HIGHFLYERS/#19 Vol.2 | Sep 15, 2016

順風満帆の人生がバブル崩壊で一変。工場が倒産し、全てを失ったことで生まれたエアロコンセプト

Text: Kaya Takatsuna / Photo: Atsuko Tanaka / Cover Image Design: Kenzi Gong

職人・菅野敬一さんのインタビュー第2回目は、エアロコンセプト誕生までの道のりに迫ります。スキーに夢中だった少年時代を経て、20代後半で家業を継いで結婚。代表取締役に就任して順風満帆な生活を送っていた菅野さんに訪れた試練は、バブル崩壊後の町工場の倒産でした。当時、死を覚悟して毎日を過ごしていた菅野さんから、どのようにしてエアロコンセプトは生まれたのか。今、仕事や生活で悩み、迷っている人は何かヒントがいただけるかもしれません。
PROFILE

職人 菅野敬一

1951年東京都生まれ。 早稲田実業高等学校を卒業後、働きながら夜間大学に通い、 祖父が創業した精密板金加工工場「菅野製作所」に入社。 父の後を継ぎ3代目社長に就任したものの2年後にはバブル 崩壊に伴い倒産。 その後、取引先の協力などもあって再建。 「死ぬまでに自分の欲しいものを作ろう」との信念を貫き、「エアロコンセプト」 というブランドを開発。 菅野の作る航空機部品の技術を応用した鞄や各種ケースは、モナコ国王、ウェストミンスター公、ジョージ・クルーニー、ロバート・デニーロなどハリウッドスター、世界の著名人、セレブ層から高い評価を得ている。

人生に迷っている人がいたら、「あなたの好きなことは何ですか?」と聞いてみたい

幼い頃はどういう子供でしたか?将来の夢はありましたか?

僕の爺さんの代から続く、東京の麻布にあった町工場で生まれ育ったんだけど、小さい頃は絵を描くのが好きで、絵描きになりたかったね。2歳くらいから小児ぜんそくになってしまって長期間療養していたのですが、5歳の頃からスキーを始めたら段々体力がついてきてアレルギーが出なくなった。それからさらにスキーに夢中になって、中学生の頃はスキーショップを持つとか、スキー教師になるとか、スキー関係の仕事に就きたいと考えていましたね。

スキー以外に、勉強の方は真面目にやっていたのですか?

勉強はほとんどやらなかった(笑)。嫌いだったねぇ。中学の頃、スキーの他に大好きだったのはブロードウェイ・ミュージカル。フレッド・アステアや、フランク・シナトラ、ビング・クロスビー、ジーン・ケリーなどが全盛期の頃でした。工場の仕事は子供の頃から手伝っていたんだけど、高校一年生の時に初めてアルバイト料を8万円くらいもらったんですね。それが嬉しくて、僕はそのお金を持って近所のテイラーに行って、タキシードを特注したんですよ。そのテイラーの社長はうちのおやじと友達なもんだから家にすぐ連絡がいって、「けいちゃんがこんなこと言ってるけど、本当に作っていいの?」って心配して(笑)。結局タキシードも仕上がって、蝶ネクタイはアステア風に作ってもらったんですが、着ていく場所がないの(笑)。実際に着て出かけたのは相当後になってからでした。

勉強嫌いとおっしゃっていましたが、高校は早稲田実業学校に行かれたのですよね?優秀じゃないですか。

勉強が好きだったら灘校か麻布、開成辺りに行って、そこから東大に行ってたよ(笑)。好きなのは語学だけだったね。大学は昼間に工場を手伝いながら、白金にあった明治学院大学の夜間に通ったの。

工場を継ごうと思ったのはいつ頃だったのですか?

ものづくりが好きだったし、自然の流れで27歳くらいの時に継いで、その何年か後に代表取締役になりました。結婚したのもその頃ですね。

それまでは比較的順風満帆な生活をなさっていたのが、家業を継いで間もなくしてバブルが崩壊し、会社が倒産してしまったのですよね?

22~23年前に、バブル崩壊と同時に取引先がちょっと具合悪くなって、金属の精密加工をしていた私の工場もそのあおりを受けて、全部銀行に持って行かれ倒産しました。当時はまだ麻布にいて、85%くらいはその取引先と仕事をしていたもんだから、もうどうしようもなくて。借金して設備投資で機械もいっぱい買ってましたからね。家も取られ、工場も取られ、預金通帳も0どころかマイナスになり、何もなくなった。その頃、飛行機の部品を一部だけ作っていたんですけど、その関連の取引先に僕の会社が無くなったらそこも困るから、出来ることはなんとか協力するから仕事は続けていってほしいと言われて。移転の費用を出してもらうなどしながら、麻布からこの川口の工場に移ったんです。

菅野さんの人生で一番辛かった時期になるのでしょうか。

まあ、そうですね。毎日死ぬことを考えてましたから。

死にたい状況とは、どういう時にどういう心境になるのですか?

どうしても理解しようがないことが起こってしまうと、そうなるんだろうね。倒産なんてしたことなかったし、法的手続きで裁判所に行って被告のような立場になったこともないでしょ。俺は悪いことやってきてないよ、という思いの方が強いんですよね。頭では理解出来ても体が理解出来ない。もちろんお金のことや倒産したこともショックだったけれども、真っ当な仕事をしてきたのに裁判所で悪者の立場にされてしまったことが結構しんどかったです。周りも手のひら返したような態度になったから、そうするとやっぱり人間不信になるっていうかね。もう早く死にたいなと。

明日こそ死のうと、毎日考えていたけれども死ねなかった。

家族と従業員のことを考えるとやっぱり死ねないんですよ。だからいつも綱引きしてるわけね。家族や従業員がいなければすぐ死んじゃってたでしょ。今自殺が多いけれど、それは社会が良くないんだよね。

その後、どうやってエアロコンセプトは生まれていったのですか?

15年前に麻布から川口に移って、新しい環境で自分も今まで通りの仕事を続けられるんだって新たな気持にはなったけれど、またいつ何が起こるか分からないって常に思ってました。かといって新しい事業を起こす能力は自分の中にない。だったらせめて、死ぬのは自分の欲しいものを作ってからにしようと思ったんです。僕の命のあるうちに、お客さんに頼まれたものじゃなくて自分のために自分のものを作ってみようと思い、鞄を作りました。中々上手くいかないから、最初は完成するのに1年くらいかかりましたね。

紆余曲折ありながらも、完成した時はいかがでしたか?

それは嬉しかったよ。それを見た人が、「私にも作ってもらえますか?」って言うのでまた作り始めて。僕は宣伝するのが嫌いだし、売り物になると思って作っていなかった。デザイナーでもないし、流通のことも何も知らないから、ずっと口コミだけで広がってきたんです。僕が作ったものは自分の子供みたいなものだから、その子供が誰かに会った時に「これどう?うちのお父さんが作ったんだよ」みたいなことを喋ってくれてるのかな(笑)。

エアロコンセプトを始めて、最初に作った鞄「Slim Porter」

今死にたいと思っていたり、立ち直れないくらい落ち込んでいたりする人に、もし何か言葉をかけるとしたら何と言いますか?

それは困ったねぇ。だって今すぐにでも死にたくなってる人に、あなたなら何て言葉をかける?死のうとまではいかなくても、迷っている人はたくさんいますよね。大体迷うっていうのは、何で儲からないのかなとか、もうちょっと売れるにはどうしたらいいんだろうとかいうことなんだよね。だからそういう人達に、「あなたの本当に好きなことは何なの?」と質問してみたい。それは僕が死を考えた時に行き着いた一つのことなんですけど、自問自答してみると自分の好きじゃないところで迷ってる人は結構多いんじゃないかな。

今があるからもちろん言えることではあると思うんですけど、今までの人生を振り返って、あの辛かった時期が菅野さんにとってのチャンスだったのでしょうか。

まあそうだろうね。人って何かを持ってると捨てられないでしょ。その捨てられないものは何かっていうと世の中の常識で、誰だって常識を優先するよね。AよりBの方がきっと良いとか、こっちの方が儲かるとか、分かれ道があるじゃないですか。例えば、「左の道に行くと株が今買い時で絶対儲かるよ」って言われても、僕は夕焼けの空が綺麗な右の道に行こうと思って右に行くわけ。でも全部失くさないとそっち選べないでしょ。値上がりする株を買えるお金があれば株を買いに行くんだもん。

全く描き様がなかったストーリーですね。

僕の人生を分析して色々語ってくれる方がいるんだけど、僕のストーリーっていうのはきっとあんまり役に立たないんだろうなって思う。今が上手くいってるとしたら、まぐれ当たりだからね。普通に生活することさえ全然出来なくなって、好きなことを見つけたからそれしかやりようがなくなっちゃった。全部失くした後に、自分の中に芽生えてきたものを大事に大事にしてきて、今に至るんです。

次回へ続く

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