HIGHFLYERS/#34 Vol.2 | Mar 21, 2019

ナメられてはいけないという気持ちが原動力に。ニューヨークに単身渡米し、人気バーのマネージャーとして数々の試練を経験

Interview & Text: Kaya Takatsuna / Photo: Atsuko Tanaka / Cover Design: Kenzi Gong

バーテンダー、後閑信吾さんインタビュー2回目は、幼い頃のことから23歳でニューヨークに渡り、人気のバー「Angel’s Share」のマネージャーとして活躍するまでを伺いました。後閑さんは、神奈川県川崎市での幼少期と、渋谷や自由が丘が遊び場だった学生時代を過ごしたのち、18歳でバーテンダーとしての第一歩を歩み始めます。そしてバーテンダーとしての十分な知識と技術を手に入れ、2006年にようやくニューヨークに向かった後関さんに待ち受けていたのは、新たな経験と数々の試練でした。バーテンダーになろうとしたきっかけや、初めてバーテンダーとして働き始めた当時のこと、ニューヨーク行きを決意した理由や、渡米前に準備したこと、そしてニューヨークでのバーテンダー生活についてを詳しく伺いました。
PROFILE

The SG Group ファウンダー/バーテンダー 後閑信吾

2001年より地元川崎でバーテンダーとしてのキャリアをスタート。 シェリーや茶道を学び、2006年に渡米。ニューヨークの名門バーAngel's Shareでヘッドバーテンダー兼バーマネージャーとして10年間務める。2012年にバカルディ社が主催する世界最大規模のカクテルコンペティション「Bacardi Legacy Cocktail Competition」に出場し、ニューヨーク、全米で優勝、アメリカ代表として世界大会に出場し、総合優勝を果たす。その後、世界40カ国以上でゲストバーテンダーやセミナー講師として活躍。その中でも120年の歴史を持つイギリスのサヴォイホテルで唯一のゲストバーテンダーとしてカウンターに入った事でも知られている。2014年には自身のバーSpeak Lowを上海にオープンし、オープン直後から国内外数々の賞を受賞し、2016年から3年連続Asia's 50 Best Barsトップ3、2017年World's 50 Best Barsトップ10 に輝く。2017年にはカフェ、レストラン、バーの複合業態Sober Companyをオープン。こちらもオープン直後にAsia's 50 Best Bars 2017年19位, 2018年14位を獲得。自身もTales of the Cocktailにて、現役バーテンダーとして最高の賞「International Bartender of the Year 2017」に輝き、名実共に世界最高のバーテンダーとしての地位を確立させる。スタッフ育成にも力を入れ、世界大会優勝バーテンダー3人、国内大会優勝バーテンダー6人を育て上げ、指導者としての実力も発揮している。その一方で世界的に有名なプロダクトデザイナーTom Dixon氏やアイアンシェフ森本正治氏、有名ファッションブランドやスポーツメーカー等ともコラボ企画を実現し、多くの業界から注目から集めている。現在はニューヨークと東京に拠点を置きながら、バーコンサルティング、カクテルコンペの審査員等をしながら世界中を飛び回っている。 2018年6月、渋谷にThe SG Clubをオープン、さらに同年11月上海にスティーブ・シュナイダーとのコラボレーションThe Odd Coupleをオープン。

創造性豊かな幼少期、渋谷が遊び場だった学生時代を経て、18歳でバーテンダーの道へ。常連客の一言が人生を変えた

神奈川県川崎市出身でいらっしゃいますが、幼い頃はどのような子供でしたか?

どちらかといったらやんちゃで、今考えると結構クリエイティブな子供だったと思います。テレビで観たアニメの続きを勝手に想像して考えるのが好きで、いつも登場人物になりきって、実際のアニメとは全然違う自分だけのストーリーを創作していました。友達といる時は、いつも僕が新しいゲームを作って遊びを考えていた気がします。自分で何かを作って楽しむという点は、子供の頃から変わってないですね。

当時なりたかった職業はありますか?

僕は9歳と6歳離れた姉が2人いる末っ子で、父親が商売をしていたのですが、待望の長男として生まれたので、 当然後継ぎだと思っていました。それ以外のチョイスはあまり頭になかったですね。

中学、高校時代はどのような学生でしたか?

溝の口で育ちましたが、高校は中目黒だったので、放課後は渋谷や自由が丘で遊んでいました。当時はクラブも流行っていましたし仲間と集まってくだらない話をして、バイク乗って、いわゆるやんちゃな10代を過ごしました。

バーテンダーに興味を持ったきっかけはいつですか?

18歳の時のアルバイトです。どうせ同じ時間をかけるならお金のためだけじゃなくてスキルが身についた方が良いと思って、シェフかパティシエかバーテンダーになろうと思いました。まずはパティシエだと思って、ケーキ屋さんの面接に行ったら落ちてしまって。それで次に見つかったのが地元のバーテンダーの仕事でした。

バーテンダーとして最初に働いた時のことを覚えていますか?

最初のお店は本格的なショットバーではなく、居酒屋チェーンのバー業態の大型店だったのですが、凄く楽しかったです。でもある時、ちゃんとしたバーに連れて行ってもらったら、ボトルがたくさん並んでいて、皆オンザロックで飲んでいて、「これがバーなんだ」って大人の雰囲気にびっくりしたんです。それでバーの世界により興味を持って、19歳で別のカジュアルなバーで働き始めました。そしたらたまたま入ってすぐに 店長になったため、それまではほぼ独学でしたが、これを機に一度ちゃんと人に教わろうと考えて、働きながらサントリーのバーテンダースクールに通っていました。

店長をやりながら、本格的にお酒を基礎からきちんと体系的に学んだのですね。

特に若い頃は、ナメられてはいけないという気持ちが常にあって、それが原動力になっていた気がします。クラシックなバーのバーテンダーが店に来た時でも「凄いね」って言われたかったし、近所のバーからも素人だと思われたくなかった。それはステージや規模が変わった今も同じ気持ちです。アメリカやヨーロッパのバーテンダーにナメられないようにするとか、バーテンダーっていう仕事自体をナメられないようにするとか、その頃とあまり変わってないですね。

ニューヨークに行くことになったきっかけは?

22歳の時、常連のお客様でいろんな面白いことを教えてくれる人が、「ニューヨークに行ったら成功すると思うよ」って言ってくれたんです。僕は感覚とフィーリング重視なので「ニューヨークって響きがいいな」って、 あまり深く考えないで決めました。でも行くからには準備をして、とにかく2年で一番になって帰ってこようという目標を立てました。正直何が一番なのかもよくわからないで思っていたんですけどね(笑)。

渡米前の準備はどのようなことをなさったのですか?

何か自分の武器を持って行きたくて、まずは日本人として日本のことを知ろうと茶道を勉強しました。それから、銀座にあるシェリーバーに初めて連れていってもらった時にシェリーに興味を持って、これを身に付けたいと思いました。当時シェリーは、バーテンダーもソムリエもあまり知らない微妙な位置にあるお酒だったんです。だから、シェリーバーで働きながら茶道教室に行けば全部網羅できるなと思っていました。あとはシェイカーやボトルなどを投げたり回したりしてカクテルを作る「フレア」もカッコいいから覚えたいなと思ったんですけど、凄く難しくて途中で辞めちゃいました 。でも見せ方という点では勉強になりましたね。

自分が納得できる準備を完璧にしてからニューヨークに渡ったのですね。

英語は向こうに行ったら喋れるようになるだろうと思って全く勉強しなかったです。その代わり、シェリーにすごくハマったら本物を見たくなっちゃって、外国に住む練習も兼ねて、ニューヨークへ行く前に一人でスペインのへレス・デ・ラ・フロンテーラというシェリーの街に2ヶ月ほど滞在しました。それから日本に戻って一週間もしない2006年5月28日に片道切符でニューヨークへ経ちました。だから、ニューヨーク行った時は英語はゼロだけどスペイン語は少し喋れたんですよ(笑)。

ニューヨークで仕事のあてはあったのですか?

ありませんでした。当時ニューヨークのジャン・ジョルジュで働いていた米澤シェフを紹介してもらって居候させてもらいました。彼は間も無く帰国したので3ヶ月くらいしか一緒にいなかったけど、その間にその後僕が長い間働くことになる「Angel’s Share」という、ニューヨークで一番と言われているバーを紹介してもらったんです。そこで2年で結果を出したらバーテンダーを辞めて日本に帰ろうと思っていました。でもバーテンダーとしてのスキルはそこそこあっても、当時僕は学生ビザだったし、アメリカでの経験もないし英語もゼロ。そんな人間を雇ってくれるわけもなく、最初は別の日本食レストランで働きました。でも、それから半年くらいして英語も少し喋れるようになって、経験も増えてきて、アメリカでの働き方も少しわかってきた頃、よくお店に来ていたAngel’s Shareのマネージャーが「うちに来るか?」って声をかけてくれたんです。

それから念願のバーで働けることになったのですね。

実は、Angel’s Shareでもともと働いていたメンバーは独立したかったんです。それで後釜を探していたタイミングで威勢のいい僕を見つけた。僕にしてみたら23歳でニューヨークの一番有名な店を引き継げるビッグチャンスでした。だから、2006年の12月に入って、2007年の5月からマネージャーとして引き継ぐことになりました。でもそこからは地獄のように大変でしたね。大した英語を喋れるわけでもなく、でも店は有名だからお客さんは来続けるし、前のスタッフと比べられてもやるしかない。接客英語を丸暗記して発音だけは凄く意識して練習しました。だから予測しない質問が来ると何も答えられなかったです(笑)。

バーテンダーの技術があったから、逆にお客さんにとってはミステリアスに見えたかもしれないですね。

とにかくAngel’s Shareを絶対前より良い店にしてやろうという一心で、ひたすら働く毎日でした。半年くらい休みもありませんでしたが、売り上げは引き継いだ月以外は全部上げることができました。僕はミスを許さないし、凄く厳しかったから辞めてしまったスタッフも少なくありませんでしたが、それでもついてきてくれる少数の仲間で頑張っていました。今だに一緒にやってきた仲間とは兄弟のような感じで、今の会社は中国の店舗を合わせるとスタッフが100人、バーテンダーが全部で20人くらいいるんですけど、その中の5人は元Angel’s Shareなんですよ。

少しのミスも許さない厳しさってどこから生まれるんですか?売り上げのためですか?

全部だと思います。バーマネージャーとして店を任された人間としての責任ですね。オーナーにしたら数字が一番だし、そこを落としちゃったら僕の存在の意味がないんでそこをまず落とさないこと。あとはお客さんの評判もちゃんと守ることと、バーテンダーとしてクオリティ高いものを出すことも大切です。店を去ったバーテンダー達よりもいいものを作りたかったし、一緒に働いている仲間からも「こいつについていけば間違いない」っていう仕事をしないといけなかった。

お酒は儲かるっていうイメージがありましたが、やはりビジネスはそれだけではないですね。

ビジネス的な言い方をすると、利益率は悪くはないですけど、そこまで儲かるものではないです。一杯一杯をお客さんの目の前で作る一般的な日本のバーテンディングのスタイルは、相手にできる人数が極端に少ないんですよ。例えばDJをしたら何万人という人を相手にできるし、シェフもレストランならある程度の人数を一度に相手にできますよね。僕のスタイルはある程度の人数にも対応できるのですが、今後はバーのそういうところも変えていければと思っています。

今までの人生で、一番辛かったのはやはりその頃ですか?

やっぱりAngel’s Shareを引き継いだ時ですね。上からも、お客さんからもプレッシャーがあったけど、スタッフはみんなすぐに辞めてっちゃうし。僕は英語もできないし、体力的にも精神的にも辛かったけど、ただ目の前のことに一生懸命でしたね。それでも一緒に続けてくれた仲間がいたことが救いでした。

次回へ続く

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