HIGHFLYERS/#51 Vol.2 | Jan 20, 2022

福岡で人気飲食店を経営したのち、上京して美容の世界へ。独自の着眼点を用いたカウンセリングで、一躍人気エステティシャンに

Text & Photo: Atsuko Tanaka

美容業経営者であり、美食家のまろさんのインタビュー第2章は、幼い頃のことから血気盛んだった学生時代、その後地元福岡で飲食店を経営してから上京して美容の道に進んだ頃のことなどを伺いました。美容界では男性ならではの視点で、独自の美に対する追求を続け、様々な領域で活躍するようになるも、とても苦しい日々でもあったと言います。常に自分の限界と戦い続けるまろさんに、当時の様々な出来事や学んだことなどをお話しいただきました。
PROFILE

美容商社経営者・美食家 寺田昌之(まろ)

福岡県出身。飲食店を経営したのち上京、美容業界の道へ。男性エスティシャンの先駆けとなり多数の著名人を担当するなど、美容番組でも活躍。化粧品開発などに携わり成功を収める。食の世界でも年間2500軒を食べ歩き、食べログレビュー1位を取得し、美食家として一目置かれる存在に。ボディメイクトレーナーとしても活躍し、痩身研究の為に、自分の体を実験台に爆食しながらトレーニングを重ねている。また、タイでハーブ農園と工場を運営、世界最大の医学会A4M(米国アンチエイジング医学会」編集長、TCC(東京コスメティックコレクション)統括プロデューサーも務めた。 https://www.instagram.com/maro.j.maro/

猛烈に多忙な日々を経て、組織の上層部にいるつまならさを実感。もっと身軽に色んな美容を知ろうと、世界へ

福岡県糟屋(かすや)郡のご出身だそうですが、小さい頃はどんな子供でしたか?

幼少期の頃からソフトボールチームのキャプテンをやっていたので、常にリーダーシップを取る方でしたね。あと体格に恵まれて、運動神経は良かったです。所属していた野球チームでは、エースで、ノーヒットノーランを何回も出したり、かけもちで入部していた陸上でも短距離走で県大会一位になったりしていました。頭も良い方だったと思います。とにかく負けず嫌いなので、みんなの前では遊んで、勉強する素振りを出さず、家で隠れて猛勉強していたのを覚えています。

小学生の頃

ご両親はどんな方で、どのように育てられましたか?

父も母も、子供のことを考える、本当に優しい愛情たっぷりの両親でした。僕がその後、時代の流行りもあって派手にグレてしまった頃もありましたが、元に戻ってこれたのは、親の愛情のおかげだと思います。

ということは、中学時代は?

とにかく荒れてましたね。時代が「ビーバップハイスクール」などのヤンキー漫画が絶頂だった頃で、学校の運動神経の良い目立った人間は必ずヤンキーになるような頃だったので。僕はその中でも1位になろうとしていたから、親には本当に迷惑かけました。3年の頃は、仲間がたむろっている学校の前の売店に行ってご飯を食べて、授業には出ずに帰るっていう感じでした。

学生の頃

時代が悪かったですね(笑)。それで高校には進学されたんですか?

グレながらも頭だけはずっと良かったので、偏差値の高い学校にも絶対に受かると言われてたんですけど、内申書と違反ズボンを履いていたのがダメだったみたいで、福岡工大附属高校(現在の城東高等学校)に行きました。でも入学した3ヶ月後に、やってない万引きの濡れ衣を背負わされ、停学を下した先生と喧嘩になり除籍になって。それで当時仲良くしていた一コ上の先輩の家に住み込む形で鳶の仕事をやりました。仕事しながら、少しやんちゃなことをしてという感じでした。

鳶の仕事はしばらく続けたんですか?

その後、訳あって借金を作ってしまったので、返済のために鳶以外に夜の仕事も始めました。結構ヤンチャな髪型をしていたので、どこも受け入れてくれなくて、やっと見つかった先がバーだったんです。そこでお客さんとのコミュニケーション能力を学んで、接客業の楽しさを知りました。後に店長を任されるようになり、その後店を譲り受けて自分の店としてやることになって。それがうまく行ったので、親に資金を借りて、他にも雑餉隈や中洲などにBARやグルメバーや立ち飲み飯屋さんを作って、それらも結構繁盛しました。20歳前半の頃ですね。

自身が経営していたバー「Last Scene」にて

その後はどうされたのですか?

常連さんで、とても羽振りの良い方にすごく気に入られ、東京に出て美容系の仕事をするから一緒にやろうと誘われたんです。店のスタッフも結構たくさんいたので、ずっと断っていたんですけど、やっぱりこのまま福岡で終わるのではなく東京で一回しっかりと戦ってみたいと思うようになり、上京を決めました。それでお店はスタッフに譲り、自分の帰る場所をなくして東京に行きました。

そこでエステティシャンとしての仕事がスタートしたのですね。

その前に、美容業界のノウハウを知っておかないといけないと思い、まずエステ商品の卸の会社に入って営業をしました。ところが、その頃はまだ男性がエステサロンのドアを叩いて営業なんて許されない時代だったので、ノウハウもないし何をやっても全部ダメ。なので、話を聞いてもらうには自分がエステティシャンになった方が早いと思って、独学で色々と猛勉強して、男性なりの視点で「綺麗になる過程と理由」を織り交ぜたカウンセリングをして、エステティシャンとしてやっていける形を編み出していきました。

エステティシャンとして働いていた頃

その視点が男性特有というか、面白いですね。

女性は「過程はどうでもいいから、それを使ったらどうなるの?」って結果を知りたがるんですけど、僕はなぜ綺麗になるのかのメカニズムを追求したかった。今の食に対してもそうですけど、当時からそういう考え方でしたね。

その「なぜ」という部分にフォーカスしていって、それに対する答えは何だったんですか?

それはジャンルによって違いますけども、最大の理由を言ったらモチベーションの問題ですね。例えばカウンセリングで、ただ単に「綺麗になった方がいいですよ」と言うよりも、「綺麗になったらこんなにいいことが起こりますよ」とかってお伝えする方がわかってもらいやすかったりするので、そのために必要なことを提案するのが大事になってくるんです。内容は肌だけにフォーカスすることもあれば、瘦身が必要になる場合もありますが、とにかくその方に合うご提案をして、そこに対するモチベーションをどう上げられるかに特化してやっていた気がしますね。

そこにお客様の共感を得たということですね。

そうですね。綺麗になるとか痩せる方法ってたくさんあるので、全ての方法を伝えようとしがちですが、そうではなく、その人に合ったもの数個だけをしっかりと伝えて、あとはモチベーションを上げることにフォーカスすればいいんです。まずは小さい目標を設定して、それが達成できればモチベーションが上がって、また次に挑戦したくなっていくので、仕事のモチベーションアップと同じようなことだと思います。

そうして当時珍しかった男性エステティシャンとして注目されるようになったのですか。

当時は1日8人とかの施術をしていましたね。今では超有名なモデルやアスリート、タレントさんなどの担当をしていたこともあります。それで結構大手のエステサロンの店長会議とかに出て仕切ったりするようになって、そこからいろんなテレビ番組などにも出させてもらったりして。同時に福岡から一緒にやろうと誘われていた社長さんと、「フォーレ・ディ」という会社を立ち上げました。そこでヒアルロン酸化粧品の先駆けとなる「ヒアロジー」というブランドを立ち上げ、QVC に私自らも出演させて頂いて、1日で2億円ほどの売上を記録することもありました。TBSの基礎化粧品部門でも年間記録を記録するなど、当時は本当にすごかったですね。

左:ヒアロジーの販売で、QVC に出演 / 右:中国の美容博(コスモプロフ)にて、肌診断を行いながら化粧品を使用した施術方法をレクチャー

きっと猛烈に忙しい毎日だったと察しますが、どのような日々でしたか?

もう仕事しかしてなかったですね。ヒアロジーがすごく売れたこともあって、その後社長さんが次はエステをやりたいと言い出して、バストアップのエステサロンを展開することを考えました。胸の脱毛をしていたら胸が大きくなったという話を聞いて、物理学の専門家や専門機器のメーカーさんに相談したら、近赤外線がバストの脂肪膜に当たることで、脂肪が流れて膨らんでいき、バストが大きくなることがわかったんです。それで、よりバストに作用するような波長を出す機械を作って専門店を作ったら絶対に面白いなって思ってFBSを立ち上げ、ほしのあきさんと雛形あきこさんにイメージキャラクターになっていただき、フランチャイズも含めて42店舗まで作りました。でも、その頃は本当に苦しい時期でもありましたね。

どんな風に苦しかったんですか?

毎日42店舗のスタッフ全員から朝礼の電話がかかってきて、全店舗のカウンセリングカルテを細かくチェックして、やり取りをしたりしていたので、一時期耳が聞こえなくるぐらいの状態になりました。夜は夜で、店舗の管理、新しいメニュー構成、デザインなどをやって。加えて化粧品の方では、パブリッシャーとしての編集部まわり、テレビ通販出演、百貨店やバラエティショップでも販売していたので、そこの管理やスタッフの指導をしたりと、本当に死ぬかと思うくらい大変でした。

店長会議で施術をレクチャーしている様子

聞いてるだけで頭がパンクしそうです。

本当は自分がエステティシャンとしてやりたいと思っていたけれども、スタッフが100人を超えてくると、スタッフのためにいろんな役をしないといけなくなってくるんですよ。このスタッフにはお父さん役とか、このスタッフにはお兄さん役、鬼教官役みたいにして使い分けて、本当に自分を押し殺すような形で全員に接してました。

人間観察力が相当磨かれたことかと。

そうですね、でもどちらかと言うと自分が現場で活動し、新しいことを発見したりしたいほうなので、本当はあまり好きな仕事ではなかったんですね。組織の中で上にいることの辛さやつまらなさを実感したのと、まだやりたいことがいっぱいあったし、もっと色んな世界を見て周りたいと思っていたので、もっと身軽な状態で色んな美容を知ろうと、エステグループの営業スキームも固まり、独り立ちできる状況になったタイミングで、私は手放すことになりました。

それで世界へ行くわけですね。

はい。その頃、とあるエステのオーナーさんから一緒にあるものを作りたいと相談されて、それがミイラエステ(ハーブでバンテージを煮込んで、ミイラのようにぐるぐる巻にする施術)と言って、今ではもう当たり前になってますけど、最初に作ったのが僕とその方で考案したものでした。それに見合うための素材を探しに、ヨーロッパをはじめ世界各地を回りました。その時に出会った、ハーブに詳しい方に、タイにルーイという面白いところがあると聞いて向かったんです。

ミイラエステの施術をされた様子

取材協力
Restaurant由 -yoshi-
住所:東京都台東区北上野2-14-3 Hotel粋B1F
電話番号:03-6802-8151

次回へ続く

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