HIGHFLYERS/#46 Vol.2 | Mar 18, 2021

小学生の時に仏教に興味を持ち、高校卒業後はインドへ。海外放浪の末に辿り着いた軽井沢で焙煎の奥深さを知り、丸山珈琲を開業

Interview & Text: Kaya Takatsuna / Photo: Atsuko Tanaka

丸山健太郎さんインタビュー第2回目は、幼い頃のことから、海外に興味を持った青年期、そしてスペシャルティコーヒーに出会った頃までのことを中心に伺いました。小学生にして仏教などの思想に好奇心をそそられた丸山さんは、中学に入るとインド哲学に目覚めます。そして高校時代はアメリカの西海岸に行きヒッピー達と交流し、卒業後はついにインドへ。その後、軽井沢に移住することになりますが、1991年に丸山珈琲をオープンし、コーヒーの焙煎に目覚めるまでには、さまざまな人達との出会いがありました。どのような幼少期を過ごし、ご両親からはどのように育てられたのか、また稀有な青年期を過ごし海外を放浪したのちに辿り着いた軽井沢での生活や、焙煎の師匠との交流についてなど、たっぷり伺いました。
PROFILE

丸山珈琲 代表取締役社長 丸山健太郎

1968年埼玉県生まれ、神奈川県育ち。1991年に軽井沢にて丸山珈琲創業。2001年からは、バイヤーとして生産地訪問を開始し、現在は年間150日近くを海外で過ごす。また、数々のコーヒー豆品評会、審査会における、国際的カッパー(テイスター)としても活躍。「世界でもっとも多くの審査会に出席するカッパー」と言われている。また、カップ・オブ・エクセレンス国際審査員、ACE(エース)(Alliance for Coffee Excellence Inc.)名誉理事を務める。

焙煎の師匠を訪ね続けて7年。素材に目覚め、スペシャルティコーヒー時代の幕開けを知り、新しい一歩を踏み出し90年代へ

幼い頃はどのような環境で育ちましたか?

埼玉県上尾で生まれ、神奈川県大磯で育ちました。ともに公務員だった両親は、家庭内暴力や引きこもり、不登校などいろんな問題を抱えている生徒ばかりを24時間扱う施設で働いていて、昼間は学校の教師、夜は寮長寮母をしていました。僕は両親と一緒にその寮で暮らしていたので、家に自分たちのスペースはあるものの、生徒がしょっちゅうやって来ては、 「先生、〇〇君が僕のお菓子を盗みました」とか、「〇〇君が喧嘩してます」と言って騒いでいて、「なんでうちは家族が多いんだろう」って思って暮らしていましたね。

子供の頃、両親と妹と

それは特殊な環境でしたね。ご両親にはどのように育てられましたか?

今振り返ると父親からは、あんまり短い尺でものを考えるなと教わってたかな。父親は生徒に厳しい反面、すごくフェアにも接していて、「健太郎な、生徒達だって10年経てば成人だぞ。成人同士同じレベルになった時に会わす顔がないようなことだけは俺はしたくない。だから今から一人の個人としてちゃんと接してやらないと」と言ってました。だから卒業すると、生徒たちがみんな慕って会いに来るんですよ。

素晴らしいお父様ですね。

それを応用したわけじゃないですけど、僕も会社の社長として、スタッフを叱らなきゃいけない時は叱る一方で、いずれ独立してオーナーになったら僕よりすごい人になるかもしれないと思って、なるべく新人には優しくしています(笑)。

(笑)。小学校の時に夢中になったことで憶えていることはありますか?

小学校5、6年の時に、 比叡山の千日回峰行で、酒井雄哉さんという方が満行され阿闍梨(あじゃり)になられたのですけど、9日間飲まず食わず、寝てもいけない「堂入り」という行の場面をドキュメントしたNHK特集(「行 比叡山 千日回峰」)にすごく感銘を受けました。関連書籍も買い、小学6年生の時の夏休みの読書感想文のタイトルを「人はなぜ行をするのか」にしたほどです。またその当時、将棋の名人戦で無敵だった中原名人に、森雞二八段が挑戦した時があるのですが、当日剃髪して臨んだ森さんの迫力に気圧されて中原名人は初戦で負けてしまうんです。その対局もNHK 特集(「勝負」)として放送され、感銘を受けました。小学生の頃から、禅とか仏教とかに対して本能的にざわざわとくるものがありましたね。

小学生とは思えないです。そのあと、どのような中学生になったのですか?

中学生になると、今度はウパニシャッド哲学とか、ヨーガ・スートラとかに興味が出てきました。しかも高校受験で失敗して希望校に行けなかったので、さらに勉強に身が入らず、ちょっと世捨て人になりたい気持ちもあったんですね。そんな中で、今考えるとめちゃくちゃですけど、高校1年生くらいから学生服のままいろんなセミナーに行き始め、マインドフルネスを学んで、高1の冬からベジタリアンになり、家でも瞑想してどっぷりその世界になっちゃって。高校1年生ぐらいの時点でインドに行こうって決めたんです。

それで、本場のインドに行ったんですか。

まず最初、高校3年生の時に米国西海岸で開催された世界中の面白い人たちが集まるイベントに行きました。そこでヒッピーの人たちと交流するようになったのですが、「高校ぐらい出た方がいいよ」って諭されたんです。 彼ら結構高学歴なんですよ。それで言われたとおりに帰国後卒業して、アルバイトしてお金を貯めてインドに行きました。するとそこで欧米で最先端の臨床心理学的な実験をしているような面白い人たちに会うんですよ。それで英語も覚えて、彼らの学校やイベントに行くのを3年ぐらい続けて。ところがやっぱりそういうコミュニティにも限界があって、人間関係に疲れてしまい、そろそろ社会復帰しなきゃと思ったんです。そのうちに妻と出会い、妻の実家が軽井沢だったんで訪ねているうちに気に入って、軽井沢に住んで、通訳か翻訳で食べていきたいと思って勉強していました。

それがきっかけで軽井沢が拠点になるのですね。

当時は翻訳家になると言いながら、お金を稼ぐために昼間はホテルのベッドメイクをしたりしてアルバイトしてました。でも、妻の両親からすると世間体が悪いんですね。今の本店の場所は以前ペンションとして営業していたのですが、すでに廃業してました。そのスペースが空いてる。そこで喫茶店でもやらないかと誘われて、ベジタリアンカレーとチャイのお店を始めたんです。その頃はコーヒーなんか全然こだわってなかったですね。高級コーヒーブームで、お客様に合わせて高級なカップで出す店や炭焼きとかオールドコーヒーが流行っていた時代。スペシャルティコーヒーがまだなかった80年代後半から90年頃のことです。

当時お店で出していたインドカレー

カレーとチャイのお店から、どのようにコーヒーが中心になっていくのですか?

ある時、休憩中に新聞をぱらっと開けたら1枚のポストカードが出てきて、そこに「有田焼珈琲碗皿展示会」って書いてあったんですよ。日本の陶磁器は小さい頃から好きで、お店をやるなら有田焼のコーヒーカップを使いたいと思って展示会に行ったんです。そこで、ぺンションで稼いだお金でコーヒーカップ10万円分ぐらい買っちゃって。すると、その展示会で売っていた人が、「どこかいいペンション知りませんか?今の宿泊先のベットが小さくて体が痛いんです」って言うので、ちょうどうちのベッドが大きかったから来ることになったんです。夕食にカレーを出すと喜んでくれて、買ったばかりの有田焼のカップもあったので、「一杯飲みますか?」って聞いたら「結構です」って断られて。そうしたら、「コーヒーを出すなら焙煎しなきゃいけません」ってその方が言い始めたんです。

その方はコーヒーに精通していらしたんですか?

話を聞くと、その方は、銀座の「カフェ・ド・ランブル」さんで当時有名だった取手のない薄いデミタスカップをプロデュースされた方だったんです。コーヒーにすごく詳しかったので、吉祥寺の「もか」や、 山谷の「カフェ・バッハ」、青山界隈のお店など 有名な所をいろいろ教えてもらいました。それで早速次の休みに上京して、まず吉祥寺のもかに行ったら、緊張感漂う一流の店の雰囲気にびっくりしちゃって。朝から常連の方が新聞を読んでいる店内の奥では、まだ当時お元気だった標さんが白衣を着てネクタイして、真剣に焙煎してる。そのそばで若いスタッフがコーヒーをたててくれるんです。 僕はその光景を見ながら、「もしかしたらこれを自分の一生の仕事としていけるかもしれない」と思いました。

当時はネルドリップが流行っていましたか?

もう行き着くところはネルドリップ、深煎り、マンデリンのデミタスの時代。僕はすぐ金物屋に行って手網を買って、生豆を通販で取り寄せて焙煎を始めました。 その音と香りにも感動して、いつか最高の焙煎人になろうと思って、今度は有田焼の方に、焙煎技術の高い都内の珈琲店のご主人を紹介してもらいました。それから1、2か月に1回、自分の焙煎した豆を持って軽井沢から東京にご主人を訪ね、 飲んでもらった後に色々話をしながら、マスターが焙煎機に火を入れる夕方5時半とか6時になると僕はお店を出るんです。僕なりのものを作らなきゃいけないと思っていたから、焙煎しているところを見て答え合わせをしないほうがいいと思ったんですね。だから、師匠の焙煎は一回も見たことがありません。それが7年ぐらい続きました。

その間は軽井沢のお店は営業されていたんですか?

カレーの店を1年続けましたが、焙煎を本格的にやりたくなったらもう嫌になっちゃって。コーヒーに集中したくなって本店を飛び出して、軽井沢の追分っていう郊外に知り合いの店を借りて、91年の4月25日に丸山珈琲を始めました。

丸山珈琲を始めた頃、開店直後のお店を訪れた友人と友人の子供と

丸山珈琲を始めてからも、納得する焙煎ができるようになるまで師匠のもとに通っていたのですか?

僕は焙煎って究極のレシピがあると思っていたんだけど、6、7年経って、「普通に焼くのが一番美味しい」という当たり前の結論にたどり着くんですよ。最終的には、焙煎マシンのタイプと排気の強さとか環境と豆で大体決まっちゃう。それでだんだん研ぎ澄まされていくと、今度は良い素材を使いたくなるんです。どうしたら良い素材を手に入れることができるだろうかと思い詰めるようになりました。

そして素材に目覚めた丸山さんにとって、スペシャルティコーヒーの存在は日毎に大きくなっていったのですね。

当時は、いわゆる昔ながらの喫茶店がどんどん潰れていくのと重なるように、ドトールさんのようなスタンド中心のチェーン店が増えていた時代。そして、「喫茶店経営」と、 「喫茶&スナック」っていう業界誌が相次いで廃刊したことも大きなきっかけになりました。急に紙媒体から得る情報がなくなったので、当時まだ速度の遅いインターネットを駆使して自分で調べ始めたんです。すると、どうもスペシャルティコーヒーというのがあるとわかって、カップ・オブ・エクセレンスっていう品評会が始まったばかりで、しかもアメリカではコーヒーがワインみたいな世界だと言っている。新しい時代が来ていることを感じて、その当時メーリングリストでやり取りしていた全国のコーヒーショップの仲間と情報共有するようになりました。こうしてスペシャルティコーヒーというものに目覚めていったんです。

次回へ続く

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