HIGHFLYERS/#24 Vol.2 | Jul 20, 2017

30歳までにフィレンツェに店を開くと決めて有言実行。イタリアで一番高い靴の値段をつけてスタートした「イル・ミーチョ」

Text: Kaya Takatsuna / Photo: Atsuko Tanaka / Cover Image Design: Kenzi Gong

イタリア・フィレンツェを拠点に海外で高い評価を得る靴職人、深谷秀隆さんインタビュー2回目は幼い頃のことと、名古屋での専門学校時代を経て、洋服デザイナーになった頃のこと。そして突然イタリアに渡って靴職人になるために修行を開始して、渡伊後、2年でご自身のブランド「il micio」をスタートし、フィレンツェに店舗をオープンするまでの体験談を伺いました。日本で学生時にコンテスト優勝経験を持ち、洋服デザイナーとして華々しいキャリアをスタートさせた矢先に、言葉もわからず人脈もゼロのフィレンツェに渡り、駆け込みで工房に通い始めた深谷さんの行動力と、30歳でお店を開くというビジョンを実現させた強い決意の真相に迫りました。
PROFILE

靴デザイナー 深谷秀隆

幼い頃からもの作りが大好きで、デザイン学校在学中より靴づくりに興味を抱き、名古屋の靴職人のもとで修行する。卒業後ファッションデザイナーとして活躍したものの、『誰にもまねできない、自分にしかできないもの作りがしたい』と考え、ビスポークの靴職人になることを決意、単身イタリアに渡る。シエナの靴職人のもとで修行を積み、卓越したセンスと探究心の強さで腕を上げた。 99年『イル・ミーチョ』を立ち上げ、自らの靴づくりをスタートさせた。やがてその才能をフィレンツェの老舗ショップ『タイ・ユア・タイ』のオーナーであるフランコ・ミヌッチ氏に認められ、その助力を得て日本人として初めて海外にビスポークのショップをオープンさせる。また同ショップのシューズデザイナーやその他の有名セレクトショップのシューズデザインも手がけ、そのデザインセンス・才能には高い評価を得ている。 修業時代から現在まで常に彼の頭を占めてきたのは『世界一美しい靴を作ること』である。『世界一美しい靴』とはデザイン・バランス・それを支える確かな技術、そして何よりもそれを履く人に大きな喜びをもたらす靴である。

名古屋モード学園を首席で卒業し、DCブランドデザイナーへ。一年後に辞め靴職人を目指して突如イタリアへ

幼い頃はどのような子供でしたか?

自由でしたね。 愛知県東海市で生まれ育ちました。親父は日曜大工が好きだったので、休日は親父と一緒に木を切って椅子を作ったり、絵を描いたりしてものづくりをしていました。母親は家でずっと縫い子の仕事をしていましたね。両親は厳しかったですけど、三人兄弟の一番下なんで勝手なことばかりやってました。

デザイナーになろうと思ったきっかけは?

一般的なスーツと白シャツにネクタイして、満員電車で出勤する仕事は僕の中では絶対にあり得なかったし、特に勉強も好きじゃないから大学に行く気もなかった。じゃあ専門学校に行って洋服作ろうって思って、名古屋のモード学園に行ったんです。

当時80年代から90年代にかけてはDCブランド全盛期ですよね?

「コム・デ・ギャルソン」の川久保玲さんを筆頭に、「ヨウジ・ヤマモト」の山本耀司さんなど、あの頃はデザインというか発想力が全ての時代でした。僕は個人的にクリストファー・ネメスの造形が好きだったんですけど、やっぱり川久保さんは別格でしたね。

最初は靴職人ではなく、ファッションデザイナーになろうという感じだったのですね。

はい。とにかくその頃は、テクニックではなくアイデア勝負の時代だったんです。ただ、アイデアは真似されやすいので、誰にもできないことをやろうっていう気持ちで2年生くらいから靴づくりを始めました。当時、靴を作っていたのはミハラヤスヒロさんくらいで、他に誰も作っていなかったんです。もちろん靴が好きな気持ちもありましたけど、「靴を極めることができたら、これで将来食っていけるな」っていうある種の独占欲の方が強かった気がします。

専門学校は洋服を作って首席で卒業されたそうですが、靴を作りたいと思いながらも結局洋服をしばらく作り続けたのですか?

靴職人になりたい気持ちはありましたけど、せっかく4年という時間とお金を費やして洋服を覚えたのにもったいないと思ったのと、当時人気だったブランド「KENSHO ABE」からヘッドハンティングされたので、とりあえず一年そこでファッション業界の流れを徹底的に習得しようと思ったんです。

それでKENSHO ABEに入社したのですね。

入社していきなり「KENSHO ACTIVE」っていうスポーツブランドを任されて、とても大変でした。すごく有名なブランドだったから、40、50人でやってるのかと思ったら、クリエイターはデザイナー3人にパタンナー2人の合わせて5人のみ。こんなに少ないの?ってびっくりしました(笑)。何もわからない状態から、素材を探しに行ったりいろんな加工をやったり、その間にメインのコレクションブランド商品の製作をしたり。デザインを描く時間なんてほとんどなかったですね。東京コレクションまで一年間やりました。

そこまでやり遂げたのに、一年で辞めたのはなぜですか?

最初から一年で辞めると決めていたからです。そして、辞めてすぐにイタリアに飛びました。「フィレンツェ、職人通り」みたいな本を見て、「フィレンツェに行けば職人たちがいるな、よし、じゃあここに行こう」みたいなノリで(笑)。実際に行かないとわからないから、とりあえず行ったんです。97年の23歳のことです。

おひとりで?イタリア語は話せたのですか?

イタリア語も喋れなかったし、知り合いもいなかったですけど、行けばなんとかなるもんです。まず、ビザのために語学学校に入りましたが、結局学校へは行きませんでした。木材屋に行って木片をもらって、日本から持ってきた道具で木型を作ってましたね。とりあえず作ったものをいろんな工房に持っていき、「ここまでできるから仕事ちょうだい」って現物を見せるんです。数え切れないほどの工房を回って、全部断られましたけどね。というか、言葉がわからないんで、いいと言われてるのか悪いと言われてるのかもわからないけど、表情から「NO」と言われてるんだろうなと(笑)

最終的に業界に入れたとっかかりみたいなのはなんだったのですか?

結局フィレンツェでは働ける場所が見つからなかったのですが、知り合いが隣街のシエナに住むある職人の住所をくれたので、とりあえず行ってみたら、そこにあったロシアンカーフの皮を使って作った靴を見て衝撃を受けて、絶対この人に弟子入りしたいと思ってしつこく通いました。2、3回断られましたけど、最後は「俺、明日シエナに引っ越してくるからよろしくね」みたいに半分強引に押しかけて(笑)。それが今の師匠です。

師匠のアレッサンドロ ステッラさん。左:il micioの店舗オープン時。右:数年前に自転車のレースに参加した時

すごい行動力ですね。それで、そこで働き始めたんですか?

働き始めたというより、ただそこにいることを許可された感じですね。親方一人でやってるようなとても小さな工房でした。僕は絵が描けたので、そのうち絵型を描くことを任され、そこから徐々に型紙の仕込み、そして修理の仕事に携われるようになっていきました。親方から教えてくれることはあまりなかったんで、自分で盗むしかなかったです。

背中から学ぶということですか?

かっこ良く言うとそうですね(笑)。その後も、ひたすらいろんな所に修行に行きましたよ。キャンティ地方の山中でブーツばかり作っているおじいちゃんの所に行ったり、サンダルばかり作っている人の所に行ったりとか。

そういうものを作っている人たちがいるんですね。

多くはないですけど、その時代はまだいました。山で履くブーツには山に必要な機能やテクニックを兼ね備えた靴、例えば水が入ってこないように防水性に優れた腐らないようなものになっていたり、滑らないように裏から思いっきり釘を打ってあったりと、その地域や環境に合ったものづくりをしているんです。とても勉強になりましたね。

ちなみに、前述されたロシアンカーフという革は深谷さんの靴にも使われているそうですが、かなり希少価値の高いものだそうですね。

そうです。ロシアンカーフは、帝政ロシア時代のなめしの技術を使った革で、1786年にイギリス近郊で沈没した船の中で200年ほど眠っていたものです。その親方はもともとロンドンで修行を積まれた方で、ロシアンカーフの引き揚げチームと仲が良かったんですよ。僕も将来独立した時に、絶対にロシアンカーフを使って靴を作りたいと思っていたので、親方に紹介してもらって、高額でしたが無理して入手しました。

ロシアンカーフを使って作った靴

振り返ってあの時の決断がなかったら今の自分はいなかったと思う出来事を挙げるならいつですか?

2005年に自分の店を開けた時です。シエナはフィレンツェ以上に閉鎖的で2年もいられなかったので、99年に自分のブランド「イル・ミーチョ」を立ち上げてすぐにフィレンツェに戻りました。日本ではすでにメディアに取り上げていただいたり、代理店があったりしたので、ブランドが知られるようにはなっていたのですが、とにかく30歳になるまでに絶対に自分の店をフィレンツェにオープンするという目標があったんです。

お店の場所はフィレンツェの中心地にあるそうですね。

もともと車庫だったところですが、立地条件が良い所が見つかりました。内装は全部自分たちでやるからって車庫の値段で貸してもらいましたが、すごくお金がかかりましたね。

一度決めたら後戻りはしない性格なんですね。

う〜ん、そうですね。というか、海外に店を作っちゃったら、できないですよね(笑)。

お店をオープンするにあたって、大変なことなどありましたか?

一番困ったのは、労働するための滞在許可書がなかなか下りなかったことです。契約などの法律に関わることや会計上のことなども、普段使っている言葉と全然違うので苦労しましたね。フィレンツェにはそういうことを専門にしている日本人弁護士も会計士もいなかったので、嫁さんに助けてもらいながらなんとか開店することができました。

フィレンツェの中心地にあるil micioの店舗。写真右下は店の奥にある作業場スペース。木型がずらりと並ぶ

奥様からの支えもあって、乗り越えられたんですね。

そうですね。嫁さんとはシエナで知り合ったんですけど、彼女は日本にいた時は公務員として真面目に働いていた人だから、僕みたいな人間はそれまで周りにいなかっただろうし、大変だったと思いますよ。

やっとの思いで開店して、周りの評判はどうでしたか?

最初の頃はいろいろありましたよ。だって現地のイタリア人から見たら、日本人がヨーロピアンのものづくりをやってフィレンツェにお店を開けるなんて、すごい生意気じゃないですか。靴は一足3000ユーロ(当時のレートで約48万円)と、イタリアで一番高い値段つけましたしね。

値付けは難しいと思いますが、デザイナーズブランドでの経験があったから、そのような高値段でもパッとつけられたんですか?

いや、イギリスのトップに合わせたんですよ。あそこがこれだから俺もこれ、みたいな(笑)。それに一度つけた価格を後から上げていくのって大変じゃないですか。だったら周りになんと言われようが最初からドカンとやりたかったんです。

ついつい弱気になって妥協とかしがちですけど、深谷さんはそうはならないんですね。

それで食べることができなかったら、他のことをするなど何としてでもお金を作れば、何とか生きていけるじゃないですか。

めげそうになって辞めようと思ったことはないですか?

ないですね。

次回へ続く

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【展覧会情報】
La scultura scarpe con artisti di toyama 「靴の彫刻」-伝統工芸の町の仲間と-
会期:7月4日~7月30日
会場:EYE OF GYRE (東京都渋谷区神宮前5-10-1 GYRE 3F)
http://gyre-omotesando.com/
時間:11:00~20:00

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