HIGHFLYERS/#22 Vol.2 | Mar 16, 2017

夢は科学者だったが大学でクリエイターの道へ。CMを作りたくて電通に入るも1年で退職。フリーになるまでの視界と信念を語る

Text: Kaya Takatsuna / Photo: Atsuko Tanaka / Cover Image Design: Kenzi Gong

映像ディレクターの児玉裕一さんインタビュー第2回目は、幼少期から大学時代、そして一流企業に就職したにも関わらず、わずか1年で退職してしまうまでをお聞きしています。新潟県新潟市で生まれ育ったインドア派の児玉さんが、幼い頃に心を奪われたのは自然科学館でした。将来は科学者になると信じて疑わなかった少年が、大学時代のマッキントッシュとの出逢いによって映像制作に目覚め、大手広告代理店の電通に見事就職。しかし1年で辞めてしまったその理由とは?今の原点となった学生時代のクリエイター活動の想い出もたくさん伺っています。
PROFILE

映像ディレクター 児玉裕一

1975年生まれ。東北大学理学部化学系卒業。 卒業後、広告代理店勤務を経て独立。 2006年より「CAVIAR」に所属。2013年9月「vivision」設立。 CMやMVなどの映像作品の企画/演出から、ライブの演出まで幅広く従事。 2015年よりロンドンのクリエイティブエージェンシー「CANADA LONDON」にも所属し、海外の広告も手がける。

科学館で見た景色が今の作品にも影響を。大学時代の奇をてらった作品から電通1年目にひどく叱られた越権行為まで、笑いを交えながら赤裸々に

新潟県新潟市のご出身だそうですが、どのような幼少期を過ごされたのですか?

父はラジオ番組のディレクターで母は専業主婦という普通のサラリーマン家庭で育ちました。姉がひとりいますが、今は京都に住んでいます。僕は子供の頃は工作が好きで、いつも何かを創って遊んでいました。だからといって特に器用だったわけでも几帳面だったわけでもなく、プラモデルにマジックを使って色塗りしまうような子供で、ガンダムの目をグリグリ塗ってしまってましたね。どちらかといえばインドア派で、勉強はするのが当たり前だと思っていてちょっと成績が良かったので、学校では委員長系でした。小学校低学年の頃は、ファミコンやゲームウォッチが流行っていて完全にはまりましたね。友達の家のパソコンで、合成音声で喋っているのを見せてもらった時は驚きました。あとは、新潟市にある科学館(新潟県立自然科学館)に通っていました。

科学館には何があったのですか?

自然科学から化学 / 物理 / 技術などが全部揃っていて、そこの展示物の見せ方がとても面白かったんです。実寸大の森の断面図模型とか、土の中まで見えるようになっていて、そこに剥製のモグラがいたりするのを観るのが凄く好きでした。展示物のサインだったり、ボタンだったり、ステンレスの什器だったり、鳴っている音だったり、あの頃科学館で見たことや体験したことは、今僕が関与している作品のセットにも影響していると思いますよ。その科学館には、他にも巨大な振り子とか、プラネタリウムとか、騙し絵とかがいっぱいありました。東京の九段下にある科学技術館が、昭和の香りがして少し雰囲気が近いです。映画「太陽を盗んだ男」で菅原文太さんと沢田研二さんがもみ合う最後のシーンと、「シン・ゴジラ」のラストシーンは、どちらも科学技術館の屋上で撮影されてますよね。館内の星がダーッと並んでいる壁が格好いいんです。今でも子供を連れて行きます。

小さい頃、将来なりたかった職業はありましたか?

科学者になると当然のように思っていました。科学雑誌を買ってもらっては得意気になっていましたし、10歳の時に自然科学館でどうしても欲しいって言って買ってもらった「MEGA 科学大辞典」という本は今も持っています。クローンや培養エネルギーの話とか、今にして思うと辞典じゃなくて読み物なんですけど、図解が大好きでビジュアルが面白いと思って眺めていました。今見ると名のあるイラストレーターの方がビジュアルを提供しているんです。科学とアートを上手く結びつけていて、これを創った人はセンスあると思いました。でもまぁやっぱり一番のポイントは、表紙が当時珍しかったホログラムなこと(笑)。魅了されちゃったんですよねぇ。

やはりそこに児玉さんの原点があるんですね。高校時代も科学者を目指して、大学は東北大学の理学部化学科に進学されたそうですね。

絶対理系だと思っていて、大学では触媒反応の研究をしていました。エネルギー反応について色々研究して一応卒業はしたのですが、途中からほころびが出始めるというか、段々学校の授業についていけなくなるのと同時に、自分が好きなのは、NASAのロゴやスペースシャトルのデザインの方だったなと気づいて。映像にも興味がでてきて、周囲に誰もやってる人がいなかったのですが、マッキントッシュが生協で売っているのを見て、「これだ!欲しい!」と思って、Power Macintosh 8100っていう縦型の白いやつをかなり無理して買いました。大学1年生の頃ですね。

なるほど。ではその頃から触媒の研究よりも、コンピューターの方に傾倒していったのですね?

いや、傾倒というほどではなく、友達とアート系のサークルに入って面白そうと思ったことを粛々とやっていました。今となるとちょっと恥ずかしいんですけど、意味のない物を「探しています」というビラを作って街に貼ったり、道路の真ん中に食卓を置いて朝食を食べている風景を写真に撮ったり、全然魚のいない公園の噴水で買ってきた魚を釣り上げている様子を撮ったり…。あとは、仙台に国分町っていう繁華街があるんですけど、そこに友達から借りたビデオカメラを持って行って、「東北放送でーす。景気はどうですかー?」とか酔っぱらってる人にインタビューするなんてこともしてましたね。仲間の中には写真の現像を教えてくれる人や、音楽を作っている人もいて、自分も何かやらないとな、と思える環境でした。

科学への興味は段々としぼんでいった感じですか?

そうですね。科学的なデザインやロマンティックな部分は、ずっと変わらず大好きでしたけど。そして「広告批評」や「デザインの現場」などの雑誌や本を読んでは、東京の文化のイメージを凄く膨らませていました。それらの本には、マッキントッシュがあれば何でも出来るみたいに書いてあったんです(笑)。その頃、仙台のCMとか番組用にモーショングラフィックス的なバイトもしていたから、僕はデザイナーでもないのに、「東京のデザイナー達と同じコンピューターで同じもの作っている」だなんて、彼らと同じ土俵に立った気になっちゃったんですよね。

大学卒業後、就職はどうなさったんですか?

広告代理店の仕組みをよく知らずに、広告代理店に入ればCMが作れると思っていたんですよ。「凄いクリエイター達が電通とか博報堂っていう所にいるぞ、代理店に入ればCMが作れるらしいぞ」とか思って、CMクリエイターになろうとひたすら代理店を受けました。

ちなみに、当時好きだったCMはありますか?

J-PhoneのCMが、グラフィックも映像もとにかくかっこ良かったです。CMではないですが、電気グルーヴのミュージックビデオとかも好きでした。他にも立花ハジメさんが作った「信用ベータ」というAdobeのイラストレーター用のプラグインとか、松本弦人さんの作品とか。今思い返すと映像というよりはグラフィックの方に興味があったかもしれません。

それで、その後広告代理店に入ったんですか?

電通グループの電通東日本という会社の横浜支社に入りました。入ってすぐの研修で色んなことを勉強して、「こうやって広告業界って成り立ってたんだ!」と、そこで初めて広告業界について知って。自分がイメージしていたのは実際に手を動かして映像やらをつくることだったのですが、それをするのはほんの一握りの人たちで、実際はもっともっとたくさんの役割分担があって、それらがひとつになって「広告」というものが世に出されていたんです。自分は媒体部の新聞雑誌担当に配属されたのですが、簡単に言うと、そこはいわゆる紙媒体の「広告枠」を買ってきたり、そこに原稿を送ったりする部署でした。

やりたいと思っていたCM制作とは随分かけ離れた仕事だったのですね。

今思えば、ここで一通り広告の仕組みを勉強させてもらったので、後々本当に良かったんですけどね。実際働いてみて、いきなりクリエイターにはなれないという現実を知ったわけですけど、配属されたからにはどんな仕事でも頑張ろうと思いました。それで、会社の雰囲気もいいし、媒体部の仕事も段々楽しくなってきたんですけど、当時から自分でも映像やグラフッィックを作れたので、ある時ちょっとした新聞広告を「これ、俺でも作れるな」と自分で作っちゃったんです。そしたらクリエイティブの担当の人に、「それはお前の仕事じゃないだろ」って凄い怒られて。言われてみれば確かに僕の仕事ではないなと。当時はまだ若かったので、「早く作りたい!」っていう想いが強くて、会社を辞めることを決めました。社員の皆さんも本当に優しくて僕のことを可愛がってくれていたから、これ以上長くいると、逆に申し訳ないという思いもあって…。

それは入社していつ頃のことだったんですか?

実は一年目なんです。辞めると決めた後、「本当はこういう事をやりたいんだ」っていう気持ちをこめて映像を作りました。一年目で参加した会社のイベントや8mmフィルムで撮りためた素材を編集して、モーショングラフィックスと混ぜた3本立てで10分くらいにした想い出ビデオを、「皆さんありがとうございました、さようなら」みたいに仕立てて。パッケージも作って、それを皆さんにVHSで配りました。「こんなもの作るんなら、しょうがねぇな」って思ってもらおうという魂胆だったんですけどね。どこかで自分を認めて欲しかったんですけど、今思うと若かったですね。

次回へ続く

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