IMPRESARIO KEYS
#10 | Jul 29, 2020

4度の骨折と4連敗、最悪の状況を脱してチャンピオンに輝き、格闘家人生の中に“生きる本当の意味”を見出したコーチング

Interview & Text: Richie Takai / Edit: Yukie Hashimoto / Photo: Atsuko Tanaka

「IMPRRESARIO KEYS(インプレサリオ・キーズ)」では、思い悩んだ時の突破の仕方や、人生を切り開くための方法を人間開発の技法「コーチング」を用いて紹介する。コーチングとは、心理学やカウンセリング理論に基づく対話による、クライアントの自発的な行動を促すコミュニケーション技法のことである。 第10回目に登場するのは、格闘家の丹羽圭介選手。丹羽選手は、1983年生まれの36歳。小学生時代から高校まで野球を続けた後、大学で新しいことに挑戦するため日本拳法を始める。その後、就職時の会社説明会やOB訪問で「この人のようになりたい!」と思える人がいないことに絶望し、俳優になろうと上京を決意。俳優を目指していく中で、ある事務所に所属していた格闘家のスパークリング相手に偶然なったことがきっかけで、格闘家の道に進むことになる。その後、2010年に新人王になった直後、4回連続で骨折し、2年半の地獄の日々を経験。復帰して11連勝するも、キックボクシングと国内ムエタイ、2度のタイトルマッチに失敗して4連敗した。しかし、フリーとして独立した頃コーチングに出会い、自身に合った方法を模索し続け、3年後の2019年にチャンピオンになることができた。3つの事例を用いて、丹羽選手のコーチングを務めた台本尊之コーチの説明を含めて解説していく。
PROFILE

格闘家丹羽圭介

1983年7月23日生まれ、小中高と野球、大学から始めた日本拳法では主将を務め、数々のタイトルを獲得、大学卒業後は役者を志し上京、鳴かず飛ばずで悶々と悩んでた時に、映画監督からの紹介でK1選手のスパーリングパートナーに指名、そこからキックボクシングのアマチュア大会に出場し全国大会で優勝しプロへの道が開かれRISEプロデビュー、そのまま新人王になるも、天狗になり骨折連続4回、2年半の地獄の日々を過ごし復活して11連勝、2度のタイトルマッチに挑戦するも失敗、7年間所属したHAYATOGYMを独立し、那須川天心率いるTEPPENGYMで練習拠点とし、REBELS初出場から破竹の4連勝、プロデビューから10年、念願のチャンピオンになる。 現在は出張パーソナルトレーニング「ケイトレ」の代表も務めながら世の中のネガティヴを楽しくするためのヒントやキッカケになる事をテーマに活動している。丹羽圭介オフィシャルウエブサイト

スポーツメンタルコーチ台本尊之

コーチング歴10年。コーチングとアドラー心理学で金メダリストをサポートしたスポーツメンタルコーチ。パフォーマンスを発揮するメンタリティ『ゾーン』をつくり、アスリートを中心にビジネスパーソンまで幅広くサポート。コーチングとスポーツメンタルをわかりやすく教えることに定評があり、研修講師や体育系大学のスポーツ心理学講師も務める。また、テクノロジー(AR)スポーツのHADOとXballの監督としてチームマネジメントも手掛け、世界4位の実績と最も観客を沸かせたチームに贈られるベストパフォーマンス賞も受賞。

【パフォーマンス目標を決める】~努力の方向性を明確にする~

『勝てない原因と勝つための戦略』

就職することに違和感を感じて、自分に適した自己表現のできる仕事を探していく中で、偶然の出会いが重なり格闘家の道に進むことになった丹羽選手。類い稀な身体能力を武器に、デビュー直後の2010年に新人王になったものの、それによって生まれた気の緩みで生活の乱れが生じ、4度の骨折という不運に見舞われた。その後の試合でも4連敗が続き、悩んでいた時にコーチングと出会った。それから先の格闘家人生を見つめ直すために始めたコーチングで、どのような変化をくぐり抜けたのだろうか。

丹羽選手はどんな少年時代を過ごしましたか?

4人兄弟で兄と姉、弟がいます。夏はキャンプに、そして冬はスノボーに行ったりと、家族とする遊びは基本的にアクティビティが多く、兄弟揃って遊びの中で勝負することが好きでした。小学生から始めた野球は、高校まで続けました。一緒に野球をやっていた弟は、後にサッカーに専念し、今は現役のFC東京Jリーガーとして活動しています。

野球に夢中だった小学生の頃

格闘技に出会ったきっかけはなんですか?

ジャッキー・チェンを観たり、昔のK1を観たりする中で感化されることはあったのですが、実際に格闘技を本気でやるとは思っていませんでした。小学校の時に一緒に野球をやっていた幼馴染の一人が、高校にあがって日本拳法という格闘技の部活に入ったんです。日本拳法は、防具、面、グローブ、胴をつけて、投げあり、打撃あり、金的ありといった何でもありの格闘技で、その友達から遊びで日本拳法のエッセンスを教えてもらったりしていました。その後、大学生になって、野球を続けていくのか、それとも新しいことを始めるのかで悩んでいた時に、同じ友達に「俺の部活で一番怖かった先輩が、丹羽の大学にいるから一度訪ねてみなよ」と言われて、後日その先輩のいる日本拳法部に恐る恐る行ってみたんです。そうしたら、僕の野球で鍛え上げてきた反射神経の良さや、コツを掴む早さを「10年に1度の逸材だ!」と褒めていただきました。初めてで未知でしたが、この時日本拳法に触れて、すごくワクワク、ドキドキしました。そこで10年続けてきた野球に終止符を打つことに決め、格闘技にのめり込んでいきました。

日本拳法にのめり込んでいった大学生の頃

大学卒業後の進路の話を教えてください。

大学卒業後は、大阪の商社に就職するつもりだったのですが、会社の説明会やOB訪問をしても「この人のようになりたい!」と思えるような先輩が一人もいなくて、がっかりしたのと同時に 将来の自分自身の姿に危機感を覚えて、自分のなりたい大人達がいない場所で、この先やっていく自分を想像できなかったんです。僕の中でかっこいいと憧れた先輩は、自分の身体を使って表現して人を勇気づけたり、励ましたりしている人達でした。ダンサーや役者、スポーツ選手など様々ですが、とにかく自己表現でエネルギーを発することで結果を出して、仲間達と喜んでいるような人達だったので、自分もそういう生き方がしたいと思って。その頃何度か東京に行く機会があり、当時興味があった役者になろうと思ったんです。とにかく動いてみないと分からない性格で、親からは激しく反対されましたが内定式の前に会社を辞めて、キャリーバック一つで東京に出てきました。

格闘家への道には進まなかったんですね。

東京に出た後は、結局売れない役者を3年やりました。そこで気づいたのは、自分に圧倒的に突き抜けた売れる何かがないと、化け物のようなすごい才能を持った人達がたくさんいる芸能界で生き残るのは難しいということでした。その頃に、ショートムービーで役をもらっていた映画監督の事務所にはスポーツ選手も所属していて、その中の一人であるHAYATO選手のK1の対戦相手が日本拳法の選手だからという理由で、たまたま僕が練習相手をすることになったんです。スパークリングをした後、HAYATO選手にセンスの良さをかなり褒められ、その時に「人にはない自己表現で誰かを喜ばせたり、感動させたりエネルギーを与えられる表現方法ってもしかしたらこれか!?」とハッとしました。その後HAYATO選手が引退し、同時にジムを立ち上げる流れになった時に、僕はプロキックボクサーとして本格的にスタートすることになったんです。東京に出てきたことや、役者を目指したことなどの偶然が重って、自分の進むべき道に導かれたような気がしました。

デビューしてから、コーチングに出会うまでのきっかけは何でしたか?

デビューした翌年の2010年に新人王になりました。そのことで自分が最強だと思い天狗になってしまい、私生活が乱れ始めたんです。二日酔いで寝不足のまま練習に出て、適当な姿勢で練習をしていたら、練習相手から受けたハイキックでアゴの骨を折ってしまい、退院したらすぐに今度は腕を折ってしまいました。まさかもうないと思っていたら、さらにその後、連続で腕を2回も折ってしまって。この時の2年半は本当に地獄の日々でした。そして、「どうしたらこの先後悔しない格闘家人生を生きていけるだろうか?どうしたらこの状況を抜け出せるだろうか?」などと、必死に反省して解決策を探したり、周りの人にも相談もしました。ようやく怪我も治り、緩んでいた私生活、練習への取り組む姿勢を改めてからは、快進の11連勝をしましたが、タイトルマッチで勝てないということが2回続き、迷走しました。チャンピオンなる方法を考えていた時に、Jリーガーの弟がメンタルコーチをつけていると聞いて、コーチングに関する本を読み始めたんです。また同時期に、別々の方々から菊野克紀選手(IMPRESARIO KEYS 第1号に登場)の話を聞き、紹介していただくことになりました。

抱えていた問題

■がむしゃらに頑張っていても、結果に繋がらない

2度のタイトルマッチに失敗して4連敗し、それでもチャンピオンになるのを諦めずに色々なことに挑戦したが、どの方法がチャンピオンになるために必要なのか取捨選択できず、ただがむしゃらに何でもやっていた。

丹羽選手:仕事に練習に毎日スケジュールはびっしりで、寝るのは深夜。いつも「やらねば」に追われていましたね。今思うと、一生懸命努力はしていたけれど、その「努力の方向性」が明確に定まっていなかったのでしょうね。何をやっても結果に繋がらなくて、どうにか現状を変えたいと悶々としていました。

ムエタイにも挑戦し、タイのトップ選手と試合をしたが敗北

解決方法

■パフォーマンス目標を設定してフロー・ゾーン状態を作る

台本コーチが提案したのは、「勝つ」という目標に加えて、「パフォーマンス目標」を決めることだった。ただ勝つことだけにフォーカスするのではなく、「勝つとしたら、それはどんなパフォーマンスをしたから勝てたのか?」というのがパフォーマンス目標だ。

丹羽選手:「対戦相手に勝つとしたら、どんな体・心・パフォーマンスの状態で戦っているのか?」を、試合をしている時のように、実際に身体を動かしながら一つ一つイメージしていきました。すると、気持ちが上がってきて、「こんな状態・こんなパフォーマンスの自分で戦えていたら、勝つに違いない!」というパフォーマンス目標を見つけることができました。その時の自分の状態を「ドラゴンボールの誰々っぽいかも、こんな色のイメージかも」など、僕の大好きなものやこだわりのあるものに例えていくと、ますます気持ちが上がり、腹落ちしていきました。その状態はまさに僕の“フローやゾーンの状態”の時の感覚で、この意識状態でいられれば、最高のパフォーマンスが発揮できるに違いないと確信しました。

得られた結果

■2試合連続勝利!フロー・ゾーン状態で戦えた

フロー・ゾーン状態を意識することで、試合時だけでなく日常でも良い状態で過ごせるようになったと語る丹羽選手。結果、それまで存在していない階級63kg級の新設を要望し実現、そこから2試合連続勝利して、初代王者トーナメント開催への切符を手に入れた。

丹羽選手:それまでは試合の時だけ「ゾーンに入らなきゃ」と頑張っていましたが、練習でも、日常生活でも、全てを“フロー・ゾーンの状態な自分でいること”を目的にしたことで、「何をやるのか?何をやらないのか?いつやるのか?」を取捨選択できるようになりました。仕事やジムワークの移動時間を考えて、最高のパフォーマンスを出すための環境に引越しをしたり、試合までの追い込み練習と仕事のバランスの調整をしたり、契約体重に向けての減量状態、試合直前、リングイン、試合中など、すべての場面においてフロー・ゾーン状態な自分でいるための「やる、やらない」の取捨選択を探求していった結果、2018年10月に行われた「REBELS.57.」、同年12月の「REBELS.58.」の試合では、どちらもフロー・ゾーン状態で戦うことができ、見事2試合連続勝利して、後にチャンピオンになるきっかけとなるトーナメントを組んでもらえることとなりました。

コーチ補足

■パフォーマンス目標を明確にすると、練習の質が高まり、結果に繋がる

台本コーチ:丹羽選手は絶対に勝つというブレない想いはあったものの、いろんな方法に挑戦し、努力の方向が定まっていない状態でした。そこでまず「パフォーマンス目標」を明確にしていきました。「パフォーマンス目標」とは、「このパフォーマンスなら勝てる!この自分なら勝てる!」と、ワクワクした気持ちもありつつ、しかも腹落ちしているものです。実際に体を動かしながら、「こんな状態・こんなパフォーマンスの自分で戦えたら勝つに違いない!」と、イメージしていきます。今できるかは一旦置いて、自分の理想通りに動きながら、ありありとイメージしてみるのがポイントです。そして次に、「どんな戦略・戦術で、どんなパフォーマンスで、どんな勝ち方をしたいのか」もかなり具体的にイメージしていきます。丹羽選手のように「ドラゴンボール」の世界観で例えたりと、選手ならではのこだわりや気分が上がる要素も絡めていくのも大切ですね。そうしてできあがるパフォーマンス目標はフロー・ゾーン状態への入り口になりますが、試合でもこの状態を発揮するためには、練習や日常生活でも入りやすい状態でいることが大切になります。そこで、試合までのスケジュールを丁寧に確認し、「やること・やめること」を明確にして着実に実行していきました。努力の方向性が明確になった為、自然と練習の質が上がってパフォーマンスの質も向上し、フロー・ゾーン状態に入りやすくなったんだと思います。

次は、今までで一番視界が開けたコーチングについて

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