HIGHFLYERS/#23 Vol.2 | May 25, 2017

焙煎屋の長男に生まれ、コーヒー屋になることに迷いはなかった幼少期。高校の文化祭で大成功させたカフェはその後40年受け継がれた

Text: Kaya Takatsuna / Photo: Atsuko Tanaka / Cover Image Design: Kenzi Gong

コーヒーハンター・川島良彰さんインタビュー第2回目は、幼い頃のことからエル サルバドル留学時代について。コーヒー豆の卸問屋を営む両親のもとに生まれた川島さんは、将来は家業を継ぐと当然のように思って幼少期を過ごしますが、実家の倉庫にあった麻袋に描かれていた南米の国々に思いを馳せ、小学校6 年生の時にはコーヒー農園に行きたいとブラジル大使館に自ら手紙を書いてしまいます。昔から皆と同じことをやるのがいやだったという川島さんのユニークな学生時代のエピソードから、親を説得して留学を実現させたこと、またエル サルバドル時代に起きた内戦勃発の話などを伺いました。
PROFILE

株式会社ミカフェート代表/コーヒーハンター川島良彰

1956年静岡生まれ。1975年中米エル サルバドル国立コーヒー研究所に留学し、コーヒー栽培・精選を学ぶ。その後大手コーヒー会社に就職。ジャマイカ、ハワイ、インドネシアで農園開発を手掛け、マダガスカルで絶滅危惧種の発見と保全、レユニオン島では絶滅した品種を探し出し、同島のコーヒー産業復活を果たす。2008年独立し、株式会社ミカフェートを設立。 日本サステイナブルコーヒー協会理事長、JAL日本航空コーヒー・ディレクター、タイ王室メイファールアン財団コーヒーアドバイザー、カリフォルニア大学デイビス校コーヒーセンター アドバイザリー・ボードメンバー等を務める。

高校卒業後、エル サルバドルへ留学しコーヒーの栽培に夢中になるも、内戦勃発で多くの友人や大切な人を亡くし、ロサンゼルスへ疎開

幼い頃のお話をお聞きしたいのですが、ご両親はコーヒー豆の卸問屋をやられてたそうですね。

はい。両親はコーヒー豆の卸問屋「コーヒー乃川島」を営んでおり、お店の正面右側にあったフジローヤルの大きな焙煎機で毎日父が焙煎していました。焙煎の匂いを嗅ぐとやっぱり今も実家を思い出します。幼稚園の時から父がミルでコーヒーを作ってくれていて、中学生くらいからは自らサイフォン(フラスコのような形をしたコーヒーを抽出するための器具)でコーヒーを淹れてました。兄弟は姉と弟。僕が家を出てしまったので代わりに弟が家業を継いでくれて、今も静岡エリアで結構大きくやっていますよ。

昔のコーヒー乃川島

川島さんは、小学校の時はどのような性格でしたか?また、小さい頃からコーヒーに関わる仕事をしたいと思っていたのですか?

コーヒー屋になるっていうのは、親に言われなくても小さい頃から自分で決めていましたね。小学校時代は団体行動ができなくて先生からよく思われていなかったので、不遇の暗黒時代でしたよ(笑)。小学校の時ってクラス内で班を作って行動するじゃないですか。僕がいたクラスは6班まであったのですが、班長の女の子に僕が班の活動をしないと先生に言いつけられて、先生にも見放された僕は第7班を一人で作らされて「第7班朝礼始めます。おはようございます」なんて全然めげずに一人でやっていました(笑)。昔から皆と同じことをやるのがいやで、誰もやらないことをやりたいっていう気持ちが強かったかもしれないですね。

ところで、その頃すでにブラジルに行きたいという気持ちがあったそうですね。

はい。本当に行こうと思って、小学校6年の時にブラジル大使館に、「静岡のコーヒー屋の息子なんだけどブラジルに行ってコーヒー園で働きたい」って手紙を書いたんです。返事は来なかったけど絶対にあきらめたくなかったんで、もう一回手紙を書いたらJICA(国際協力機構。当時の海外移住事業団)に相談しなさいっていう返事が来て。僕に家業を継がせたいと思っていた親は凄く怒って、「中学を出たら行かせてやる」って。結局、中学になったら「高校を出たら行かせてやる」、高校になったら「大学を出てからでも遅くないだろう」って伸ばし伸ばしにされましたけど(笑)。

高校生の頃

高校生の時は、文化祭でコーヒーショップをやられたと伺いました。

静岡聖光学院というカトリックで厳しい中学高校一貫の進学校で、校長はカナダ人の聖職者だったのですが、高校1年の時、文化祭で自分たちでコーヒーショプをやりたいって先生に話したら、生徒達がお金を扱うなんて絶対だめだって許してくれなかったんです。それでも校長をなんとか説得して実現させて、仲間と美味しいコーヒー屋を出したら、大成功して2日間で凄い売上げを出しました(笑)。学校側は、校内でやったことだから、その売り上げ金を学校に献上してほしかったようですが、お金の使い道は僕達で決めると言い張って、その全額を静岡新聞の歳末助け合いに寄付したんです。

とても良い話ですね。

でも先生たちはそれが気にいらなかったのか、翌年またやろうと思って申請を出したら、色んな条件を出してきて。結局、売上金は学校に支払うとして、使い道に関しては自分達で決めさせてもらうということで話がついて、当時新設校で設備が完璧じゃなかったので、売上金でプレハブの納戸を買いました。そんなこともあって、未だに仲の良い年の離れた後輩達に、「先輩は一期生の伝説の人だ」って言われます(笑)。僕が卒業してからも、そのカフェが文化祭で40年くらい続いたのは嬉しかったですね。

高校卒業後、大学はエル サルバドルに留学なさったそうですが、きっかけは何だったのですか?

高校2年の時に父が中米とメキシコにコーヒー業界の視察旅行に行ったのですが、メキシコの自治大学がすごくよかったらしく、大学なら行かせてやると、やっと留学を許可してくれました。ただメキシコにはつてがなく、僕は中米ならどこでもいいと思っていたので、たまたま父が知合いだった駐日エル サルバドル大使のベネケさんに相談に行ったら、エル サルバドルに来いって言ってくれて、そこから僕の人生は大きく変わりましたね。

エル サルバドルに留学する直前の頃

当時からエル サルバドルのコーヒーもお父様は扱っていたんですね。

1970年代に中米で一番コーヒーで有名だった国はエル サルバドルだったんです。ベネケさんは毎年日本のコーヒー業界の人達を60人以上集めて、彼らを「中米コーヒーミッション」という使節団として、エル サルバドルやグアテマラ、コスタリカなどに送り出していました。当時の名だたるコーヒー屋は毎年それに参加していたので、エル サルバドルは凄く有名でしたね。

日本を離れて留学してみてどうでした?

ベネケさんの妹の家にホームステイして大学に通うことになったのですが、初めて親元を離れてエル サルバドルに着いた日は、ものすごく不安で一晩中泣き明かしました。でも翌朝目が覚めて外に出てみたら、花が咲き乱れている美しい庭が目の前に広がっていて、「これからこんな綺麗なところに住めるんだ」って思ったら一晩でホームシックが治りましたね(笑)。あの頃は内戦前だったので、街も凄く綺麗でした。それから大学に通いながら半年ほどで街の様子もわかるようになって、言葉もしゃべれるようになってきたので、エル サルバドル国立コーヒー研究所の門を叩いて、所長に「研究所で勉強させてくれ」って直談判しに行ったんですよ。

大学は卒業したのですか?

しなかったんですけど、休学届けを出して、学生ヴィザのまま研究所に行っていたので、僕はおそらく未だに休学中になっているはずです(笑)。日本の大学は8年とか期限があるけど海外って10年計画で卒業する人もいるし、まだ籍は残っていると思います(笑)。

研究所に行った時は、すでにコーヒー業界で将来何かをやろうというビジョンはあったのですか?

その当時は、栽培の勉強をしてから生豆ができるまでの勉強を一通りしたら、親に頼んでヨーロッパに行こうと思っていたんです。例えば焙煎業みたいなことをヨーロッパのコーヒーの現場で修行してから実家に戻れば、すごく面白いコーヒー屋さんになれると思っていたのですが、研究所で病気や害虫を研究しながら栽培に取り組んでいるうちにそっちの方がどんどん面白くなっちゃったんですよ。結局その研究所には通算4年以上いましたね。

エル サルバドルを離れたきっかけは何だったのですか?

内戦です。僕は内戦で7人の友達を亡くし、お世話になったベネケさんも暗殺されて、自分自身もテロに巻き込まれて殺されそうになったことがあるんです。内戦がひどくなってもギリギリまで研究所に残っていたんですが、だんだんと内戦が首都に近づいてきて、とうとう僕がいた街もゲリラの支配下に入ってしまい、外国人は絶対に誘拐されるからと街から出られなくなってしまった。その頃はすでに日本大使館の人達も逃げた後で、在留邦人は10人以下になっていました。僕の先生もゲリラに脅迫されてグアテマラに逃げざるを得ない状況になり、家を継がないと言ったことですでに親から勘当されていた僕は日本にも帰れないので、ロサンゼルスに行ったんです。ロスで半年間頑張ってみて、政情が少しでも安定したらエル サルバドルに戻ろうと思っていたんですよ。

そうした混沌とした中、疎開したロスでは、まったくコーヒーに関係ない仕事をなさっていたんですよね。

はい。タコス屋です(笑)。

次回へ続く

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