HIGHFLYERS/#54 Vol.2 | Jul 21, 2022

国宝・正宗の刀に出会って魅せられた刀の世界。刀鍛冶になろうと会社を辞め、宮入小左衛門行平のもとで厳しい修行を積む

Text: Atsuko Tanaka / Photo: Atsuko Tanaka & Shusei Sato / Web: Natsuyo Takahashi

刀鍛冶の川崎晶平さんのインタビュー第2章は幼少期から学生時代、刀鍛冶を目指し修行してから独立した頃のことをお聞きしました。大学の頃にふと興味を持った刀の世界、卒業後は一度就職するも刀鍛冶になろうと会社を辞めます。その後、宮入小左衛門行平のもとで厳しい修行を積んで、文化庁から作刀承認証を得て自身の刀を造るように。持ち前のセンスと努力の甲斐あって、様々な賞を受賞され、時を経て刀鍛冶として独立することができました。決して万事順調ではなかった道のり、川崎さんが経験されてきたこと、感じたことなどをお話しいただきました。
PROFILE

刀鍛冶 川崎晶平

大分県出身。明治大学政治経済学部卒業後、一般職を経て94年に宮入小左衛門行平に入門。 2003年に埼玉県美里町に晶平鍛刀道場を開設、独立。文化庁長官賞を受賞。以後、経済産業大臣賞(3回)、文部科学大臣賞など特賞多数受賞を受け、現在は公益財団法人日本刀文化振興協会「日本刀名匠/作刀」、全日本刀匠会 特待者。相州伝を目指す刀鍛冶の中で最も高い境地に至っている1人と評されている。靖国神社御創立150年に際して記念短刀を奉納。2020年に双葉社よりエッセイ「テノウチ、ムネノウチ 刀鍛冶として生きること」を出版した。

お手本がいない刀の世界で、手探りで見出した独立の方法。持ち前のセンスと惜しまぬ努力で、大きな賞を続々と獲得

小さい頃はどんな子供でしたか?

昆虫が好きでした。特にカブトムシとかトンボとか強い虫が好きで、カブトムシは孵化させて育てて、また卵を産ませるというのを毎年やってましたね。あとは野球をしたり、本を読むことと写真が好きでした。学校に行く道中にカメラ屋さんがあって、そこでカメラをいじらせてもらったり現像の仕方も教えてもらっていました。

赤ん坊の頃、母と

ご両親はどんな方で、どんな育てられ方をしましたか?

両親は臼杵という城下町の人で旧い武家の人でしたから躾には厳しかったです。と言っても、約束を守れ、嘘をつくな、という当たり前のことでしたが。ただひとつ子供の頃「お金の話をするのは卑しいこと」と教えられてきたので、作家であり、同時に経営者でなくてはならないこの仕事で生きていく上で、頭を切り替えていくのに苦労をしました。良い作品を作り続け、生きていくにはお金の感覚、勉強はとても重要なことです。その当たり前のことを当たり前にできるようになるのに時間がかかりました。

中学、高校時代は、どんな学生生活を送っていましたか?夢中になったことや将来の夢はありましたか?

ごく普通だったと思います。高校時代は新聞部で、写真を撮ったり文章を書くことが好きでした。なので漠然とカメラマンになりたいと思っていたかな。その新聞部が優秀で賞を取ったりしていたので、結構早い段階で推薦で明治大学に入ることが決まって。でもそうじゃなかったら、防衛大学校に行って飛行機乗りになろうと考えていました。

大学生活はいかがでしたか?

楽しかったですよ。アーチェリー部に入って4年間やりました。あとはほとんどバイト漬けで、昼夜なく働いたり遊んだりしてました。

アーチェリー部、4年生引退前(後列2列目、左から2番目)

その頃は何を目指していたんですか?

これというのは特になかったですね。当時は景気のいい時代だったから、とりあえず周りと一緒に3年生ぐらいから就職活動をして、内定を取ることができました。ただ、その頃から漠然と刀には興味があったんです。町道場で居合を稽古していたのもあって、なんとなく刀が好きで色々観に行くうちに国立博物館で展示されていた正宗の刀(国宝「城和泉守正宗(じょういずみのかみまさむね)」と出会って、感銘を受けました。

居合をやっていた頃(東京、本郷の夢想神伝流 研修館道場)

それで刀鍛冶になろうと?

いえ、当時はまだ刀鍛冶になろうとは全く思っていなかったんで、結局就職して、それなりに楽しくやっていました。だけれど地方に転勤の話が来て、それなら好きなことをやろうと、刀鍛冶にでもなろうかなくらいの感覚で、特にあてもないまま会社を辞めて。

刀の仕事はどうやって見つけていったんですか?

今みたいにネットもないし、情報もどこにもないからなかなか見つからなかったです。知り合いに岐阜の刀鍛冶を紹介してあげようかと言われたこともあったけど、なんとなく自分が行きたい感じではなかった。そうしたらたまたま長野の東急百貨店に勤めていた友人に、今度美術画廊で現代刀の展覧会をやるから来てみたらって言われて。それで行ってみたら、ちょうどその日の会場当番がのちの師匠(宮入小左衛門行平)でした。その場で「刀鍛冶なりたいです。弟子にしてください」という話をして。

最初は断られたとか。

何度も断られましたよ。当時師匠は若かったし、弟子は取らないからと言われました。先代一門はすごく大きな団体で、ひと世代前の高弟たちの中には大先生になった方も結構いたので、その人たちを紹介してやるからって言われたんですけど、そういう落ち着いた人のところに弟子入りしても、あまりいいことはないだろうなって思ったんですよ。

なぜそう思ったんですか?

当時通っていた居合の道場の先生に、「年寄りには年寄りの枯れた居合があって、若い人間には若い居合がある。伸び盛りの先生について稽古しろ」と言われていたのが心に残っていて。それに、その展示会場で30本くらいの刀が並んでいる中で、いわゆる大先生と言われる方たちの作品は、当時刀をよく知らなかった僕でも、魅力というか力を感じなかったんですね。若かった師匠の作品にかっこ良さ、瑞々しさみたいものを感じて、「僕はあなたに弟子入りしたいんです」って何ヶ月か粘って、仕事場に呼んでもらったり手紙をやり取りして、ようやく入門できることになりました。

入門して、いかがでしたか?

3ヶ月後にいきなり破門宣告されました。学生の頃のろくでもない空気感が抜けてなかったんでしょうね。覚悟をしていたつもりだったけど、突然この修行の世界に入って、内弟子ですから休みはないし、給料もないので自由もお金もない状態が3ヶ月続いて、嫌気がさしちゃったというか。それに入門したばかりだからやれることと言えば下仕事ばかりですし、そんなに楽しいわけではない。体育会系にいたので理不尽なことには慣れてる気でいたけど、態度に出ていたんでしょう。そんなこんなで父親が挨拶に来る直前に、僕が師匠の逆鱗に触れることをしてしまって、父親にその場で連れて帰れってなって。

それで一度は地元に戻ったものの、諦められなかった。

それもあるし、当時の彼女にここで辞めたら本当に人間として最低だよって言われて、ちゃんとやろうと思って。そこから変わりましたね。5年後には作家として食べていける刀鍛冶に本気でなろうと思いました。

弟子時代。仕上げ部屋にて

その後の修行時代はやはり大変でしたか?

毎日本当に大変でした。今思うとよく生きてたなと思います。師匠のご家族が全員インフルエンザで倒れても僕は病気にならなかったし。すごい気を張ってたんでしょうね。

自身が作刀に関れるようになったのは弟子入りしてからいつ頃だったんですか?

火の仕事をやらせてもらえるようになったのが2年目くらいですかね。その頃から、刀の材料となる卸鉄(おろしがね)という鋼を造るのを任せてもらえるようになったんです。その仕事が僕の性に合っていたというか、その技が後に僕の作風を決めるくらいの得意技になりました。不思議なもので、本当にわずかな手癖の差やタイミングの差でできる鋼が違ってくるんです。みんなで同じ材料を使って同時に造り始めても、同じものはできないし、どんなに訓練しても不思議とそこは変わらないんですよ。

弟子入りして5年目に文化庁の研修会を受けたそうですね。その条件は皆さん同じなんですか?

そうですね、研修会と言っても実質的には試験で、修行5年目になった弟子は受けることができます。7泊8日の泊まり込みで、脇差を一本造ります。当時は3人一組になって、古式のやり方で、大槌を振ったり、それぞれの役割を交代でやりながら作刀しました。

そこで受かったら、今度は独立して自分でやるという流れになるんですか?

無事研修会を修了したら、翌年の4月に文化庁から作刀承認証をいただけます。僕は修了した年末に、師匠にそろそろ名前を決めて独立を考え始めろよと言われました。と言っても、まだ独立する資金がなかったので、師匠にお礼奉公という形で外に家を借りて通いながら、弟弟子達の指導をしたり、師匠の作品の仕事を手伝いながら自分の作品を造っていました。

研修会修了の頃。人間国宝の天田昭次先生と

その後ご自身が刀鍛冶として活躍できるようになったきっかけは?

まず初めて新作刀展覧会に出品した刀が優秀賞と新人賞、そしてその2年後に特賞、協会名誉会長賞を取れたことが大きかったですね。そのおかげで新人ながら作品が売れたんですよ。あとは兵庫の方に僕を気に入ってくれて毎年刀を買ってくれるお客さんができたので、その方に助けられつつ。

作品を売りながら資金を貯めて。

でもいざ自分の仕事場を探そうってなったら、全然見つからなくて。最初は師匠の地元の(長野県)坂城町で探していたんですけれど、僕がコンクールで賞を取れるのは師匠に手伝ってもらっているからだろうと陰口を叩く同業者がいて。当時若かったからそういうことは我慢できなかったし、ちょっと遠くに行った方がいいなって思いました。作家として生きてくためにはやっぱり東京圏に近い方がいいと思っていたら、たまたまこの近所(埼玉県美里町)に住んでいるお客さんが、この場所を紹介してくれました。

それでこの鍛刀場を開設されたわけですね。

当時、僕みたいに一般家庭から刀鍛冶になって、自力でちゃんとやっていけてる人はいなかった。ですから自分で資金を作って独立する方法を相談するような人はいませんでした。でも、起業家を応援するような助成金がたくさん出てきていた頃だったので、なんとかなるだろうと思いました。そんな中、この土地が見つかったのでまずは引っ越して。資金も無事に準備することができて、知り合いの設計士さんに紹介してもらった工務店に鍛錬場を建ててもらいました。その年に出品した刀が特賞・文化庁長官賞を取れて、おかげで順調に独立することができました。

鍛刀場が完成して1年後、お披露目する「火入式」の様子

良かったですね。

本当に。自分の実力を見せつけるためにも、とにかくここで造る最初の刀で絶対に特賞を取らなきゃいけないと思っていました。

次回へ続く

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第12回新作日本刀 研磨 外装 刀職技術展覧会

会場
「坂城町 鉄の展示館」
長野県埴科郡坂城町坂城6313-2
会期
令和4年6月11日(土)~8月28日(日)
部門
作刀・刀身彫刻/研磨/刀装の3部門
分野
作刀・刀身彫刻・研磨・鐔(その他刀装具)・白銀(鎺その他金具)・白鞘・拵下地・柄巻き・鞘塗り・拵

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