Electronica Prix Interactive部門にて The Award of Distinction(準グランプリ)を受賞。同部門において2012年に『Perfume Global Site』、2013年には『Sound of Honda / Ayrton Senna1989』が Honorary Mentionを受賞。またインスタレーション、データ解析を担当した『Sound of Honda / Ayrton Senna1989』は2014年 Cannes Lions International Festival of Creativityにおいて Titanium & Integrated部門グランプリ、8部門でゴールド6つ、シルバー6つを含む15の賞を受賞している。 文化庁メディア芸術祭においてはこれまでに大賞2回、優秀賞3回、審査委員会推薦作品選定は8回を数える。 DJのキャリアは20年以上。国内ではFlying Lotus、Squarepusherをはじめとした海外アーティストのライブに出演し、海外の音楽フェスティバルからも数多く招聘されている。 また国内外のミュージシャンとのコラボレーション・プロジェクトも積極的に行い、Nosaj Thing、FaltyDL、Squarepusher、Timo Maas、岡村靖幸、やくしまるえつこらのミュージックビデオの監督のほか、坂本龍一とのインスタレーション作品『Sensing Streams』、Nosaj Thingのライブセットのビジュアルディレクションとプログラミング、Perfumeのライブ演出の技術面を担当している。 2011年よりダンスカンパニーELEVENPLAYとのコラボレーションをスタート。新たな身体表現を発明するためにコンピュータービジョンや機械学習技術、ドローン、ロボットアームなどのテクノロジーを用いて作品制作を行う。Sónar(Barcelona)、Scopitone(Nantes)、Mutek(Mexico City)等のフェスティバルで作品を発表し、WIREDやDiscovery Channel等、国内外のメディアで賞賛を受ける。

アイディアはテーマありき。ありのまま表現すれば、自ずと日本らしい作品になる

最近オフィスを白金から恵比寿に移転したそうですが、新しい環境はいかがですか?真鍋さんはもともとこの辺りで生まれ育ったのですよね?

会社は2016年の4月に移転しました。恵比寿が地元なので友人がやってるお店も近所にあって誘惑が多いですね。大学の頃はいつも渋谷か六本木で遊んでいました。

オフィス近くの打合せスペースにはターンテーブルもありますが、DJもかなり本気でやってらしたと伺いました。

中学から始めて、大学の頃はヒップホップをメインにかなりやっていました。DMC(85年から続くスクラッチなどDJの技術を競う大会。各国で開催され、年に一度世界チャンピオンを決める)には出られなかったですが、小さな大会では優勝したこともありますよ。今年は海外の仕事が多かったのでDJはあまりやってませんでしたが、最近ようやく落ち着いてきたのでまた再開しています。月一回くらいの頻度で「ANALOG」というイベントもやっています。今はDJしている時が一番気楽ですね。

大学の頃は六本木をメインにDJしてたのですか?

そうですね。レコード抱えて何軒もはしごして。あの頃は、若い子もたくさんクラブに来てましたよね。大人には大人の、子供には子供の遊びがありましたね。

2000年、大学生の頃

ヒップホップをメインにDJされていたとのことですが、仲の良いアーティストはいますか?

ニューヨークのアーティストだとグループ・ホームや、アフラ、ジェルー・ザ・ダマジャあたりは今でも繋がりがありますね。ピート・ロックは大学の頃、来日した時に色々案内しました。昔、僕が働いていたクラブにレッドマンが遊びに来てバックDJをやったりと、色んなことがありましたね。

ニューヨークにはよく行かれていたのですか?

DJをやりすぎて留年したので大学1年で箱付きのDJは辞めたのですが、ニューヨークには2、3年の時によく行っていました。その頃、レコード屋のバイヤーもやっていたので、イーストヴィレッジのレコード屋を回ってレコードを買いつけしたり、SUPREMEとかの洋服の買いつけもしたりしていました。90年代はDJも音楽も、ヒップホップをやろうと思ったら本場のニューヨークに行かねばっていう風潮がありましたよね。

ところで、リオオリンピック・パラリンピック閉会式のフラッグハンドオーバーセレモニーでは、パフォーマンスのAR演出やプロジェクション映像、光るフレームなどの技術演出を担当されましたが、今まで実現されたプロジェクトの中でも非常に大きなものだったのではないでしょうか。周りの反応や手応えも凄かったのではないですか?

そうですね。でも、パフォーマンス中は会場内のブースの中で、片耳にイヤフォンをつっこんで、その上にヘッドフォンをして、反対の耳には別のヘッドフォンをしてと、3つの音源を同時に聞きながらバックアップのシステムの色々なことをやっていて、終わるまで観客の歓声もあまり聞こえなかったのでリアルタイムでの反応は分からなかったんです。いくつもの音を同時に聞き分けないといけなかったので、DJやってきて良かったとは思いましたけどね(笑)。パフォーマンスの最中は、自分のパートも含め、事故が起きないようにとにかく祈っていました。

他に大変だったこと、逆に良かったことはどんなことですか?

僕はソフトウェアがメインなので規模が大きくなっても実装の規模は変わりませが、フィールドの演出と振付を担当したMIKIKOさんや大量のハードウェアを開発した石橋さんチームは本当に大変だったと思います。ライゾマリサーチのパートに関して言うと、今までの積み重ねを大きな舞台で発揮出来る一番のチャンスだったので、ここまでやるかというくらい色んなことを詰め込みました。プロデュース陣やクリエイティブディレクター陣が頑張ってくれたおかげでもあるし、これ以上は絶対出来ないというところまで出来たので、よくやったなぁと思います。

現場の観客とテレビの視聴者とでは見ているものが違う演出部分もありましたが、そういった工夫も今まで経験したことが集大成となって生かされていたのですね。

本当にそうなんです。いきなり今回のようなことをやるのは難しいけれど、小さいプロジェクトでひたすら実験して実証しておくと、大一番で自分達がやりたいことを実例を見せながらプレゼン出来たり、技術的な問題をトライアンドエラーなしに解決方法を提示出来たりするんですよね。テクニカルな部分はここ3、4年で既に実証実験が終わっていることをカスタマイズしたりアップデートして臨みました。条件はシビアでしたが、ソフトウェア上でシミュレーションするなど色々工夫しましたね。

2020年東京オリンピックは、仮に依頼が来た時のことを想定して既に何かイメージはお持ちですか?

オリンピックはスポーツの祭典ですし、何かあったとしても自分は演出技術のサポートなので、お題が下りてくるまではイメージするのは難しいですね。リオの時も決められたテーマやコンセプト、演出家のイメージを形にすることが第一でした。

リオオリンピックのフラッグハンドオーバーセレモニーの時は、特に東京や日本人であることを意識して作ったのですか?

今、僕は日本より海外で作品を発表する方が多いけど、海外では自分が日本的だと思っていなかった部分を日本的だと言われることがあるんです。例えば、時間の感覚についてです。ラテン系の人達に比べるとかなり細かくシーンを分割したり、ものすごく長い間を作ったりしている。その結果自由度も少なくなるけれど、緻密かつ再現性が高くなっていく。だから日本人であることを特に意識しなくても日本らしい作品になるし、結局は日本人が作ったものにしかならないと思います。

真鍋さんは生まれも育ちも東京だから、東京に対する憧れがないという境遇も影響しているかもしれませんね。

それはあるかもしれません。東京で生まれ育った自分が「東京とは?」と問われたら、もうありのままとしか言いようがないのだけれど、浅草や隅田川のほとりで遊んでいたことなど、古い東京を知っていることは少なからず影響があるかもしれないですね。ただ、テーマに関しては議論や調査の中で決まっていったことで、自分の役割としては具体的、言語的なものから抽象的な映像や光のイメージを作り出すことがメインでした。「最先端のテクノロジー」を用いた表現ということも一つテーマにありましたし。

次回へ続く

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