HIGHFLYERS/#17 Vol.3 | Jun 9, 2016

音大を中退し、浪人生活を経て東京藝大の作曲科へ入学。多くの音楽アルバイトをこなしながら音楽家への道へ

Text: Kaya Takatsuna / Photo: Atsuko Tanaka / Cover Image Design: Kenzi Gong

オーケストレーターのパイオニア、宮野幸子さんのインタビュー第3回目は、幼い頃から音楽家になるまでの宮野さんの歴史に迫ります。絵を描き、ピアノに触れ、そして作曲を志して東京藝術大学に進学するまでの道のりで起こった人生の転機は、いずれも自分より優れた才能に出逢った時でした。藝大に6年間在籍していた時のアルバイト経験や、音源モジュールを使って音楽制作されていた頃のお話も伺っています。
PROFILE

オーケストレーター 宮野幸子

1969年、神奈川県横浜市出身。東京藝術大学音楽学部作曲科卒業。現在、株式会社シャングリラ代表 映画やテレビドラマの音楽のオーケストレーターとして,主に作曲家・梅林茂、蓜島邦明両氏をはじめとした個性的な音楽作品に携わる。最近では「とと姉ちゃん」を始めとした、遠藤浩二氏の作品や、椎名豪氏のゴッドイーターなどのゲーム及びアニメの音楽への参加も多数。 また「高嶋ちさ子&軽部真一プロデュース:めざましクラシックス」や、「Voices~from FINAL FANTASY」、 「久石譲in武道館」などクラシックスタイルのコンサートや在京オーケストラへのアレンジ提供をする傍ら、 嵐「Dear Snow」、松田聖子「Love is all」、手嶌葵「虹」など、アーティストのへの楽曲アレンジや、 「キングダムハーツ・ピアノコレクション」(音楽:下村陽子)、「ピアノで奏でる日本の抒情歌」などの 楽譜も出版されるピアノアレンジなど、様々なシーンにおいて活動の場を広げている。

自分より優れた才能に出逢ったことで誰にも負けない能力を見い出せた

幼い頃はどういう少女でしたか?

運動音痴で、いつもかけっこはビリ。凄くどんくさい子だったんですよ。私が子供の頃は、運動が出来る子がクラスの華みたいな感じがあったので、運動音痴の私は割としいたげられていましたね。球技でも、私を仲間に入れると負けちゃうから、仲間に入れてもらえなくて割と一人で遊んでいることが多かったです。

その頃からもう音楽には触れていたんですか?

ヤマハ教室のグループレッスンには通っていたんですけど、あまり専門的な教育は受けていなくて、オルガンを弾いたり、楽譜を書いたりしていました。

そんな小さな頃から楽譜を書いていたのですね。作曲もしていたのですか?

独学で見よう見まねで曲を書いていました。歌はあまり歌わなかったです。生まれつき絶対音感があったみたいで、聴いた音楽を楽譜にしているだけで楽しかったんです。

音楽にさらに深く興味を持って進んでいこうと思ったのは何かきっかけがあったんですか?

中学生の最初の頃は美術部で絵を描いていたのですが、クラスに私より絵のうまい子がいて、その子には勝てないと思ったので絵はやめようって思いました。ちなみに彼女とは後に藝大で再会することになるんですけどね。音楽もある程度好きだったので、それじゃあ音楽をやろうかなって思っていた中学3年の時に、合唱コンクールで演奏した私のピアノの伴奏に「最優秀ピアノ伴奏者賞」というのを頂いたんです。それまでは普通の高校に行こうと思っていたのですが、それがきっかけで音楽の道でやっていけるかもしれないと思って、そこから音楽科に行くための受験勉強を始めて洗足学園高等学校の音楽科に入りました。

高校は音楽浸けの毎日だったんですか?

はい、音楽浸けの日々でしたね。高校時代はピアノ科だったので、専攻楽器はピアノでした。でも、高校1年の時にピアノでは将来食べていけないと思い知らされる出来事があって。それは洗足で行われた交流演奏会で、桐朋女子高校や東京都立総合芸術高等学校など、レベルの高い音楽高校から精鋭の子達が演奏した時のことでした。その中に今、ピアニストとして大活躍されている田部京子さんがいらっしゃって、彼女は日本音楽コンクールに最年少で優勝したこともあり、同じ高校生とは思えないほど上手でした。彼女の生演奏を聴いた瞬間、「私はないな」と(笑)。絵もない、ピアノもない、じゃあ自分の得意なことは何なんだろうと考えて。元々、音楽を耳で聴き取って楽譜に起こすことが得意だったので、それをもう少し活かしてみようと思ったんです。

絵にしてもピアノにしても、自分より優れた人を見つけると方向転換して、自分が他人よりも優れている能力を発見していくのですね。

そうです。自分がどのあたりのレベルなのかを客観的に見るって凄く大事なことだと思います。私は高校で周りの皆が音楽をやっている中にいたので、割と早く自分の得意なことに気付けたんじゃないですかね。高校3年生の時には、作曲の基礎である和声法と対位法をすでに習い始めていました。

作曲を勉強し始めてどうでしたか?

「これだ!」と思いました。すごく楽しかったんですよね。でも、「これだ!」と思ったのは作曲そのものではなく、音楽学校の必修科目にもなっている聴音(いわゆる耳コピをして譜面に起こすこと)や、初見視奏(初めて見た楽譜をそのまま演奏すること)、音楽理論などの楽譜を書いたり演奏したりすることでした。 譜面を書くのって、こっちがこうならこっちがこうという風に、全体を見渡して考えるパズルみたいな要素があって凄く楽しいと思ったんです。

それでピアノではなく、作曲のほうに進もうと決心なさったのですか?

これらの勉強はピアノの時よりも楽しかったのですが、まだピアノに踏ん切りをつけることが出来なくて、一度は洗足学園音楽大学のピアノ科に進学したんです。ところが、当時の先生から「藝大に入れもしないで、将来音楽の仕事なんかできるわけないだろ」と言われて。当時の藝大作曲科の入試は音大の中ではかなり難関でしたから、そこに入れるくらいの実力がないと確かに生き残れないと。すでに洗足に進学した後だったのですが、中退して、1年浪人して藝大に入学しました。

藝大では作曲を専攻され、6年間在籍されたそうですね。

そうなんです。洗足はそういう形で辞めてしまったため、親からはそれ以後は援助してもらえなかったので、自分でやるしかないと思って色々アルバイトをしながら大学に通っていました。在学中にオペラをやっている学生が集まる団体に参加して、オペラの端役で群衆の役で出たり、稽古ピアノをやったり、楽譜やお金周りを管理したりしていました。そういうことが楽しくて夢中だったし、アルバイトも凄く忙しかったんです。

学生時代に参加したオペラの舞台にて

アルバイトは何をなさったんですか?

浪人時代から2年生までは音楽教室の受付のアルバイトをしたり、銀座でピアノを弾いたりしていました。群馬県太田市に音大の受験生達を対象に教えている音楽教室があって、東京から先生を招聘していたので、3年生からはそこでもアルバイトをしていました。それだけで十分生活が出来たんです。藝大は学費が安いので、卒業出来ないならそのままいようかなと。私のように5、6年在籍する人もわりと多いみたいですね。

卒業後はどうされたのですか?

卒業後はすぐに就職せずに、その音楽教室の仕事を継続しながら、川口少年少女ミュージカル団というところでも指導をしていました。同時にその頃に「デスクトップミュージック」と言うコンピューターを使って音楽を作る、いわゆる打ち込みの仕事も始めました。当時はまだコンピューター自体が高価だったので、コンピューターを使って音楽を作ることが珍しかった頃です。96年頃から2000年頃までは、ヤマハやローランドの音源モジュール(鍵盤などがない音声生成部のみからなるシンセサイザーのこと)という機械を使って、音源データを作る作業を本格的にしていました。疑似音源ではあるのですが、30以上もの多くの音を同時に発音できる機材なので、オーケストラの曲も再現出来るんです。そこで色々研究しながら、打ち込み作業のノウハウを自分で開拓し、商品用の音源データを作っていました。この経験で培ったことは今のオーケストレーターとしての仕事でも役立っています。

海外留学などを考えたことはなかったのですか?

周りは海外に行く人が多かったんですけど、私は日本で仕事をすることが目的だったので、あまり必要性を感じていなかったんです。それに英語も話せないので、そんな勇気もありませんでした。

演奏家の方達はアメリカの音楽の名門校、バークリー音楽大学やジュリアード音楽院を目指す方も多いですが、作曲家やアレンジャーの方々はどうなのですか?

結構いますよ。特にジャズを勉強するためにアメリカに行く方はたくさんいますね。オーケストレーターになるのを目指してアメリカに留学して、そのまま向こうで活躍されている方もいると思います。

次回へ続く

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