“チャンスの時”には腹をくくる
入社された(株)ライトパブリシティの先輩には、写真家の篠山紀信さんやイラストレーターの和田誠さんなど錚々たるメンバーがいらっしゃいます。
篠山紀信さんには、いつも人生の節目に助言を頂いてきました。ライトパブリシティで刺激的な毎日を送っていたある時、社内に思いがけないグッドニュースが舞い込んできたんです。高名な写真家リチャード・アベドンが、雑誌『ヴォーグ』の撮影で来日し、日本滞在中のアシスタントを探していると。僕がアメリカに行きたがっているのを知っていた篠山さんは、「何としてもこのチャンスを掴め!」と、強く背中を押してくれたんです。
まさに“チャンスの時”。ファーストステップとして具体的にどんな行動を起こしたのでしょう?
難関は英語での面接。実は、その前から英会話の練習は密かにしていたんです。といっても語学学校に通うお金も時間も無い。そこで、会社の近くにある帝国ホテルへ昼休みに出向き、ロビーにいる外国人と会話をするようにしたの。「僕はアメリカに行くために英語の勉強をしています。よろしければ僕と少しだけお話をして下さいませんか?」と英語で書いた紙を渡してね。皆さん珍しがってか、快く会話の相手をしてくれた。無料の英会話レッスン(笑)のかいもあってか、面接も何とかクリア。アベドンに付いて、日本全国の撮影に参加することができたんです。あの日々は、僕にとって心の宝物ですね。アベドンが帰国する日、「あなたのもとで働かせてほしい。全身全霊を捧げる」と願い出て見送りました。半年近く何の音沙汰もなく、彼の弟子になりたい人は世界中に沢山いるだろうし、と思いかけていた矢先、「すぐ来るように」とアベドン直筆の手紙が届いたんです。それはもう、飛び上がるぐらい嬉しかった。でも、渡米する資金など無い。そんな僕に手を差し伸べてくれたのは、大学時代からずっと僕のアメリカ行きを応援してくれて、就職先の紹介もして下さったバイト先の社長さんです。NYまでのワンウェイチケットと200ドルを貸して下さった。出会いとは、イコール恩義ということですが、この恩義は生涯忘れられない。1966年、僕は25歳でした。
自ら環境とライフスタイルを変えたのですね。
僕はね、渡米するまでの若かりし頃の自分の写真を一枚も持ってないの。なぜかというと、渡米するにあたって、過去の自分はもういない、これからは新しい自分なんだと決意して、全て処分したから。やってやるんだと腹をくくったんです。人生には、腹をくくらないといけない時があるんですよ。だからこそ忘れもしない。アメリカまでの航路で見た空の青さを。「日本という組織社会から飛び出したんだ、自由になれたんだ」と、涙が出るくらい嬉しかった。その先にどんな過酷な修行が待っていたとしても、そんなの全く苦にならなかったんです。
希望に満ちた新生活はどんな日々だったのでしょう?
NYのマンハッタンにあるアベドンのスタジオでの初日。僕は気合を入れて、なけなしのお金で揃えた、当時日本で流行っていたアイビールックでビシっと決めて乗り込んだ。黒く細いタイに黒の革靴、少し短めの細めの黒のスーツでね。ところが、現地のスタッフたちはというと、ヒッピーカルチャー的な自由なファッションなんだよ。「君はこの後お葬式に行くのか?」なんて訊かれて、その日のうちにバワリーストリートというホームレスの人たちが多く住むエリアで安い古着を買って着替えましたよ(笑)。スタジオで用意される昼食は何がいい?と聞かれ、「ハンバーガー」と最初に答えたものだから、来る日も来る日もソレ。一生分のハンバーガーをあの時食べ尽くしたね(笑)。スパニッシュハーレムの狭い部屋に住んでね。あるのはネコ脚のバスタブとベッドだけ。隣人の中国人やアメリカ人の若者が、自分たちの少ない食べ物を差し入れてくれたことを今でもよく思い出す。僕も彼らも貧しくて本当にギリギリの生活だったけど、人の優しさに触れて気持ちはいつもハッピーでした。
坂田さんの心の眼に映ったアベドン像とは?
観察眼の人。物事を実に鋭く見て、現実をシリアスに深く考える人。でも、日常的にはすごく陽気で軽快なんだよね。よくスタジオで口笛吹いていて、実にチャーミングな人でした。スタジオにはアンディ・ウォーホールやトルーマン・カポーティーだったり、すごい人たちが出入りしていた。そういう場にいると、なんかこう、世界の動きが実感として感じられるんだよね。こんな大人になりたいと思うし、自分も時代の一瞬をキャッチしなくては、と五感のアンテナを立てられる。“身をおく環境”、“場の力”というのは、非常に大きいのです。