HIGHFLYERS/#41 Vol.3 | Jun 4, 2020

ウケたことが自信に繋がり、劇団SETを設立。ラジオ番組「ヤンパラ」で若者に多くの人気を得たことをきっかっけに、テレビや映画界でも大活躍

Text & Photo: Atsuko Tanaka

三宅裕司さんのインタビュー3章目は、喜劇役者を目指してから、現在の活躍に至るまでの様々な経験をお聞きしました。大学卒業後、日本テレビ学院や東京新喜劇などに入りましたが、自身が思う「笑い」を求めて79年に劇団SET(スーパー・エキセントリック・シアター)を設立。そこから少しずつ道が拓けていき、ラジオ番組「ヤングパラダイス」で絶大な人気を得たのをきっかけに、テレビや映画界にも活躍の場を大きく広げていきました。2007年には、学生時代からの夢だったというジャズのビッグバンドも結成。全てが順調のようでしたが、2011年に突発性の椎間板ヘルニアが悪化して脊柱管狭窄症の手術をし、足が麻痺して半年間のリハビリを経験するという辛い時期もありました。半生を振り返り、起きた色々な出来事や、それによって気付かされたことなどをお話しいただきました。
PROFILE

喜劇役者・タレント三宅裕司

1951年東京都出身。1979年劇団S E T(スーパー・エキセントリック・シアター)を旗揚げ。今なお毎年1万人以上を動員する老舗劇団を主宰する。劇団は昨年40周年を迎えた。舞台のみならず、ドラマ・映画、ラジオ、バラエティの司会として幅広く活躍するマルチエンターテイナー。2006年に熱海五郎一座を旗揚げし、毎年新作を上演。2014年に新橋演舞場に進出、シリーズとして定着する。

大病したのをきっかけに、調子に乗っていた自分を反省。リハビリを通して、自身が生かされている意味は東京喜劇をやることだと気づいた

卒業後は、喜劇役者を目指してどのようなアクションを起こしたのですか?

うちの母親の知り合いに、日本テレビタレント学院という学校で教えていた人がいて、そこに入るのが手っ取り早いんじゃないかと言われて入ることになったんです。そこを卒業すれば、きっとすぐテレビに出て色々できるんだろうなんて甘い考えだったんですけど、現実は全く違いましたね。そこから目が覚めて、「テアトロ」などの演劇雑誌を見るようになり、東京の喜劇を作ろうという、東京新喜劇旗揚げの募集を目にして、これだと思って行くことにしました。そこで初めて喜劇作りに参加するんですが、ここでもまた色々あって。

そこには結局あまり長くいらっしゃらなかったんですよね?

非常に多くの生徒がいて、いろんなオーディションには行くものの、なかなか無理なものが多いし、いつまで経っても売れないんですね。それにその劇団がやっていた喜劇はちょっと古くて、僕がやりたいと思っていたものと少し違ったんです。僕は音楽を入れた舞台をやりたかったので、主催者に一度自分に作らせて欲しいとお願いして、僕が中心になって1本作らせてもらいました。事務所で一番変な作家と言われているやつと組んで作ったら、ものすごいウケて。それでそこをやめることにしました。

ウケたことが自信に繋がって、自分の劇団をやってみようと。

そうですね、15人くらい引き連れてSETを立ち上げました。

ご自身が劇団を運営する側に立ってみて、大変だったことなどはありましたか?

大変でしたけど、仕事がないから、バイトをしながら芝居を作ることに変わりはなかったです。ただ、今考えると信じられないですけど、若かったこともあって、最初の頃は年間に新作を4本もやってたんですよ。アイデアが泉のように出てきたんでしょうね。作家もよくそれだけ本を書けたなと思いますけど、これがまた面白いものを書くんです。2作目に作った「コリゴリ博士の華麗なる冒険」の内容は、フライドチキンチェーンと牛丼チェーンが、遺伝子交配のやり方が書かれた巻物を取り合うというものでした。フライドチキンチェーンは4本足のニワトリを作って、牛丼チェーンは6本足の牛を作ろうとしていて、最終的にはある博士が4本の手を持った人間を作れば、銃を撃ちながら手榴弾を投げられて、最強の兵隊が作れるとなって。でも最後は、その博士の体から新しく出てきた手の制御が効かなくなって、博士はその手に首を絞められて死んでいくんです。

SET 結成当初、劇団員たちと

すごい話ですね。

これを考えたのは38年前です。異種交配が問題になったのは、それから10年以上後のことでしょう。この作家は天才だなと思いました。その後も、コンピューターが意思を持って恋をしてしまう話とか、実在しない映像で作った大統領の話とか、最初の頃のSETはその作家の発想でもってましたよね。僕がそこにめちゃくちゃくだらないギャグを入れるので、笑えるけどものすごく背筋が寒くなるような内容が多かったです。

昨年は旗揚げから40周年でしたが、劇団を続けていく上で変わらず大事にしていることはありますか?

「ミュージカル・アクション・コメディ」という形を崩さないということ、そしてコメディですから「笑い」ですよね。笑いって、お客さんが笑うか笑わないかが成功のバロメーターですから、その場で全部結果が出ちゃうんですよ。初日に誰も笑わなくて失敗となれば、翌日の朝までにギャグを全部入れ替えて、寝ないでそのまま劇場に行って、全員がそれを覚えて、となるわけです。

SET 40周年の舞台(2019年)

そうやってちょこちょこ変えていくんですか?

そこからはお客さんがたくさん笑うようにどんどん変えていきます。一番ひどいのは、最初に生きてた登場人物が最終日には死んでいた。そうせざるを得なくなったんでしょうね(笑)。

ジャズのインプロのように変わっていくんですね(笑)。2018年には劇団こどもSETの設立もされましたが、子供の役者を育てていく上で大切にしていることはありますか?

大人と全く一緒です。センスを身につけてもらうために、生の舞台で大爆笑も失敗も体験して恥をかくこと、その両方をとにかく何度も経験しないといけないと思ってます。

シーンとなってしまった場合、泣き出す子供もいたりするんですか?

逆ですね。公演の初日に大ウケしたら、子供たち全員が驚いて、セリフが飛んじゃったんです。僕はそれを見て、「やったぁ〜、この経験を忘れるな」って、ものすごい嬉しく思いました。そして、2日目の朝にみんなに言ったんです、「2日目が一番厳しいお客さんだから、昨日みたいなわけにはいかないよ」と。それでもみんなウケた時の感覚を覚えているから同じことをやっちゃうんですね。それでシーンとなって、焦るんです。僕はそれを見て、またいい経験をしたなと思うわけです。

大人と一緒なんですね。話は少し戻りますが、三宅さんのこれまでのキャリアにおいて大きな転機となったのはやはりヤンパラ(「三宅裕司のヤングパラダイス」。84年から6年続いたニッポン放送の人気ラジオ番組)になりますか?

劇団をずっとやっていたことも大きいですが、まずはヤンパラですかね。マスコミのすごさを実感した時でした。聴取率が上がってきた頃は、ハガキは1週間にダンボールに5箱ぐらい、バレンタインデーの時には紙袋3、4個分のチョコレートとかが届くようになって。僕はただ喋ってただけなんで、何が起きてるのか、わけがわかりませんでしたけど。聴取率がそれまでずっと勝てなかった裏番組を超えた時は、社長や専務までが握手してくるし、ニッポン放送自体もめちゃくちゃお祭り騒ぎになって。テレビって15%から20%が高視聴率とされているけれども、ラジオは0.3%とかが良いとされている中、ヤンパラは1.5%とかまで行ったようで。今考えるとやっぱりすごいことだったんですね。

ヤンパラのパーソナリティを務めていた頃:写真提供:ニッポン放送

中高生を中心に若者から絶大な人気を得ていたそうですが、どういうところが若者たちの心に響いたのでしょうか?

その頃たけしさんの「オールナイトニッポン」がもの凄い人気で、僕も好きで聴いてましたけど、ヤンパラを始めた頃はたけしさんの様に話して欲しいと相当言われました。「三宅ちゃん、優しすぎるからもっと突き放して。今はそうしないとダメなんだよ」って。でも、たけしさんはそうだけど、それって自分のキャラじゃないなと思って、僕は優しいお兄さんのキャラのままで行こうと思ったんです。たまには「バカヤロー」とか言うこともあったけど、そこまでの度胸はなく、どこかでフォローしていたところがありましたね。そういうのが好きな子達が聴いてくれてたのかなと思います。

当時、この人のようになりたいなど、目標にしていた人はいましたか?

これがいなかったんですよね。当時は、「俺は誰の真似もしない」と突っ張ってましたから。入った劇団がダメで、自分で考えた笑いが上手くいって、ラジオで自分の喋りでここまできたんだという自負がありましたからね。でも、昔はアメリカのコメディーがすごく好きで、チャップリンとかジェリー・ルイスとかをよく観てました。日本だと、森繁久彌さんの社長シリーズ、そしてクレイジーキャッツはずっと観てましたね。それからしばらくしていいなと思うようになったのは、西田敏行さんと伊東四朗さん。二人の、真剣に演じる上で面白いところがいいなと。

ラジオでの成功をきっかけに、テレビや映画でもご活躍されるようになりましたが、振り返ってみてご自身のキャリア形成に影響を与えたものや、考え方を大きく変えたものなど、特に思い出深いものはありますか?

「ごきげん月曜7時半」という、僕中心でやっていたコント番組ですかね。ゲストに高田純次さんが来ていた時なんですが、 ADが次の予定が詰まっている人がいるからみんな急いでくださいと言うんで、僕はすっかり自分のことだと思って、みんなに「急がせちゃって悪いね」なんて言ってたんです。それが僕ではなく高田さんのことだったとわかった時は、調子に乗っていた自分に気づいて、それ以来自分を抑えるようになりました。でも、プロデューサーやディレクターも褒めたりおだてたりするし、やっぱり調子に乗っちゃうんですよね。調子に乗ってるからこそ、多少無理してでもできるわけですし。寝てないっていうのを自慢にしていた時もありましたからね、それだけ売れてるんだ、みたいな。だけども、それってどこかでいい加減な仕事をしてたということですよね。それがわかるのはずっと後でしたけど。

2011年頃には、大病で大変な時期を過ごされたこともありましたね。

笑いの世界が芸人ブームになって、仕事がどんどん少なくなって、ずっと抱えてきたストレスがついに腰に来て、手術で入院しました。足が麻痺して半年間休養した時には、デビューから俺はずっと何をやってきたんだといろいろ考えましたね。公演の時も、劇団のことなんて何も考えてないのに、“演出・三宅裕司”でやってたわけです。その頃に劇団を辞めていった人達も多くいて、色々と振り返って反省しました。そして自分が生かされている意味を考えるようになって、それは東京喜劇をやることなんだと気づいて。その後、足のリハビリも兼ねて歩く仕事がないか探してもらっていた時に、「ふるさと探訪」(番組に寄せられた“こだわり田舎自慢”を確かめるべく、三宅が日本全国を訪ねる旅番組・B S日テレ毎週水曜20時放送)の話が上がり、これで歩こうと思ってやることになりました。

「ふるさと探訪」は、それがきっかけで始まったんですね。

そんな軽い気持ちだったんですが、やっぱり関わっているスタッフがみんなプロで、一生懸命番組作りしてるから、当たり前ですけどそんな考えじゃできないんですよ。やっていくうちに自然と、この番組を面白くするためにはどうしたら良いかを一緒に考えるようになりました。スタッフのチームワークの空気がそのまま伝わる番組だということに気づき、みんなと何度も酒を飲みながら話をした結果、チームワークの良さが画面の端々から感じられる良い番組になったと思います。番組が始まってから5年が経ちますが、全然そんな感じはしなくて。一生懸命やってる番組って、時が経つのがあっという間なんですよね。

スタイリスト:加藤あさみ(Yolken)
ヘアメイク:家崎裕子

次回へ続く

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