HIGHFLYERS/#21 Vol.2 | Jan 26, 2017

一流企業を1年で退職しフリーターを経験後、IAMASでテクノロジーを使った表現方法を習得。それまでを支えた精神とは

Text: Kaya Takatsuna / Photo: Atsuko Tanaka / Cover Image Design: Kenzi Gong

メディアアーティストとして第一線で活躍する真鍋大度さんインタビュー第2回目は、幼い頃からの音楽との関わりや学生時代のこと、また、一度は大手企業に就職した真鍋さんが、転職後フリーターになっても落ち込むことなく果敢に進んだ20代のお話です。真鍋さんのテクノロジーに対する概念や今後の人生を大きく変え、「音楽」と「数学」を1つに繋げたIAMAS(情報科学芸術大学院大学)での出来事についても伺っています。
PROFILE

メディアアーティスト/DJ/プログラマ 真鍋大度

2006年Rhizomatiks 設立、2015年よりRhizomatiksの中でもR&D的要素の強いプロジェクトを行うRhizomatiks Researchを石橋素氏と共同主宰。プログラミングとインタラクションデザインを駆使して様々なジャンルのアーティストとコラボレーションプロジェクトを行う。米Apple社のMac誕生30周年スペシャルサイトにてジョン前田、ハンズ・ジマーを含む11人のキーパーソンの内の一人に選出されるなど国際的な評価も高い。 2008年、自身の顔をデバイスとして用いて制作した『electric stimulus to face-test』 は世界の30都市以上で発表されてきた。その後 Ars Electronica(Linz)、STRP Festival(Eindhoven)、Resonate(Serbia)、Sónar(Barcelona) などの海外フェスティバルに数多く招聘され、様々なインスタレーション、パフォーマンス作品を発表。石橋素氏との共作『particles』は2011年、Ars Electronica Prix Interactive部門にて The Award of Distinction(準グランプリ)を受賞。同部門において2012年に『Perfume Global Site』、2013年には『Sound of Honda / Ayrton Senna1989』が Honorary Mentionを受賞。またインスタレーション、データ解析を担当した『Sound of Honda / Ayrton Senna1989』は2014年 Cannes Lions International Festival of Creativityにおいて Titanium & Integrated部門グランプリ、8部門でゴールド6つ、シルバー6つを含む15の賞を受賞している。 文化庁メディア芸術祭においてはこれまでに大賞2回、優秀賞3回、審査委員会推薦作品選定は8回を数える。 DJのキャリアは20年以上。国内ではFlying Lotus、Squarepusherをはじめとした海外アーティストのライブに出演し、海外の音楽フェスティバルからも数多く招聘されている。 また国内外のミュージシャンとのコラボレーション・プロジェクトも積極的に行い、Nosaj Thing、FaltyDL、Squarepusher、Timo Maas、岡村靖幸、やくしまるえつこらのミュージックビデオの監督のほか、坂本龍一とのインスタレーション作品『Sensing Streams』、Nosaj Thingのライブセットのビジュアルディレクションとプログラミング、Perfumeのライブ演出の技術面を担当している。 2011年よりダンスカンパニーELEVENPLAYとのコラボレーションをスタート。新たな身体表現を発明するためにコンピュータービジョンや機械学習技術、ドローン、ロボットアームなどのテクノロジーを用いて作品制作を行う。Sónar(Barcelona)、Scopitone(Nantes)、Mutek(Mexico City)等のフェスティバルで作品を発表し、WIREDやDiscovery Channel等、国内外のメディアで賞賛を受ける。

音楽と映像、プログラムを同時に取り扱うためには数学が必要なので、参入障壁がもの凄く高い。唯一の存在になるには特殊なスキルが必要

大量のレコードが棚に並んでいますが、何枚くらいお持ちなのですか?

ここにあるので3000枚くらい。レコードも一時期無用の長物的な感じになって結構売っちゃったんですけど、ここにきてまた人気が出て来ていますよね。ちなみに棚の上に置いてある青いジャケットのレコード「ヒップ・クルーザー」では、僕の父親がベースを弾いているんです。

お父様がベーシストなのですね。ご家族の皆さんはどんな方なのですか?

父は音楽に関してだけは小さい頃からやたら厳しくて、未だに厳しいことが結構ありますね。母はヤマハで音楽関係の仕事をしていました。

お父様が未だに厳しいとはどのように厳しいのですか?

学生の頃、自分がトラックを作っていたバンドに、父親にゲスト参加してもらう機会を作ったのですが、「ピッチが甘い」と注意されたり、そういうのは良くありました(笑)。自分は変なループもピッチが狂ってるのも、そういうものだと思ってしまうタイプなのであんまり気にならないんですよね。僕は仕事で年に1、2回くらい曲を作る機会があるのですが、ミュージシャンとしての厳しい耳を持っている母にとりあえずチェックしてもらうことも多いです。僕の周りのトラックメイカーが誰も気にしていなかったことでも、「ここのメロディはこの方が良くない?」みたいな感じで母と議論したり、音楽の話をすることは未だに多いですね。

音楽は小さい頃から好きだったのですか?

親は教養として僕に色々な事をやらせたのだと思いますが、ピアノをやっているうちに音楽が嫌いになってしまったんですよね。幼少期から13歳くらいまでピアノを習っていたのですが、小学校高学年の時の先生がとにかく厳しかったので、やめたくてしょうがなかったです。それに、家では常にジャズやクラシックがかかっていて、父がマイルス・デイビスやジャコ・パストリアスについて熱弁しているような、ちょっと変わった環境だったんですよね(笑)。でもその後、中学の途中からクラブに行くようになり、DJをやり始めて音楽を好きになったんです。

中学からクラブ通いとは早いですね。他に中学や高校の頃に興味があったものはありますか?

興味があったのはやっぱり洋服やストリートカルチャー、後は女の子じゃないですかね(笑)。勉強は普通にやっていましたが、中学の頃の1990年代初頭にDJや第一次日本語ラップブームが来て、ヒップホップに興味を持ちました。高校の頃は「東京ストリートニュース」などの雑誌で男子高校生がもてはやされた時代でした。高校生でDJやってるというだけで珍しがられるじゃないですか。その時に色々とチャンスがあったので、調子に乗ってずっとDJをやっていましたね。でも、学校では特進クラスにいました。

1998年、18歳の頃

高校で特進クラスとはかなり優秀ですね。数学は小さい頃から天才的に得意だったのですか?

大学まではパズルを解く感覚で凄く得意でした。逆に国語は全然出来なかったですけど。数学と英語の2教科で受験すれば良いということで東京理科大学を受験しました。2教科と言っても、数学300点、英語100点くらいの凄く偏った点数配分で、大学は数学しか出来ない人達が多く、美術系の学校より先生も学生も変わっている人が多かった。その後は、数学で大学院に行く選択肢もありましたが、先生に「数学に人生を捧げられるか」と聞かれて、解析学という分野ではかなり落ちこぼれていたこともあり、結局普通に就職活動をして、2000年にサラリーマンになったんです。

企業でサラリーマンとして働くことはどうでしたか?

システムエンジニアとして真面目に働いていました。与えられた課題を解くのが好きなので、あまり嫌だったこともなかったです。その後、一緒にライゾマティクスを立ち上げることになった同じ大学出身の千葉が、インターネットコンテンツ制作の会社に就職していたのですが、インターネットが一時期凄く流行った時に「面白いから来いよ」と誘ってくれたので、友達だし一緒に働けたら面白いと思って2001年に転職しました。その後入って半年くらいで経営が怪しくなってしまったので、クビにしてもらって暫くハローワークに通っていました。

ハローワークに通っていたのですか?その頃、不安になったり元の会社を辞めなければ良かったと思ったことはなかったですか?

ソフトウェアのエンジニアリングは食いっぱぐれることは無いという考えはどこかにあったかと思いますが、当時はあまり先のことは考えてなかったですね。

それでは、ハローワーク時代を経て、岐阜にあるIAMAS(情報科学芸術大学院大学) に行かれた経緯を教えてください。

それまで自分の中で全く別個のものだった、数学でやっていることと、DJでやっていることを合体させて何かをやりたいとずっと思っていたのですが、やり方が全然分からなかったんです。当時プログラミングを使って音楽を作れるのはIAMASくらいしかなくて、入学を決める前にIAMASの先生のライブを観に行ったら凄く面白くて感動したので、卒業生に僕のやりたいことを相談しに行ったことがありました。ターンテーブルのアナログレコードの信号解析をして映像をコントロールしたり、今はスタンダードになりましたが、当時はDJがまだCDでDJしていた頃にパソコンを使ってDJしたいことを伝えたら、作りたいものがあるならいいんじゃないかと言われたので入学を決めました。

実際に入ってみて、どうでしたか?

いわゆる専門学校のようなプログラミングを学んだりCGを作る授業はほとんどないし、先生も学生もちょっと変わっていて、課題も「2.5次元音楽を作る」とか、「P2P(ピア・ツー・ピア・ネットワーク)を使った作曲の方法を考える」とか実験的な課題でした。要は今までにないテクノロジーの使い方や可能性を見つけていく作業をしていく場所でした。後は学校の友人たちとひたすら制作をしていましたね。

IAMAS在校時代

IAMASを経て御自身の価値観も人生も大きく変わったのですね。

あとは時代が徐々にポップになっていったというか、テクノロジーを一般の人達が抵抗なく受け入れて楽しんでくれるようになったのもありますね。iPhoneやYouTubeの誕生が大きいと思います。

真鍋さん達が目をつけてやってきたことに、時代や経済など全てがついてきた感じなんですね。

なんで皆気付かなかったんだろうと思うこともあれば、全く予想していなかったこともあります。やっている内容はあまり変わっていないですが、プロジェクトの規模は大きくなりましたし、同業者の数が何十倍にもなったので変化は感じますね。テクノロジーの進化によるメリットを享受しやすいジャンルだったことは確かだと思います。

今までになかったような新しいものを作って、世間に注目されるような仕事をするには、何が必要だと思いますか?

圧倒的にすごいものを作っていれば、それ以外は何も必要が無いと思います。 広報に力を入れて作品を良く見せようとアピールしている人たちもいますが、 作品そのものが面白くなかったらどうしようもないですよ。そんなの黄色いヒヨコをスプレーで青くして新種のヒヨコといって売っているようなものですから。

次回へ続く

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