HIGHFLYERS/#39 Vol.2 | Jan 23, 2020

バスケ青年がロボット研究・開発の道へ。癌で足を切断する同級生の足代わりになるロボット義足を開発したいと、アメリカへ留学

Interview, Text & Photo: Atsuko Tanaka / Cover Design: Kenzi Gong

株式会社Xiborg(サイボーグ)の代表取締役で、義足エンジニアの遠藤謙さんの2回目のインタビューは、幼い頃のことから学生時代のことを伺いました。小さい頃は虫やものづくりが好きで、バスケットボールに夢中になった中高時代を経て、大学の時にロボットに興味を持ちます。在学中、同級生が癌で足を切断することになったのをきっかけに、彼の足代わりになるようなロボット義足を開発したいと、アメリカに留学することを決意。博士号を取得した後、日本に帰国し、ソニーコンピューターサイエンス研究所の研究員として働くことになった遠藤さん。子供の頃や学生時代の思い出、ロボットに興味を持ったきっかけや、留学時代に学んだことなどをお聞きしました。
PROFILE

義足エンジニア 遠藤謙

應義塾大学修士課程修了後、渡米。マサチューセッツ工科大学メディアラボバイオメカトロニクスグループにて博士取得。現在、ソニーコンピュータサイエンス研究所研究員。ロボット技術を用いた身体能力の拡張に関する研究や途上国向けの義肢開発に携わる。2014年には、競技用義足開発をはじめ、すべての人に動く喜びを与えるための事業として株式会社Xiborgを起業し、代表取締役に就任。2012年、MITが出版する科学雑誌Technology Reviewが選ぶ35才以下のイノベータ35人(TR35)に選出された。また、2014年にはダボス会議ヤンググローバルリーダーズに選出。

MIT在学時に、日本では経験できない衝撃的なことを多く経験。異人種の多種多様な考えに触れ、お互いを尊敬しながら共存していくことを学んだ

ご出身は静岡県沼津市だそうですが、幼い頃はどのような子供でしたか?

いたって普通だったと思います。虫を捕ったり、ミニ四駆を作ったり、ドラゴンクエストとかのファミコンをしてました。

6歳の頃

小さい頃になりたかったものは?

幼稚園の時には消防士で、小学生の時は虫博士だったみたいです。虫は今でも好きです。

ご両親にはどのように育てられましたか?

放任されていたと思います。勉強をやりなさいとかは人並みには言われていたと思いますけど、僕は成績が良かったので、成績がいいから勉強しなくてもいいだろうって言い負かしてました。

オールマイティーに全部できてたんですか?

そうですね。でも僕が住んでいたのは田舎なんで、塾に行かなくても、授業を受けていれば普通に満点が取れるような感じでした。

中学、高校はどんな学生時代を過ごしましたか?

中学でバスケット部に入って、勉強は特にしなかったけど成績は変わらず良かったです。要領が良かったんだと思います。あとは兄の影響でギターを弾いて、バンドをやっていた時期もありました。高校ではバスケットばっかりやっていました。

その後、慶應義塾大学理工学部機械工学科へ進学されました。なぜ、そこを選んだんですか?また、それまでバスケに夢中だった青年がどうしてロボット開発に興味を持つようになったのですか?

大学は、兄が慶應に行ってたからです。父親も同じく慶應出身で、憧れがあったんですね。ロボットに興味を持ったのは、当時ホンダのASIMOが流行って、“二足歩行できるロボットってすごい”みたいな感じがあったと思うんですけど、僕もそれに影響されて。昔からプラモデルとかものづくりが好きだったこともあって、そこに繋がったんですかね。

大学生の時

そして「ERATO北野共生システムプロジェクト」に参加されて、ヒューマノイドロボット「PINO」の開発に携わったそうですが、ERATOには自身で決めて参加されたのですか?

大学にはロボットがなかったので、バイト先でロボットを研究している所を探していたら、その研究所が面白いと言われて。それで、そこでバイトしながら大学の研究をやって、その研究が大学の修士研究になりました。

ロボット開発に携わったのはその時が初めてですよね?どうでしたか?

楽しかったです。やっぱり大学の勉強と実際にものを作るのは違うので、そこで電子回路工作や機械設計など、ものづくりの基礎を学びました。作ったものって、やはり手を抜いたところは後々本番で壊れるんですよ。なので、半田ごては手を抜かないでしっかりやるとか、ケーブルもちゃんと作らないと断線するので、そういった基本的なことが大事なんだと学びました。

その後は、どうされたのですか?

2003年に千葉工業大学の未来ロボット技術研究センターに移籍して、そのセンターの研究員として2年間働きました。そこではいろんなロボットのプロジェクトに携わって、ものづくり自体もそうですけど、メディアでの取り上げられ方や、それがどう世の中に広がっていくのかなどを知りました。

その後、義足開発に取り組むことになりますが、きっかけは?

まさにその大学にいた時なんですが、高校のバスケット部の後輩が骨肉腫で足を切断することになり、ロボットと彼の足になるようなものが研究できないかと思ったんです。それで、研究できる場所を探していた時に、2004年の秋に仙台で行われた学会で、MIT(マサチューセッツ工科大学)のヒュー・ハー教授のポスドク(博士研究員)が発表をしていて、ロボット義足を作っている人たちがいることを知り、そこに行きたいと思いました。

それで留学をすることになったんですね。

その頃僕は博士課程の学生で、卒業してから彼らと同じようなことをやりたいんだけれど、ポスドクとしてその研究所に行けないかと聞いたら、卒業を待ってからだと行けるのが2、3年後になってしまうから、今すぐ受験すればいいんじゃないかと言われ、留学するオプションがあることに気づいたんです。そしてヒュー教授に連絡してみたら、大学に受かったら連絡をくれと言われて、まずは試験を受けて、受かってから連絡しました。

実際に行ってみて、向こうでの生活はどうでしたか?

日本では経験できないようなことが日常的に起こるのが衝撃的でした。例えば、日本人の先生がある時、日本人が中国人を支配している写真をMITのウエブサイトのトップページにアップして、中国人コミュニティからすごい批判の声が上がり、大きな教室に生徒を集めて対談させたり、また、スプツニ子さんがメディアラボの先生になるとなった時には、校内のLGBTコミュニテイの人たちからめちゃくちゃ反感の声が上がったり。他にも、テロの影響でイスラム系の人は外見だけで判断されていじめにあったり、障害者の人が普通に学校に通っていたり、アフリカの人が卒業式で名前を呼ばれたら、後ろからものすごい声援が上がったりとか、いろんな国の違う考え方を持った人たちがたくさんいるんだと実感しました。そして、大学という一つのスペースを共有して、全く異なる考えを持っている人たちがお互いをリスペクトしながら共存していくのが当たり前なんだと学びました。

そして、無事博士号を取得され、帰国されたんですよね。その後はどうされたんですか?

以前所属していたERATOのプロジェクトリーダーが、ソニーコンピューターサイエンス研究所の所長でもあり、僕が卒業するタイミングで声をかけてくれて、そこの研究員として働くことになりました。そこでは、ロボット義足を使って歩行がどのように変化するかを考えたり、競技用義足のバイオメカニズムに対する研究などをしました。

次回へ続く

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