HIGHFLYERS/#33 Vol.2 | Jan 24, 2019

レッチリのベーシストに衝撃を受け、8歳でベースヒーローになることを決意。独特のファッションが注目されて都市伝説に

Interview & Text: Kaya Takatsuna / Photo: Atsuko Tanaka / Cover Design: Kenzi Gong

KenKenさんインタビュー第2回目は、幼い頃のことから、プロとして活動を始めるまでのことを伺いました。音楽一家の次男として生まれたKenKenさんは8歳の時、レッチリの教則ビデオを見てベーシストに衝撃を受け、その日のうちに、将来はベーシストとして生計を立てていくことを決心します。そして学校へはほどんど行かず、家でベースの練習に励む日々を送ることになりました。15歳でライブ活動を始めると、世間で早く認められたいと、同時に複数のバンドに参加し、ライブを数多く経験することで、とても早いスピードで技術を磨いていきます。どのような子供時代を過ごし、小学校や中学校はどう過ごしていたのか。また、若くしてライブに出演することになった時のコンプレックスに感じていたこと、KenKenさんが目指したベースヒーローの姿とはどういうものなのか、などをたっぷり伺いました。
PROFILE

ベーシスト KenKen

カリスマ的な存在感と抜群のベースプレイ、音楽と向き合う姿勢が様々なアーティストに愛され、多くのミュージシャンからラブコールを受け続け音楽シーンで多岐にわたる活動を行う現代のベースヒーロー。ロックバンド・RIZEやDragon Ash、ムッシュかまやつ&山岸竜之介とのLIFES IS GROOVE、the dayなどのベーシストとして活躍する。8歳のときから本格的にベースを始め、数多くのバンドやサポートを行い、10代で2枚のソロアルバムをリリース。 スターリンからジャニーズまでジャンルや世代をまたぎ30をも超えるバンドに参加し、常に新しい自分を発見するチャレンジスピリットや、手が小さくても演奏できる様にとミニベースをリリース。プレイ動画を合わせた教則アプリなどの開発にも参加し、次世代のミュージシャンへ向けた活動も行なっている。 ゲーマーとしても才能を発揮し、兄 金子ノブアキと共にファミ通で7年もの間にわたりコラム連載を行った。 また、「下北沢南口商店街振興組合渉外事業部アイコンアーティスト」に就任し、地元”下北沢”の地域振興にも積極的に参加している。 他、東京都障害者スポーツ啓発プロジェクトなどを始めとし、CMや映画、アニメ、ゲームなど数々の音楽プロデュースやラジオ生放送番組のナビゲーターをレギュラーで務めるなど演奏家以外の活躍など新しい挑戦を常に続けている。

毎日15時間練習し、複数のバンドで活動。実力を認めてもらうには、一つのバンドの時間軸だけじゃ絶対に追いつかないと思った

幼い頃はどういう環境で生まれ育ちましたか?

うちの両親はロックン・ローラーなんで、なかなか破天荒な家でしたね。ジプシーじゃないけど、年がら年中家族ごと旅するような家でした。でも親がバイトしてる姿とかは見たことないし、音楽だけで育ててもらったっていうのは凄くデカい。素晴らしい背中を見せていただいたのでありがたいと思います。まあでも、自分が音楽を始める理由は両親じゃなかったんですけどね。

ちなみに、旅をしていたというのはご両親が演奏するためだったんですか?

そう、親のツアーについて行って家族でいつも旅してました。だから未だに地方の会場に行くと、ステージは覚えてなくても楽屋のことを凄く覚えていたり、子供の頃来たことあるなとか、ここで遊んだなとか思い出したりすることが多いんです。

お兄様とは仲良しでしたか?

音楽の影響も含めて、兄の存在はデカいです。兄弟でほぼ5歳離れてると、絶対的な恐怖政治が生まれる(笑)。それに、僕は小学生の時は肥満児で凄い太ってたので、コンプレックスの塊みたいな子供だったんですよね。自分が傷つきやすいから、人を傷つけることも凄く意識してしまう子だった。逆に兄は小さい頃からスリムで男前で、子役として芸能界でも活動してて自分とは真逆だったので、小学生の時までは兄への劣等感みたいなものを結構抱えていたかもしれないですね。

先ほど音楽を始めたきっかけはご両親じゃないとおっしゃいましたが、誰か他にいたのですか?

まず最初のきっかけは、僕が通ってた代沢小学校にいた林先生。その先生が趣味で音楽室にベースを置いてたんですね。僕は太っていたからギターとか似合わないし、ベースがいいなって思ってました。すると、ある日の夜、今は亡き、(忌野)清志郎ちゃんやうちのお袋ともバンドをやっていた藤井裕さんっていう素晴らしいベーシストの方が、レッチリのドラマー、チャド・スミスの教則ビデオをあっくん(金子ノブアキ、KenKenの兄)に貸してくれたんです。そこで、そのビデオに出てるベースのフリーがプレイしてるのを見て、「なんてかっこいい楽器なんだ!こんなことができるのか!」と体に電流が走ったような感覚があって。未だに覚えてます、その日の夜のことは。

将来を決定づけた衝撃の一夜ですね。

今思えば、そこがもう完璧にターニングポイントだったと思います。その夜、「他にもこういうバンドはいるのか」って兄貴に教えてもらいながら90年代のLAの音楽に一気に触れました。それがきっかけで「ベースヒーローになろう。ベースで絶対ご飯食べてやる!」と思い始めたんです。と同時に、そこから急に学校に興味がなくなってほとんど行かなくなりました。

学校に行かなくても、ご両親からは何も言われなかったのですか?

いや、凄く言われましたよ。母はなかなかコンサバティブなところがあるので。今ならわかるんですけど、当時は行く理由が見当たらなかったんです。でも、学校に行かないと言っても暗い子ではなかったし、友達は普通にいっぱいいたんで、週一くらいで行ってましたね。給食だけ食って帰るみたいな感じで(笑)。ただ、とにかくベースをずっと弾いてたかった。お家でベース弾いて、飽きたらゲームやって、またベース弾いてゲームやってというのを繰り返すみたいな生活でした。その両方とも仕事になったんで良かったですけど(笑)。

確かに。ところで、KenKenさんのスタイルはとても独特ですけど、定着したのはいつ頃なんですか?

中学生になって身長が伸びるにつれてやっと体重が落ちまして、だんだんスリムになっていきました。まさか自分が痩せるとは思ってなかったですけど(笑)。それから今みたいなキャラになっていって、気づけば中1くらいからずっとロン毛ですね。ただ単に美容院に行くのが面倒臭かっただけかもしれないけど、中2の頃は既にかなり長かったですね。

中学校の時、KenKenさんのファッションが注目されて、「着物を羽織ったロン毛の男を見かけると幸せになる」というシモキタ都市伝説になったというのは本当ですか?

そう、僕、昔都市伝説だったんですよ。っていう言い方も変ですけど(笑)。ある日、兄がご飯を食べてる時に友達から、「あっくん、下北で下駄履いて、着物のロン毛のやつを見ると幸せになるらしいけど見たことある?」って聞かれて、「それ多分俺の弟だわ」みたいな話になったらしく、兄貴から電話あって、「お前都市伝説になってるぞ」って(笑)。その後、音楽番組「HEY! HEY! HEY!」に出演した時にその話を持ち出されてさらに広まっちゃったんで、結局本当に都市伝説化して。そうしたら、道歩いてると人に拝まれるようになっちゃったんで、ちょっと面倒くさいから着物はその辺りからやめました(笑)。

着物を着ていた18歳の頃

これからも語り継がれる都市伝説であって欲しいです(笑)。ちなみに、ベースは独学ですか?

そうです、全部独学です。譜面とかも未だに読めない。昔から全部耳コピして、1日15時間とかただひたすら弾いて、眠くなったら寝るっていう生活をしてましたね。当時、周りに同年代でやってるやつは一人もいなかったし、孤独でした。だから兄貴が、JESSE(RIZEのボーカル)とか幼なじみとバンドやってるのが凄く羨ましかったです。

ライブ活動を始めたのはいつ頃ですか?

14〜15歳くらい。ライブハウスとかに出るようになってから、仲間もできました。今思えばまだYouTubeとかSNSもない時代なので、ステージに立つこと以外にベーシストとしての表現方法がなかったんですね。そうすると、太っていたことの次にコンプレックスになったのは、歳が若いこと。年齢だけで判断されることは多々ありましたし、ライブハウスって今みたいに平和な空気じゃなくてもっとピリッとしてたから。だから俺はゴリゴリの現場のたたき上げなんです。だけど、「いい演奏するから一緒にやろうよ」って年齢に関係なく言ってくれる大人もいたんで、彼らのおかげで僕は今こうやって続けていられるんです。

ライブ活動をするようになってから、一つのバンドだけではなく、色んなバンドに参加する形で活動していらっしゃいましたね。

認められたくてしょうがなかったから、一個でも多くのバンドに参加して、一日でも多くステージに立つことを目標としてました。一個のバンドの時間軸だけじゃ絶対に追いつかないし他を抜けないと思った。本当は自分のバンド一個でやりたかったところもあるんですけど、周りからは親のことを言われたり、兄はRIZEでデビューしていたので、自分が努力しても結局はあそこの家系だからできるんだろうって言われるんですよね。でも楽器って練習しないと絶対上手くならないんで、当然悔しい気持ちはありました。だから親とか兄のことを敵視したこともあったし、どうやってそこを見られないようにするかを考えていた時期もありましたね。

そこからどう抜け出したんですか?

16歳くらいの時に、「自分がイケてたらいいじゃん」みたいに思えるようになったら悩むことがなくなって、その状況を楽しめるようになったんですよ。やっぱり周りに評価され始めてからじゃないですかね。

私の周りの人にKenKenさんのことを聞くと、皆、凄く器の大きなホワッとした温かい人だって言うんです。でも昔のお話を聞くと、かなりのハングリー精神がなかったら乗り越えられないことがたくさんあったんですね。

だから、昔はもうちょっとピリピリしてましたよ。でも不良ではなかったし、ワルそうだからロックやるとか、モテそうだから音楽やるとかじゃなくて、そこには確実にカッコいい、憧れてた空気があったんです。

KenKenさんの“憧れてた空気”っていうのはどういうものなんですか?

う〜ん、やっぱり“ベースヒーローにどうしたらなれるか”って思わせるようなところですかね。「311」とか「フィッシュボーン(Fishbone)」、「プライマス(Primus)」は、一瞬聴いただけで誰が弾いてるのかすぐわかるし、バンドに個性があるんです。僕が中学生の時に衝撃を受けたLAのベースヒーローはみんなちょー上手かったし、上手くないとできないサウンドだった。でも、日本にはそういうベーシストがいなかったんですよね。“ベースヒーロー”っていう言葉自体、俺とベース専門誌の「ベース・マガジン」が言い出すまで誰も使ってなかったし。

独学でベースの技術をつけながら、ベースヒーローとは何かを見つけようとしたんですね。

そうですね、当時はこんなにベーシストがフィーチャーされる時代ではなかったので、まずはベースシーンをもっと切り拓いていかなかったら、自分の目指しているものにはなれないという状況だったんです。じゃんけんで負けたからベースをやるみたいな感じだったから。まずはベースがどこまでメインになれるかっていうのを作っていくことがデカかったですね。

取材協力
PLUSTOKYO
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Funk on Da Table - Japan Tour 2019
2/4(月) 大阪 梅田クラブクアトロ
2/5(火) 京都 磔磔
2/6(水) 名古屋 ReNY limited
2/7(木) 東京 恵比寿リキッドルーム
https://www.funkondatable.com/

次回へ続く

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