HIGHFLYERS/#41 Vol.2 | May 21, 2020

小さい頃に知った、人を笑わせる快感。笑いと音楽に囲まれて育った環境が、今の仕事に全て活きている

Text & Photo: Atsuko Tanaka

三宅裕司さんのインタビュー第2章は、幼少期から学生時代のことをお聞きしました。東京は神田神保町生まれの三宅さんは、多くの親戚や近所の人々が集う家で、音楽や落語など、たくさんの芸能に溢れた環境で育ちます。そして中学の時はベンチャーズに憧れバンドを組み、高校では落語研究会に入って、大学時代も音楽と落語にどっぷり浸かった日々を過ごされたそうです。今の仕事に全てが活きているとおっしゃる、様々な経験談をお伺いしました。
PROFILE

喜劇役者・タレント 三宅裕司

1951年東京都出身。1979年劇団S E T(スーパー・エキセントリック・シアター)を旗揚げ。今なお毎年1万人以上を動員する老舗劇団を主宰する。劇団は昨年40周年を迎えた。舞台のみならず、ドラマ・映画、ラジオ、バラエティの司会として幅広く活躍するマルチエンターテイナー。2006年に熱海五郎一座を旗揚げし、毎年新作を上演。2014年に新橋演舞場に進出、シリーズとして定着する。

中高時代にバンドと落語にハマり、大学では常に注目を浴び一躍人気者に。卒業後は、喜劇役者を目指す

神田の神保町で生まれ育ったそうですが、子供の頃は何が好きでどんなことをして過ごしたかなど教えて下さい。

今振り返って良かったなと思うのは、大家族だったことですね。うちのおふくろが9人兄弟の長女だったので、叔父叔母、いとこがたくさんいて、みんなでお正月とかに集まると、どの子が面白いかとか、成績がいいとかみたいな話になるわけです。そういう時にみんなの前で何かをやってど〜ってウケると、親も喜ぶし、自分も気持ちいい。人を笑わせた時の快感の原点はそこにあるような気がします。そしておふくろが日本舞踊を教えていたので、僕は6歳の頃から習わされていたんですが、周りが女の子ばっかりだったのでカッコ悪くて嫌でした。でも、ゆかたざらい(身内で行われる発表会)に出ると、まだ小さかったからというのもあってすごい拍手をもらって。拍手の快感もそこで知るわけですね。

幼い頃、祭りでの姿(左)、小学生の頃(右)

三宅さんの笑いの原点は小さい頃にあったんですね。

あとは叔父が落語が好きで、仕事をしながら落語を聴いていたのを僕も横で聴いてました。叔母は SKD(松竹歌劇団)だったので、国際劇場に連れて行ってもらったりしていて、家にも SKDの人が来て、今流行りの音楽はこれだとか、リズムはこれだとか話しているのを聞いたりして。

素敵な環境ですね。

今思うとやっぱり特別な環境でしたね。おじいちゃんが結構大きい家に住んでいたので、叔父叔母たちが近所の人を集めてパーティーをやるわけです。その頃はマンボが全盛で、ペレス・プラードとかの曲でマンボを踊ったりして。あと、親父は8ミリが趣味だったので、みんなを集めて映画の撮影をしてました。コメディの台本を書いて、撮影して、アフレコもやって。当時は今みたいな機材もないし、一本のテープで最初から最後まで録らないとダメなのに、終わりそうになると誰かが笑い出したりして、また最初からやり直して、夜通しゲラゲラ笑ってやっている。そういうのを見て、大人って楽しいんだな、早く大人になりたいなと思ってました。そういう環境を与えてくれた両親に感謝ですね。その時に得たものが、今全部活きてますからね。

そういうのを見て、小さい頃から役者になりたいと思っていたんですか?

それは全然なかったです。小さい頃になりたかったのはお金持ちですね。おふくろにはデパートを買ってあげるって言ってたらしいですよ。デパートは何でも売ってるから、デパートを買っちゃえば何でも手に入るって。あとは、テレビのドラマに感化されて、弁護士になりたいと言ってみたり、そんな時期はあったみたいですね。

その後、中学に入ってからはバンドを始めたそうですね。

中学1年の時に、ベンチャーズが日本に来て、影響を受けてエレキバンドを組んだんです。学内に「ハニーズ」と「ラバーズ」という二つのバンドがありまして、僕はラバーズでドラムをやってました。

なぜドラムを選んだんですか?

目立つからです。音楽を始めるきっかけって大概は女の子にモテたいからですから。最初はベースだったんですけど、ドラムの方がカッコいいし、モテそうだなと思って、なんとかベースのやつをやめさせようと思って(笑)。そうしたら本当にやめたんです。それでドラムになりました。

ドラムはどうやって覚えたんですか?

自己流ですね。リズムを聴いて覚えるんです。授業中にずっと練習していて先生に怒られたことは何度もあります(笑)。

ドラムは買ってもらって練習したんですか?

バンド仲間の大学生のお兄さんもバンドをやっていて、その練習場が、ある食堂の屋上にあって。そこで楽器を借りてみんなで練習させてもらってました。そのうちバイトをしたお金でそのドラムを買うんですけどね、25000円で。

いい話ですね。落語を始めたのは高校に入ってからですか?

そうです、高校2年の時に落研(落語研究会)に入りました。その前に、カッコいいのが良くてバスケットボール部に入っていたんですけど、あまりに走るし、あまりに疲れるので辞めて。だからバスケット部崩れの落研部員(笑)。

影響を受けた落語家さんは?

古今亭志ん朝さんです。

そして、大学は明治の経営学部に入ったんですよね。芸術や文化ではなく、なぜ経営を勉強されたんですか?

その頃は終身雇用で、いい会社に入ってしまえば定年までその会社にいられるような時代でした。高校が明治大学の付属校で、みんな2、3年生の頃からどこの学部へ行けば就職率がいいかとか考えるわけです。僕は小学校の頃は成績がすごい良かったんですけど、中学からバンドと落語ばっかりで全く勉強しなくなって、成績がどんどん落ちていって、大学は夜学の二部にしか行けないと言われていた。ところが、これがやっぱり強い星のもとに生まれてるんでしょうね。高校3年の時の担任の先生が非常に力の強い先生で、無理やり僕を一部に入れてくれて(笑)。その頃は演じることとか音楽とか、やりたいことがいっぱいあって、文学部の演劇専攻がいいななんて考えてたんですけども、高3の時に今の女房と付き合い始めたので、就職率のいい経営学部を選んだんです。

結婚を考えて?

多分そうでしょうね。なのに大学に入った途端別れた。だから詐欺みたいなものですよね(笑)。結婚なんか意識してたもんだから、文学部演劇専攻をやめて経営学部に行ったのに、大学に入った途端別れて。

でもそのあと復縁するんですね?

その後も6回別れるんですけどね(笑)。とにかく、経営学部に入ったのに結局また落研とバンドを始めるという、今思うとあの時女房と別れたからそうなったわけで、結果良かったですけど。

落語研究会はどうでしたか?

落語を本当に研究しようとするやつはいなかったですね、それは一人でやった方がいいですから。サークルとして面白く、バカなことをやって楽しい学園生活を送りたいっていうやつらが入ってきました。僕は高校から落語をやってきて、人前でやりたいとずっと思っていたし、東京生まれの東京育ちだから、地方出身の訛ってるやつには負けられないですよね。そこからさらに落語にはまったんでしょう。ウケる快感をどんどん覚えて、同時にバンドもやっていたので、女の子にキャーキャー言われても「俺には芸の方が大事だ」みたいに突っ張っちゃったりして、笑いと音楽を融合したコミックバンドまで作っちゃって、学園祭がめちゃくちゃ忙しいんですよ(笑)。

大学落研時代の高座にて

楽しそうですね(笑)。

付属校から一緒だった応援団のやつらが大学の応援団に上がって、応援団仕切りの学園祭のパーティーも仕事として全部僕たちのところに来るんです。学校の中庭でバンドをやって、客を集めて稼いだりして。だから忙しくて、完全に授業には出なかったですよ(笑)。ジャズバンドに、コミックバンド、落研、学園祭と、あとは寄席に行ったり、ホール落語を聴きに行ったり、映画を観に行ったり、そういうことばかりでしたね。楽しかったです。

その時期に経験されたことで、今の仕事にも活きてることは何かありますか?

全部ですね。芸能プロダクションがやるようなことを当時やってたわけですから。どうやって人を集めて売上を上げるか考えたりね。あと、兄貴が務めていた会社やバンドメンバーの兄弟がいた会社からも仕事をもらって、パーティーに出演したりして、楽しくて、営業までやるようになっちゃいましたね。昔、小笠原にホテルがなかった時代、小笠原に行く船がホテルになっていて、夜はダンスパーティーのバンドとして出演して、昼は海で遊んで真っ黒に焼けて、そりゃモテますよね(笑)。

やはりモテましたか?

私はダメでしたけど。

でも、あるインタビューで、志の輔さん(立川志の輔は大学の落研の後輩)が「三宅さんの面白さはトップだったし、すごいカッコ良かった」っておっしゃっていたのを拝読しました。

東京生まれ東京育ちの人は、昔から女の子にモテるために格好ばかりつけるんです。ドラムを叩くにも、スティックの持ち方とか、顔の角度を気にしたり、スキーも、何をやるにも全部そうですよ。実力より、鏡を見てポーズを確認することの方が大事なんですから(笑)。学園祭では着物を着て落研の高座をやって、教室でジャズコンボバンド、コミックバンドをやって、中庭の大パーティーでロックバンドをやって、時間が空いたらまた高座に出て、なんてことを繰り返してました。

大学時代

まさにスターですね。

大学の頃はスターと言われてました。落研に新潟から来たやつがいて、いつも高座で言うんですよ、「三宅はスターだけど、それについてる私は星屑だ」って。そいつの自己紹介は毎回それでした(笑)。

三宅さんは、その頃何を目指していたんですか?

多分コメディを作りたいと思っていたんでしょうね。落語家にはなりたくないと思ってました。落語って、着物を着て座ってないといけないし、昔からあるもので、落語界に入ったら先輩が非常に多いじゃないですか。そこに入る勇気はなかったですね。もうちょっと舞台で動けるような、喜劇役者、コメディ劇団というのがぼんやりとしてあったんだと思います。

ミュージシャンになろうという考えも特にはなく?

音楽は難しすぎたんです。本当に音楽をやりたい人は1日何時間も練習して、最終的に日本の音楽学校からバークリーのような海外の音楽学校へ行って、それからプロになるという人が多かったので、僕みたいにかっこいいところだけを目指して適当に趣味でやってるようでは、とても無理だと思ったんですね。

スタイリスト:加藤あさみ(Yolken)
ヘアメイク:家崎裕子

次回へ続く

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