HIGHFLYERS/#30 Vol.2 | Jul 19, 2018

父の姿に憧れ5歳で柔道を始め、幼少期の宣言通り、シドニー五輪では金メダルを獲得。自分のスタイルを貫き通した柔道人生に悔いなし

Interview & Text: Kaya Takatsuna / Photo: Atsuko Tanaka / Cover Image Design: Kenzi Gong

PROFILE

柔道家井上康生

1978 年 5 月 15 日生まれ。宮崎県出身。柔道六段。5 歳から柔道を始め、東海大学付属相模高校では全国高校選手権で個人・団体ともに優勝を果たし、3年生時には山下泰裕以来の高校生での全日本選手権出場という快挙を達成する。東海大学へ進学後、99年のバーミンガム世界選手権に初出場して初優勝し、翌 2000 年のシドニーオリンピック100kg 級では見事金メダルを獲得した。その後、全日本選手権と世 界選手権をともに 3 連覇し、04 年のアテネオリンピック100kg 級にも出場。その他にも、全日本選抜体 重別選手権や講道館杯、嘉納治五郎杯などの大会で数々のタイトルを持つ。卒業後は綜合警備保障に所属し活躍を続けるが、08 年の全日本選手権への出場を最後に現役を引退。指導者の道を選び、スコットランドで 2 年間の留学生活を経験。11 年 3 月に綜合警備保障を退職し、4月からは東海大学体育学部武道学科専任講師(現在:准教授)、東海大学柔道部副監督に就任する。12 年 11 月に全日本柔道男子監督に就任し、リオテデジャネイロ・オリンピック大会では日本男子代表の全階級がメダルを獲得するという快挙を達成した 。

山下泰裕の背中を追い求めた学生時代。シドニー五輪で母の遺影と共に表彰台に立つために起きた奇跡のエピソード

幼い頃はどのような子供でしたか?

宮崎県延岡市で生まれ育ちました。男ばかり三人兄弟の末っ子で、甘えん坊でしたね。警察官だった父が柔道をしていたのですが、5歳の頃、その道場に兄弟三人で見学に行ったことがあります。その時、父が内股で相手を投げ飛ばしている姿がとても格好良くて、自分も父のように柔道をやりたいと無邪気に思ったのを憶えています。それをきっかけに25年間に渡る私の選手生活が始まりました。道場に通い始めると、まだ本格的な柔道の厳しさに触れる前に柔道大会の幼稚園の部で優勝してさらに楽しくなって、どんどん柔道にのめり込んでいきました。

では、幼い頃から将来の夢はすでに柔道選手だったのですね。

小学校4年生で県大会で優勝した時、「僕は柔道で生きていく」と父に宣言しました。それからしばらく経って、小学校6年生くらいの頃、宮崎のローカルテレビのニュース番組に取材を受け、レポーターの人から将来の夢を聞かれたことがあります。「オリンピックに出たいです」と最初答えたのですが、よく考えたらオリンピックに出るだけでなく、出場して金メダルを取ることが本当の夢だと思ったんですね。それで、撮影の片付けを終えて帰ろうとしているクルーの方達を父に何とか呼び止めてもらって、もう一度撮影して欲しいとお願いしました。

そこまで具体的に夢を描いていたとは素晴らしいです。きっと撮影隊の方も驚かれたでしょうね。

それぐらい柔道が好きだったし自分を信じていたので、自分の中で「ああ、言葉を間違った」って思ったんです。始めはテレビカメラに緊張していたし、恥ずかしさもあって遠慮していたんでしょうけど、やっぱりそこに納得いかない自分がいたんでしょうね。それで、「自分の目標はオリンピックに出て優勝することです」と言い直させてもらいました。そこに私の現役選手として柔道に取り組む上での原理があったような気がしますね。

幼い頃に運命を変えるような出来事や出会いはありましたか?

やはり、山下泰裕先生との出会いです。当時通っていた宮崎の道場で、子供たちと一本だけ練習してくれるという企画があったんです。1984年のロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲得、全日本選手権9連覇など素晴らしい功績を残し、国民栄誉賞まで受賞されている山下先生は、私にとっては雲の上の存在でした。先生と稽古できたのはわずか1分ほどでしたが、その時足払いされてひっくり返ったことは今も鮮明に憶えています。

小学生時、山下泰裕氏との練習模様

その時から、東海大学へのご縁ができていたのですね。

中学2年生の時、全日本ジュニア九州ブロックの合宿に参加したのですが、そこに山下先生がいらっしゃって直接激励してくださったんです。その時すでに、「これからは山下先生の背中を追い求めていく」と心に決めていた気がします。そして高校は、先生が監督を務めていらっしゃった東海大学付属の相模高校に進学することになりました。

高校時代で思い出に残っていることはありますか?

やはり高校3年生で全日本選手権に初出場を果たしたことですね。惜しくも2回戦で判定負けを喫しましたが、過去に高校3年生で全日本初出場3位になるという前人未到の記録を成し遂げている山下先生に少しだけ近づけた気がしました。この時私が高校生で全日本に出場したことは、山下先生以来21年ぶりの出来事だったこともあり、これをきっかけに世間から注目されるようになりました。

高校、大学時代は、もう一人の師匠である佐藤宣践先生との出会いもありましたが、佐藤先生からはどのような指導を受けたのですか?

佐藤先生は、スパルタのように強制的に教えるのではなく、「これはいい形だから」とか、「こういう技もあります」とかヒントを与えてくださり、そこから個々で工夫して自分のものにしていきなさいという教育方法でした。佐藤先生に出会って、技や勝つことだけを追求するのではなく、自分が柔道家としてどういう人間になるのかという部分ともしっかり向き合うようになりました。大学3年生の時、先生に「将来柔道界を背負っていく者としてどうあるべきかを考えなさい」と言われたことを憶えています。

ということは、すでに選手の頃から別の視点を持って、将来の柔道界を考えていたのですか?

そうですね。それがどこまで現役時代の自分自身に有効的に使えたのかはわからないですけど、柔道以外のいろんな分野のいろんな知識を学びながらそれをオリジナルに変えていって、それをどう現役生活に直結させていくかを考えていました。そうすることによって、柔道の枠組みを超えたところから新しい発想が生まれるんです。トレーニング的なこと、メンタル的なこともそうですし、また、それが現役を退いた後、会社員として仕事をしたり、別の世界で闘ったりするようになった時にも有効に使えるんじゃないかと思っていました。

経営学のようなものにも通じますね。

東海大学での学びは私自身にとって非常に大きいものです。私が学んできた先生方は、革新的な発想を持っている方々が非常に多いんですよ。伝統をしっかり守り、今後の柔道のために必要なものは残しつつも、決して保守的にならず果敢にチャレンジする。そういう発想を持った二人の師匠を持って現役時代を過ごせたことは、かけがえのない私の一生の財産です。それに、私自身も様々なことに好奇心を持って取り組まないと面白くない、という考えが根底にあるのでしょうね。

そして井上さんの柔道人生を語る上で避けては通れないのが、シドニーオリンピックです。5試合全て1本勝ち。決勝では相手の選手に内股で一本を取り、見事金メダルを獲得されました。そしてお母様の遺影を掲げて表彰台に立つ姿も、私自身含め、今も多くの方の記憶に残っていると思います。

実はあの時のことは、ちょっとしたエピソードがあるんです。2000年のシドニー出場は、母がくも膜下出血で急逝した翌年の出来事でした。柔道を始めた時から誰よりも私を応援し、一緒に夢を見て闘ってきてくれた母だったので、「世界一の母を世界中の人に見てもらいたい」という思いがあったんです。だから、兄に母の写真を控室に持ってきてもらうように頼み、金メダルの表彰台に母と一緒に上がろうと思いました。しかし、いざ持って出ようと思ったら、会場の係員に「表彰台には危険物を持ち込んではいけないし、額入り写真はだめだ」と言われてしまって、一旦は諦めかけたんです。

では結局どうやって持ち込めたのですか?

表彰式の時間になったので、諦めて写真を兄に預けて控室を出ようとしたら、係員がいなくなった後に、母くらいの年齢のボランティアの女性が近寄ってきました。それで、「写真、お腹の中に隠していきなさい。私は見なかったことにするから」って言うんですよ。そして、「表彰台に上がったらあとは好きなようにして」とアドバイスしてくれたんです。そのおかげで表彰台のあの光景を皆さんと分かち合うことができました。あの時のボランティアの女性がいなかったら、あのシーンは実現していませんでした。

そんな素敵なエピソードがあったのですね。その後2008年に引退されましたが、25年間の柔道人生を終えた時はどのような心境だったのですか?

「柔道人生に悔いなし」という言葉に尽きますね。漫画「北斗の拳」に登場するラオウという人物が、「我が生涯に一片の悔いなし」と死に際に叫ぶシーンがあるのですが、自分なりの人生を貫き通せたからこそ出てくるこの言葉の重みがずっと好きでした。だから引退会見の際は、この言葉を拝借して自分なりにアレンジし、柔道人生に悔いなしとお話しさせていただきました。

世界の頂点に何度も立って、栄光も挫折も味わった現役時代だと思いますが、そこから井上さんが得たものはなんですか?

自分を信じて貫き通すことと、納得いくまで努力することの大切さです。柔道は「柔(やわら)」の「道(みち)」と書きますが、現役時代は、その「柔」の頂点を究めるために己の心と体を活かして全力でぶつかり、勝利と技の追求を目指してきました。そしてその原点にあるのは「初心」であり、柔道が「好き」というシンプルな気持ちだと思っています。現役時代、「柔」を究めるうえで得たものを、指導者となった今は、その先に続く「道」を究めるために一層努力と精進を重ねなければと思っています。

次回へ続く

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