「東京よりも面白いものを!」と仙台に、「BECKの様なおしゃれなMVを作りたい!」と再度東京に。仕事に対する情熱が仕事と繋がりを生んだ。今を確立した仕事論について
会社を辞められた後は、就職活動をなさったのですか?
いや、仙台に戻って「ディレクター/児玉裕一」っていう名刺をいきなり作って(笑)、フリーで仕事を始めました。「電通やめてきました」とか言って。やや詐欺ですよね(笑)。屋号も作ったんですけど、仕事が早くて若そうなイメージで、「クイックポップ」にしました。
サラリーマンを辞めて独立したい人はたくさんいると思うのですが、中々勇気のいることですよね。児玉さんは会社を辞めることに不安はなかったのですか?
全く勝算がなく辞めたわけではもちろんなく、仙台に行けば昔のバイト時代のつてがあると思って辞めたんです。ある程度生活が出来る見通しがある上で独立したので、そこまで冒険はしてないんですよね。あと、仙台で一緒にやっていた仲間にはギラギラしている人達が多くて、みんなで東京よりも面白いものを作ってやるとか、東京で出来ないことをやってやるとかいう気持ちの方が大きかったんです。
情熱的な部分も大きかったんでしょうけど、やはり才能があったんですね。
いやいや、あったのは才能ではなくて“つながり”なんです。大学生の時にバイトでお世話になったCMディレクターの先輩に事務所を間借りさせてもらって仕事のおこぼれを貰ったり、その人のお手伝いをやったりしていました。仙台に戻って最初の2~3年間は、市のイベントから東北放送の番組内のワンコーナーの制作までなんでもやっていました。そのコーナーでは、近所のカレー屋のインド人の女の子が喋っている夢話みたいなのを録音して編集して、台詞になるようにしてアニメを作ったり、川の水はどこから海になるのかを調べるために、ボートに乗って川の水を舐めながら確かめたりとか、免許証をコピー機でどこまで拡大できるかとか、とりあえず思いついたものをなんでもやってました。ちょうど今のYouTuberがやってるみたいなことですね。実際に作ったものをすぐに地上波で垂れ流しできたことは、僕自身のその後の考え方に大きな影響を残したと思います。
そこから何がきっかけで、再び東京に活躍の場を移されたのですか?
すでに東京に出ていた大学の先輩がSPACE SHOWER TVで番組をやるから一緒にやらないかと誘ってくれたんです。バカバカしいものを作るのも好きだけど、当時はベックのミュージックビデオがどれも素晴らしくて大好きで、そういうミュージックビデオを作ることにも憧れていたので、「何かチャンスがあるかも」と思い即決しました。SPACE SHOWER TVでは、フリーの仲間たちと一緒に毎週2時間番組を、一年間やりました。「激空間リクエストアワー」という番組で、出演するゲストが選んだ9曲と、リクエストから選んだ9曲のミュージックビデオを、野球の試合の一回の表・裏みたいにして闘わせるという番組です。他に、ライターで漫画家の渋谷直角くん(代表作:「奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール」など)と一緒にアニメを作って垂れ流してました。
その番組終了後はどうなったのですか?
番組が終わる頃に、たまたまSPACE SHOWER TVの人があるレコード会社のA&Rの人に僕の作品集を紹介してくれたことがきっかけで、スネオヘアーさんというアーティストの媒体宣伝用の映像を作るチャンスをいただきました。それが好評で、ジャケットもミュージックビデオも全部やらせていただけることになり、昔からずっと憧れていたミュージックビデオの監督に晴れてなれました。
スネオヘアーさんの媒体宣伝用の映像はどのような内容だったのですか?
「スネオヘアーをどう見せたらいいか?」という企画会議をしているシーンから始まり、「こういうスネオがいいんじゃないか」って言うと、実際にスネオヘアーさんがそれを演じるミュージックビデオが始まるんですよ。「アイドルっぽくやったらいいんじゃない?」って言うと、アイドルっぽいミュージックビデオが始まって、そうかと思うと「太陽にほえろ!」の石原裕次郎さんにそっくりな「ゆうたろう」が出てきて「いやいや、もっと渋めのがいいんじゃないか?」って、太陽にほえろのコピーみたいなミュージックビデオに変わる。そんな感じで、みんな好き勝手なことを言って、そのミュージックビデオをひとつひとつ作りました。結局「全部を足して5で割っちゃえばいいんじゃないか?」みたいなことになって、スネオさんがキレて止めようとする人たちを日本刀でザクザク斬っていくんですけど、メディアを集めたお披露目会では最後に本物のスネオさんが会場に現れてその怒りのまま歌うっていうオチでした。
反応はどうでしたか?
お土産で「全部を足して5で割ったビデオ」というのも作って配ったんですが、すごいウケました。その中でも「太陽にほえろ!」バージョンが面白かったから、実際にもうちょっと膨らませてフルの尺でミュージックビデオを作ることになって、スネオさんのデビュー曲「アイボリー」のミュージックビデオは「太陽にほえろ!」バージョンになったんです。2002年くらいのことですね。一応僕の中ではビースティー・ボーイズの「Sabotage」の日本版をイメージして作ったんですけど(笑)。
そこから何かまた大きなブレイクポイントとなった作品はありましたか?
その後もスネオさんのミュージックビデオを続けて10本くらいやらせてもらったので、インターネット上などでの評価を見てチューニングしながら、一人のアーティストを題材に色んな切り口で演出させてもらうという経験が出来て本当にラッキーでした。それ以外にも他のアーティストのミュージックビデオをやったり、電通にいた頃の同僚から仕事がきたりするようになりました。
CMのお仕事は、その後徐々に増えていったのですか?
今でこそミュージックビデオもCMも両方手がけていますが、当時はミュージックビデオとCMって業界が凄くかけ離れていたので、なかなかCMの業界には行けませんでした。すこし舐められてしまうんですよね、なぜだか。逆に僕はCMしか撮れない監督になんかならないぞ、と意地になってたましたが。一番最初に作ったCMは、確かプレイステーションのゲームのCMだったかな。代理店時代の友人からいただいたお仕事です。
ミュージックビデオは、サカナクションや椎名林檎さん、Perfumeや水曜日のカンパネラなど数多くの作品を手がけていらっしゃいますが、今まで携わった作品の中で影響を受けたアーティストはいますか?
椎名林檎さん。毎回凄い曲を作る方だなぁって。東京事変のミュージックビデオで仕事したのが先ですが、あんなバンドはなかなか日本にいないぞって思いましたね。でも、どのアーティストもどの曲も、毎回それぞれ衝撃がありますよね。
ミュージックビデオのイメージの作りやすさは、そのアーティストによって違うんですか?あるとしたら、その違いはなんでしょうか。
色々ありすぎて難しいですね。どれをどう切り取ればいいか分からない人もいるし、何もなくてどう膨らますかみたいな時もあるし。
それでは、今までのキャリアの中で大変だったと感じたのはいつですか?
今です(笑)。「これでいいのかなぁ」って思いながら絵を描かなきゃいけないので、一番しんどいのはコンテを描いてる時ですね。だいたい常に5、6件何らかのプロジェクトが同時に動いてるんですが、直近の仕事が一番しんどいです。プレッシャーもあるし。でも、終わればその苦労も綺麗な思い出に変わるから、またやってしまうのですが。映像は綺麗なところしか残らないですしね。
今まで数多くの作品を作ってこられましたが、毎回過去のものと全く違うものにしようと試みているのでしょうか?
もちろんそれが出来ればいいんですけど、これをやれば絶対良くなるっていう確実さが無い場合もあるので、敢えて過去の成功体験を引っ張ってくることもあります。
プレッシャーの大きい仕事をたくさんこなされていますが、児玉さんの気分転換の方法を教えて下さい。
寝ることですかね。寝れば元気になるので。あとは次の次くらいに何を撮ったら面白いか思い浮かべることでしょうか。
次回へ続く