HIGHFLYERS/#20 Vol.2 | Nov 17, 2016

マジック世界大会で優勝した夜、マジックを辞める程の衝撃を受け、プータローに。波瀾万丈なMr.マリックの青年期

Text: Kaya Takatsuna / Photo: Atsuko Tanaka / Cover Image Design: Kenzi Gong

Mr.マリックさんインタビュー第2回目は、名古屋でスカウトされて東京三越劇場で行われた全国大会に出場し、その後ハワイで行われた世界大会に出場された時のお話です。初めて出場した世界大会で優勝したマリックさんですが、喜びもつかの間、その日の夜にマジックを辞めようと思うほどのショックな出来事に遭遇するのです。これから世界を目指し順風満帆にいくはずのプロのマジシャン人生から一転し、マジックをやめてプータローに、そしてそこから再び東京に返り咲くまでのストーリーを伺いました。
PROFILE

サイキックエンターテイナー/超魔術師Mr. マリック

1988年、超魔術生誕。「11PM」にて衝撃的デビュー。 超魔術は瞬く間に世間に知れ渡り、日本中に旋風を巻き起こした。「きてます」や 「ハンドパワー」などの流行語を生み出す。 1990年のゴールデンアロー賞・話題賞、ATP賞を受賞。 TV・単独ライブツアー等は勿論、歌舞伎座・コンサート・イベントなどの舞台演出、特殊効果、技術指導等も行うなど、活躍は多岐にわたる。 現在は、自身の活動に加え、若手の育成を精力的に行っており、2014年に韓国で開かれたマジック界のオリンピック“FISM”のアジア予選では、特別講師として招かれ教鞭を執った。 どの年代からも幅広く支持されている超魔術は今も進化をし続けている。

恩師からの「プロはいくつになってもなれるから慌てることはない」という言葉を糧に、東京のデパートで培った14年の実演販売のキャリアが次のステップへ

名古屋での実演販売の生活から、違う道へと変わったきっかけは何だったのでしょうか?

昼はデパートで実演販売をしながら、夜は名古屋のキャバレーで一晩3回のマジックショーに出ていた時期があるのですが、そこで舞台マジックの楽しさを知り、東海地区で一番になりたいと思って「名古屋奇術愛好会」というエリートだけが集まる会に入ったんです。その会が行った発表会に、東京の大手手品メーカー「テンヨー」の人達が、年一回開催する全国大会に出演する人を探しに来ていて、発表会の後に楽屋で会うと「東京の全国大会に出ませんか?」と誘われました。当時僕は商売敵の手品会社の派遣社員だったんですが、こんなチャンスはないと思って、会社には内緒で「行きます」って返事して。まぁ終わってから大変でしたけど(笑)。

東京の大会は名古屋で見ていたマジックとは違いましたか?

曲に合わせてかっちり芸として見せ切る人ばかりで、名古屋で僕が見ていたマジックとは全然違いました。松旭斎天洋さんや初代引田天功さんの道具や舞台空間の使い方の素晴らしさを目の当たりにし、もっと真剣にやらないかんなと。キャバレーのお客さんは酔っぱらって絡んできますから、こちらの芸も荒れてしまうんですよ(笑)。初代天功さんはファンクラブに入っていたほど憧れていたので、たまたま初代天功さんと楽屋ですれ違った時に、僕の両肩を押さえて「君のマジック好きだよ」ってたった一言言ってくれたことはもの凄く力になりました。プロの人達に少し近づけたと感じた瞬間でしたね。

東京大会での成績はどうだったのですか?

プロマジシャンの聖地と言われていた日本橋三越劇場で行われるテンヨー主催の大会は、コンテストではなく選ばれた人がショーケースで芸を披露して、評判を取ると色んなところから声がかかるっていうシステムだったんです。たまたまチャーリー・ミラーというマジック業界で世界的に権威のある人が、ハワイで行われる世界大会のプロモーションを兼ねてゲストで来てらしたのですが、彼から世界大会に来てくれって誘われたんですよ。もしその時に声をかけてもらえていなかったら、東海一で満足していたと思う。それが1972年の話ですから、僕がまだ21歳くらいの時ですね。

世界大会に出場するため、ハワイへ行った時(写真左)

マジシャンが世界を舞台にするとなると、活躍の場はどこになるのですか?

やはり、ラスベガスです。ラスベガスのメイン通りのホテルのショーでセンターに立っているマジシャンですね。松旭斎天洋さんの弟子は、天功さんともう一人島田晴夫さんという方がいたのですが、島田さんは「日本にスターは二人いらない」と世界へ出て、5年間ラスベガスのリビエラホテルでショーをやって大通りに「SHIMADA」ってネオンを掲げた凄い人なんです。島田さんは世界、天功さんは日本。僕はこの二人だけを目標にしていたんですよ。

ハワイの世界大会はいかがでしたか?

クロースアップ部門という目の前で芸を披露する種目があって、当時まだ日本のプロ達はそれほどやっていなかったし、僕は実演販売の時代に目の前のお客さんに正確に見せていたことが功を奏して優勝したんです。世界中のマジックマニアが集まった海外の大会で日本人で初めてチャンピオンを取ったわけですから、僕はかなり有頂天になっていました。その夜に、3000人くらい収容するホールでラスベガスなどで活躍しているマジシャン達によるマジックショーが行われたので観に行き、そこに島田さんが出演されていました。

目標としていた島田さんのショーはいかがでしたか?

黒田節をバックに和傘を一杯出すという豪華絢爛マジックショーをドーンと目の当たりにしました。美女がどこからともなく出現したり、浮遊したり、もう出て来ただけで勝負ありですよ。もの凄く感動したのと同時に、僕はこれじゃあ全く太刀打ちが出来ないとショックを受けてね。世界一を目指して行ってその着地点を見るって、エベレストに何の装備もなく素手で来たみたいなもんですよね。何を無鉄砲に目指していたんだろう、今の生活の中からここに辿り着く事は絶対ないと感じてマジックはもう辞めようと思ったんです。

優勝して有頂天になったその日の夜に、マジックを辞めようと思うほどのショックを受けるとは。

愕然とした僕は、ショーの劇場を出た芝生の所で座って泣いていました。そしたらたまたまテンヨーの社長が通りかかって、「お前何泣いているんだよ」ってホテルの部屋に呼んでくれたんです。あの人なりにピンと来たんでしょうね。そこで最初に言われたのは「まず坊主になれ」と。それから「マジシャンとして成功するということはお金がかかるのは分ってるな」って。当時テンヨーは世界と勝負できるオリジナル商品を出す為に試行錯誤していた時で、社長はその商品を売る優秀なディーラーを欲しがっていたんですね。それで「うちへ来て働いて、まずお金を貯めてからやり直せ。プロはいくつになってもなれるから慌てることはない」という事を一生懸命言ってくれたんです。でも、当時僕は商売敵の会社の派遣社員でしたから、とりあえず日本に帰りますと言って、帰国しました。

帰国後、無事テンヨーに入ることはできたのですか?

元いた会社に辞めると言ったら、「ハワイまで行く金、どこが出したと思ってんだ!」ってちゃぶ台返しをくらって。そりゃ怒りますよね。もちろん何の言い訳もできないけど、人生には理屈ではない、説明してもしょうがないことがあるじゃないですか。話しても分かってもらえないし、かといってそのままそこにいても先はないのが見えたから辞めるのは決めてました。当時、その会社の寮に住んでいたので、もう夜逃げするしかなかったです。その後、1年くらいはマジックの世界にはいられなくなりましたけどね。親には言えず、知合いの歯医者さんの家に3ヶ月くらい居候させてもらった後、アパートを借りてもらいました。布団すら買えなくて、古本の週刊誌を開いてガムテープで繋いで掛け布団の代わりにしてました(笑)。これが22歳の時、人生で初めてマジックを辞めて挫折したプータローの時代です。

その生活を終えることが出来たきっかけは?

シーモンキーって知ってます?ふりかけ海苔みたいに乾燥した粉を水の中に入れると、ミジンコみたいな生き物になって水の中で動き出すんですよ。テンヨーさんが手品じゃ儲からないから、八重洲大丸のおもちゃ売り場でシーモンキーを売り出そうとしていた時で、僕に声がかかったんです。つまり、シーモンキーのお陰で僕はもう一回東京に戻れたんですよ。凄くないですか、シーモンキー (笑)。それで、たまたま僕が戻った年の年末商戦用に、「8つの手品」という手品セットが作られて、それを実演販売してこれが大ヒットとなったんです。

過去に色々とあった経験が、そこで集約されたのですね。

こんなことが本当に起こるんですね。そこでドーンと売れて、テンヨーの売り場がデパート内に新たに出来て、そこでおもちゃ売り場の主任だった今のかみさんと知り合ったんです。僕は毎日開店の1時間前に入って、昼飯も食わずに閉店までずっと働いていたから、ものすごく働く人間に見えたんでしょうね。まぁそういう流れで、早めに結婚して落ち着いたのは良かったです。それから、渋谷の東急東横店と新宿伊勢丹で14年間デパートの実演販売だけをやりました。

新宿伊勢丹で働いていた頃

14年経ったと言う事は、次の転機は30代後半ですね?

はい、プロのマジシャンとしてデビューしたのは39歳と遅かったんです。ハワイでプロになるのを諦めようとした時、テンヨーの社長に「慌てる必要はない。とにかく引き出しの中を一杯にしてからプロになりなさい」と言われたのが良かったんですよ。

次回へ続く

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