HIGHFLYERS/#49 Vol.2 | Sep 16, 2021

日本特有の考え方に違和感を感じて海外へ。様々な国で貴重な体験をしたのち、タイで素潜りに出会い人生の転換期を迎える

Text & Photo: Atsuko Tanaka

水族表現家、二木あいさんの第2章は、幼い頃のことから学生時代、活動を始めてギネス記録を取った頃までのお話をお伺いしました。石川県で育った二木さんは、中学時代から海外留学を経験し、様々な国の文化に触れます。その後、ホンジュラスでスキューバダイビング、そしてタイで素潜りに出会ったことで人生の転機を迎えました。活動を続けていく中、世界ギネスの記録に挑戦したことで、多くのことを学んだそうですが、その貴重な体験についてもお話しいただきました。
PROFILE

水族表現家 二木あい

環境省「森里川海プロジェクト」海のアンバサダー / mymizu アンバサダー。素潜りギネス世界新記録を2種目樹立。環境省「森里川海プロジェクト」海のアンバサダー。水族表現家という日本国内外問わず唯一無二の存在として、水中と陸上の架け橋となるべく世界を舞台に活動。空気ボンベを使わず、海洋哺乳類と同じ様に自分の肺一つで潜り、彼らの中に溶け込むことで仲間の一員となり、ありのままに、ある時は被写体、そしてまたある時は自身が撮影者として「私たちは自然の一部であり、自然と共に生きている」そんな繋がりを表現している。 TEDxTokyoスピーカー、2012年情熱大陸「二木あい」ワールドメディアフェスティバル金賞。 NHK特別番組「プレシャスブルー」がシリーズ番組となっている。近年では、ISSEY MIYAKE や世界的な写真家とのコラボレーションなど国の枠を超えて活躍。 写真家として個展「中今」を2019年にスペイン マドリード、2020年に東京 銀座にて開催。

多くの人々に声を届けるためには肩書きが必要だと思い、ギネス世界記録に挑戦。2種の記録樹立に成功

石川県金沢市のご出身だそうですが、幼い頃はどのような子供で、どのような環境で育ちましたか?

私が通っていた小学校は山の上にある、一学年一クラスしかないミッション系の学校で、外国の子供たちも多くいました。日本人・外国人、日本語・英語の違いを認識する前から彼らがいましたし、英語も勉強というよりもコミュニケーションを取るためのものだったので、壁のない自由な環境で育ちましたね。学校が遠かったので、放課後に友達と遊ぶことは少なく、習い事をたくさんしていました。水泳に平日5日通い、他にも塾、ピアノ、フルート、書道、絵や体操教室にも行っていました。

習い事の中では何が一番好きでした?

好きだったかは覚えていないのですが、一番能力を発揮していたのは水泳でした。3歳から始め、平日は毎日スイミングスクールに通っていました。小6の時、ジュニアオリンピックの最終選考に向けて朝昼晩と練習し、合宿にも行き、できる限りのことはして準備万端だったのですが、大会の一週間前に骨折をしてしまって。その後もう一度同じところを骨折したことで選手としては難しくなったのですが、その後も水泳はずっと続けていました。

小学生の頃。通っていたスイミングスクールにて

当時なりたかった職業や夢とかはありますか?

特にはなかったです。でも、一番最初に自分の中で「これをしなきゃいけない」と思ったのは、色々な国籍の子がいて、自由な環境だった小学校から、“ザ・ジャパン”な公立の中学に入ってカルチャーショックを受けた時。本当は違うと知っていても、先生がこうだと言ったらそれに従うような集団意識に、「何かおかしいな、何か違うんじゃないかな」と違和感があり、この考え方は変えないといけないと強く感じたのは今でも覚えています。

それで中学の時に語学留学を?

小学時代の英語の先生に、日本が合わないからと言って海外が合うとは限らないから、短期間でもまず海外に行って、色々と肌で感じてみたらいいよと言われて、毎年夏休みに語学留学ホームステイでアメリカに行っていました。一番最初にステイしたお家のお兄さんはダーク系の音楽が好きで、髪の毛を黒く染めたり化粧をしていたので、ファミリーの中で一人だけ浮いているように見えました。でもファミリーのみんなは気にすることなく、これは彼の個性だと受け入れているのを見たり、他にも街中には色々な人がいて、みんな見た目は違えど普通におしゃべりしたり、食事をしたりするのを見て、「ああ、こうあるべきだよね」と再認識しました。

高校時代はどんなふうに過ごされたのですか?

英語以外の言語を学びたかったので、交換留学で1年間、フランス語が公用語のカナダのケベック州モントリオールに行きました。そこでは現地の生徒と同様に、フランス語で授業、試験を受け生活をしていました。モントリオールは人種のるつぼと言われるように、私の通っていた学校も、50か国ぐらいからの移民の子供達がいました。彼らのお家や食事は、自国のお国柄がハッキリと出ていて、とても興味深かったです。

ケベック州へ留学した時。写真左は、スペイン語を習得しようと思ったきっかけになる、南米からの移民の子達と

素晴らしい体験ですね。高校卒業後の進路はどうされたのですか?

私は何も行動せずに、「あの時やっておけば良かった」と後悔することは絶対にしたくないので、興味があることは、できる限り経験しています。そこで違うと思えば選択肢から外し、「これだ!」と思えば続けていく。遠回りかもしれないですし、茨の道を行っているかもしれないですが、そうしないと自分自身が納得できないので。あとは、少しでも疑問があるとその先に進めなくなるので、紆余曲折しながら一歩一歩進んでいきます。そうやって、高校卒業後の進路も決めたんです。まずは、興味があったスペイン語を学ぶためにスペインとアルゼンチンに行き、そしてキューバのハバナ大学に進学しました。

本当に色々な国で様々な経験を積んでこられたのですね。キューバはいかがでしたか?

キューバに滞在中、ドキュメンタリー映画について知る機会がありました。真実を伝えるという点、自分の伝えたいことを伝えるという点において最良の方法だと思ったんです。それでドキュメンタリー映画の監督になるべく、まずアメリカのハリウッドで短期コースを受け、キューバのヨーロッパ資本の映画学校の入学試験課題となっていた短編映画を自主制作しました。しかし、ある時「ドキュメンタリーとはなんだろう?」という疑問にぶつかって。何が真実なのかよくわからなくなってしまったのです。そんな時、日本に戻らないといけなくなってしまい、リセットも含め帰国しました。

日本ではどのような生活を送ったんですか?

海外では働くというよりも、学ぶことがほぼ大半だったので、日本では出稼ぎのように一日中働いて次に向けてお金を貯めていました。でも、22歳の時に色々な事が重なり全てが嫌になってしまい、周りとの連絡も全部遮断して自分の殻に閉じこもりました。毎日絵を書いたり、見様見真似で鞄を作ったり。ですが一か月ぐらいして、ふと私はまだ若く、これで一生を終わってはいけないと思って、何故か「水に帰ろう」と直感したんです。学生時代に水泳選手を続けられなくなった時も、高飛び込みやサーフィンなど水に関係することを色々と経験したのですが、まだやったことがないことってなんだろうと思った時に、これまた直感で「スキューバダイビングだ!」と思って。

それでスキューバダイビングをしようと。どんな行動を起こしたのですか?

その当時スキューバダイビングの資格を習得するには、日本では少し高く、中米のホンジュラスが世界で一番安いことがわかりました。スペイン語を忘れないためにもちょうどいいと思い、翌週にはホンジュラスに向けて旅立ちました。私は決めたら、とても早いので(笑)。スキューバダイビングは普通、まずはプールで講習するんですが、私が行った島は小さな島で勿論プールなんてなく、最初から海で行いました。今でも忘れないのですが、一番最初に頭の上まで海にどっぷり浸かった瞬間に「私のいる場所はここだ!」とピンときました。そこからはまさに水を得た魚のように、水中の人生が始まりました。

それでそのままホンジュラスでしばらくスキューバダイビングを続けたのですか?

まずはスキューバダイビング自体を学ばないといけないので、必要な資格を取得し、同時に水中でも撮影を始めました。それで「ドキュメンタリーを水中で撮ればいいんだ!」と思いついて。経験を積むこと、そして生活費を稼ぐためには、現地で観光客の写真や映像を撮る仕事をしていました。そのうち、インストラクターの資格がある方が仕事につきやすいことがわかり、タイの島で資格を取得し働いていたのですが、数年経った頃、スマトラ沖地震で発生した巨大津波の影響でタイは大打撃を受けて、勿論観光などは皆無になってしまったんです。

それは大変でしたね。

その後メキシコに移り、5年ほど住んでスキューバダイビングでの映像撮影の仕事をしていました。その頃からスキューバダイビングで撮影する事に対して、どんどん違和感が明確になってきて。そんな時、イギリスの友達から「タイで素潜りを学ぼうと思うんだけれど、あいも来るかい?」と連絡が来たので、軽い気持ちで気分転換も兼ねて、またタイに帰ったんです。

初めて素潜りをしてみて、いかがでしたか?

ずっと探していたパズルの最後のピースがハマった感じでした。スキューバダイビングだと息を吸うと音が出て、吐くと音と泡が出てしまうので、水の中に長い間生き物たちを観察することはできても、彼らは逃げていってしまうんです。素潜りはそうではなく、クジラやイルカと同じように水中にいるので、彼らの一員となれる。そもそも大きいカメラを持って入ることはできないので、小さいカメラと、自分の体と能力だけで勝負できるという点で、もう私にはこれしかない!と。そこから素潜り一筋ですね。

タイにて。素潜りを始めた最初の頃

その後はどのような活動をされていったのですか?

素潜りの深く潜る世界大会などで撮影をしていたのですが、同時進行で自分のための撮影もしていました。素潜りで撮影するので、被写体はやはり素潜りの人が欲しくて、深く潜る世界チャンピオン達にお願いしたりしたのですが、どうしても自分が求める画が表現できなかったので、それまで私はずっと撮影する側でしたが、撮影される側になろうと決意しました。ただ、いち素潜者では誰も話を聞いてくれないし、やはり肩書きが必要だと思い、誰もが知っているギネス記録に挑戦することにしたんです。また、記録更新はどんどん次々に出てきますが、「世界初」というのは最初の1人だけなので、そこにもこだわりました。

そして2011年に世界ギネス記録(「洞窟の中を一息で一番長く泳ぐ」)に挑戦したわけですね。ちなみに、ご自身で大会を主催されたとのことですが、それって普通のことなんですか?

あるかもしれないですが、自分でやってみてその大変さを実感しました。チームメンバーを集めるところから始まり、記録を挑戦する場所、深さ、どこをどう泳ぐか、スポンサー探し、そしてギネス記録への申請など全て自分たちで行わないといけなかったので。まだ誰もやったことのない挑戦でしたし、全てが手探りで、スポンサー探しは難航しました。しかし、このギネス記録は誰かがやってしまったら自分がやる意味は皆無になるので、グズグズしてはいられないと思って、結局全部自分で費用を出して行うことを決めました。新車を買ったけれど、その日の内に事故を起こして使えなくなってしまったと考えよう、と。それ位の金額だったんですね。

潜る前に行った儀式の様子を動画で拝見しました。

ギネス記録は、メキシコのマヤ文明があったユカタン半島の、セノーテ・チキン・ハと呼ばれる地下の泉(セノーテ)で行いました。マヤ人はセノーテを「生から死への通り道」だと信じている。その神聖な場所に、一外国人が好き勝手にやって来て、土足で入るようなことは絶対にしたくなかったので、現地のシャーマンの方に来ていただき、潜る前に、そこに入って良いかとお伺いをたて、その場と私やスタッフ全員の浄化、そして死で止まらず、また戻ってきなさいよ、という意味合いの儀式をしていただきました。

記録を作ることが目的ではなかったとしても、達成した時はやっぱり嬉しかったですか?

そうですね。なんだかんだで準備期間は1年間ぐらいかかりましたから。だけど、実際記録を取った時は2分少々で終わってしまったので、あまりにあっという間すぎて、私も含め、仲間たちはみんなポカーンとしてしまいました。ちょっとして我に戻って、「いや、みんな喜ぼうよ!達成したんだよ!」って、思わず突っ込みました(笑)。

左上:ギネス記録を行う前の、シャーマンの儀式 右上:記録に挑戦している様子 下段:達成後、仲間たちと喜びを分かち合った

ヘアメイク:谷川彩霞
衣裳協力:ECOALF(エコアルフ)

次回へ続く

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