31 Vol.2 | Sep 20, 2018

仕事の本質を知るためには、先輩方の処世術や呼吸法を知る吸収期が必要。知らない時ほど自分だけでなんとかしようと試みるもの

Interview & Text: Kaya Takatsuna / Photo: Atsuko Tanaka

青栁貴史さんインタビュー第2回目は幼い頃のことから家業を継ぐに至った20代中頃までのお話を伺いました。東京の下町で生まれ育った青栁さんは、書家だった祖父母と過ごす時間も多く、芸術と日本文化に溢れた環境で育ちます。中学、高校は男子校へ行き、大学では外国語学部中国語学科を専攻しましたが、実際中国で使う言葉とのギャップを感じて2年で中退。家業の「宝研堂」を継ぐ決心をします。祖父母との思い出や、家業に関すること以外でハマったこと、その後、腰を据えて家業に邁進し、製硯師として歩み出した当時のことなどを伺いました。
PROFILE

製硯師 青栁貴史

1979年2月8日東京都浅草生まれ。郁文館高等学校在学中16歳時より祖父青栁保男に硯作りを師事。大東文化大学外国語学部中国語学科へ進学後、祖父の他界を機に中退し21歳時より父青栁彰男に師事。その後中国大陸の作硯家と交流しながら伝統的硯式の製作研究を始める。日本、中国各地の石材、硯式、時代に対応した硯の製作、修理、調整、文化財復元・復刻製作、改刻、日本中国における硯の製造プロデュース、現地石材調査に従事。2014年、神奈川近代文学館所蔵 夏目漱石遺品の硯を修復、鑑定。2016年、大東文化大学文学部書道学科非常勤講師就任。硯文化についての授業開始。2017年夏目漱石愛用硯復元製作。神奈川近代文学館にて常設展示。同年10月北海道硯材調査開始。日本初となる北海道硯石の採石に成功。2018年1月、ドキュメンタリー番組「情熱大陸」放送。2018年2月、個展「青栁派の硯展」開催。2018年6月、隕石NWA869を硯化。地球に存在しない鉱物から墨堂(鋒鋩)成形に成功。2018年7月、「switchインタビュー 市川猿之助×青栁貴史」放送。著書「製硯師」天来書院発行「硯の中の地球を歩く」左右社発行がある。

プラモデル作りが好きだった幼少期。格闘家に憧れ空手に、トム・クルーズに憧れロッククライミングに没頭した青年期

幼い頃はどんな子供でしたか?

下町育ちの一人っ子なのですが、両親が頻繁に中国へ出張に行っていたので、僕は祖父母に預けられることが多く、書家だった母方の祖母のところによく行っていました。特別に悪さもしなければ、おとなしすぎることもない普通の子供でした。

幼少期の頃

夢中になったものはありましたか?

プラモデル作りが好きでした。小学3、4年生の頃のことですが、当時読んでいた雑誌の付録をもの凄く丁寧に作っていたのを覚えています。山折りとかは絶対に中心を狂わせたくない、みたいな(笑)。当時から作ることに関しては几帳面でしたね。

小さい頃になりたかった職業はありますか?

卒業文集にも書きましたが、祖母や叔父、叔母とスキーによく行っていたので、スキーの選手になりたかったですね。書家だった祖父が妙高高原にアトリエを持っていて、そこで叔父から古い家の井戸の汲みあげ方とかコウモリの捕まえ方とかを教わったり、大人達と豪雪の中、ゲレンデまでスキー板を背負って登ったりしてました。

中学、高校時代はどのような生徒でしたか?

中学、高校は郁文館に行きました。部活動ではなく、剣友会という団体に入って剣道をやっていたので、放課後は剣道仲間と遊んでました。進学を考えるようになる頃には、画家になるかならないかを本気で考えていましたね。

15歳から20年間剣道をやっていた。写真は20代中頃

画家を目指していたことがあったのですね。絵は昔からお好きだったんですか?

そうですね。高1の頃、夜間に日本画の学校に行っていた時期もあります。藝大志望だったんですけど、絵ではなんとかいけそうでも成績のほうが微妙で。でも浪人はしたくなかった。そこで剣道の恩師に相談し、父の背中をずっと見てきた自分としても、うちの仕事は中国とは切っても切れない関係だということはわかっていたので、将来的なことも考え、大東文化大学の外国語学部中国語学科に入学しました。

大学生活はいかがでしたか?

大学は中国語の習得が目的だったんですけど、実際に中国で話している言葉に触れる機会が少なく、日本で学び続けるより現地に行きたいと思うようになりました。2年間は通ったんですが、祖父の死をきっかけに迷うことなく辞めました。

お祖父様の死は、当時の青栁さんにとって大きな出来事だったのでしょうか?

振り返ってみると、やっぱり祖父母たちが僕の骨格を作ってくれていたんだなぁって思います。彼らは育ての親のような存在でした。信心深い祖父が浅草寺に連れて行ってくれたことや、浅草のお祭りや花火の意味とかいろんなことを教えてくれたのを覚えています。

「宝研堂」2代目社長 青栁保男

そうして大学を中退されて家業を継がれるわけですが、格闘技に夢中になった時期もあるそうですね。

男子校にいるとK-1のような格闘技に興味を持つんですね。僕は当時、小さい体で外国人選手を倒す成島竜という選手が好きでした。それで町道場に通い、7年くらいやっていました。でも、外国人の選手と試合をした時に、回し蹴りを食らって、上顎の骨が砕けて、結果前歯の半分を失くしました。レントゲンを撮ってみたら、100何十個の顎の骨が中で砕けていて、それらが色々動いて脳の方に行ってしまうと危ないからと、病院で全部摘出したんです。

お父様は心配だったでしょうね。

それよりも、ロッククライミングを熱心にやっていた時期があって、そっちのほうを心配していました。

次はロッククライミングですか!色々やられていますが、青柳さんはハマり症なんですか?

きっかけはいつもミーハーな好奇心なんです。23歳くらいの時に映画「ミッション・インポシブル2」の冒頭でトム・クルーズがロッククライミングをしているシーンを見てかっこいいと思って(笑)。それでロッククライミングの教室に行ってみたら、すごいスレンダーな人たちばかりで、年輩の方でもさっさと登っていくんですよね。この身のこなしはなんだ?と思って、普段どんなトレーニングをしているのか聞いたら何もしないって。でもクライマーってみんな同じ体つきをしてるんです。特にトレーニングをしなくても、自然とその競技に向いた体つきになっていくことは、ロッククライミングをやって知りましたね。

何もせずに、自然にクライマーの体つきになっていったということですか。

彼らがせいぜいやっているのは、家のどこかに木を打ち付けて、それに指をかけて懸垂するのとぶら下がることくらいだと聞いて、早速僕もやってみたら、食事制限もしてないのにどんどん体が細くなっていったんです。おそらく高いところを登っている時は、落ちると死ぬと脳が判断するらしく、体が本能的に順応していくんですね。今はトレーニングしていないですが、体が順応して硯を彫る専用の体になっているんです。

なるほど。今までそれだけ色々なことに挑戦してきて、製硯師を辞めようと思ったことはないですか?

ないですね。

しんどいと思ったことはありますか?

制作中は、肩が痛いなとか、硬いなとか、しばしばあるんですけど、その辛さは当たり前ですね。それよりも硯の使い手と毛筆を持つ人があまりにも少なくなってきている事実が一番辛いですね。

使う人が減少しているという実感は、どういうところで感じるのですか?

色々なところで見ますし、聞きますね。例えば、結婚式に出席する際に、ご祝儀の封筒や芳名帳に名前を書く時、みなさん筆を使うことを敬遠していますよね。でも、硯も筆も毛筆も、日本の文化圏で培われた筆記用具だってことを忘れないで欲しいですし、修練を積んだ人でなくても、誰だって使っていいものです。普段の字でいいから書いてしまえばいいのに、日本人ってちゃんとやらないといけないという考えの人が多いので、筆を持ったら綺麗に書かないといけないってなる。綺麗に書けるのに越したことはないけど、自分の筆記手段としてこんなに優れた文化圏内にいるんだから、書くことを楽しんでいきたいですよね。

ところで、家業を継ぐと決心した時のことを聞かせていただきたいのですが、最初の頃、事業に対する野望などはありましたか?

何も知らない時ほど自分でなんとかしたいって思うものなんです。家を継いだばかりの頃、僕は本質の勉強もままならなかったのに、その頃普及し始めたインターネットを導入してネット上でも販売すべきだとか言っていました。当時は父が社長をしていたので否応無く外からは後継者として見られていましたが、会社内でも大ベテランの先輩営業の人たちがいるなかで、今思えば特別な発言をするような立場ではなかったと思うんですね。でも先輩たちは、「じゃあやってみたらどうだ」って言ってくれて。僕の意見を汲み取ってくださっていたんだなって感じますよね。

結局インターネットを事業に取り入れることになったのですか?

いや、実は、今もインターネット販売はしていないんです。なぜかと言うと、書道用具って、動物の毛、山の木々、川、水、石など全部天然の資源を使ってでできているんで個体差があるんです。実物と写真との違いが必ず出てしまうので、ネット通販に向いてないって僕は考えています。

なるほど。ちなみに青柳さんがそうやってやりたいことを提案した時は、お父様はどういった反応をされたんですか?

父は寛容な人なので、僕がインターネットの話を持ち出した時も、「そうか、そうか」って感じで理解してくれたんですよね。でもある時、「お前、何がそんなに不満なんだ」って言われたことがあったんです。あの一言は凄く自分を見つめ直させてくれた言葉でした。それまでの僕の意見は、会社の状況に対して、よりものが売れるようになるためでも、いいものが作れるようになる技術革新のためでもなく、この仕事の本質を助けるものじゃなかったんだって気づかされましたね。

では、仕事の本質を助けるためには当時の青栁さんには何が必要だったのでしょうか。

あの当時は、自分から何かを発信するのではなく、営業、経理、店頭の番頭の方をはじめ、製造する以外の方、ずっと書道界に所属してきた方、そして書道界だけでなく文房四宝を使った全ての業界に身を置いてきた先輩たちの処世術や呼吸法を学ぶ時期だったんだと思います。ようやくそういうことに気づかされた25、26歳くらいの頃、やっぱり格闘技などをやって体を痣だらけにしていてはいけないなと思い、身を引きました。今思えば、父は僕にやりたいようにさせてくれていたんだなと思います。もし僕の子供がそんなだったら、「そんな風にしていて社会人が務まると思うか」って言いますもんね。

青栁さんにはお子さんがいらっしゃるそうですが、跡を継がせるなど考えることはありますか?

どんな伝統産業にも言えることだと思うんですけど、僕の経験から、仕方なくやっている身内より、やる気のある外の人が受け継ぐのも方法だと思っているんです。自分の子供だからって、一方的に家業に直結させる考えは持たない方がいいと思ってます。

次回へ続く

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「硯の中の地球を歩く」

青栁貴史著書 左右社

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