HIGHFLYERS/#56 Vol.2 | Nov 17, 2022

沖縄伊江島の美しさに心を動かされ、写真を独学。水中写真家としてキャリアをスタートし、やがて世界を旅するように

Text & Photo: Atsuko Tanaka

写真家・竹沢うるまさんの第2章は、幼い頃のことから学生時代、写真に出会い世界を旅するようになった頃のことをお聞きしました。昔から自分の世界に浸るのが好きだったとおっしゃる竹沢さんは、夢中になれることに出会うと、とことん突き詰めてしまう性分のようです。バックパッカーとしていろんな国を旅するようになり、3年かけて世界を回った時にはいろんな出会いを重ねて大きな学びを得ました。その中で、最も印象的な二つの出会いについてもお話しいただきました。
PROFILE

写真家 竹沢うるま

1977年生まれ。同志社大学法学部法律学科卒業。在学中、アメリカ一年滞在し、モノクロの現像所でアルバイトをしながら独学で写真を学ぶ。帰国後、ダイビング雑誌のスタッフフォトグラファーとして水中撮影を専門とし、2004年よりフリーランスとなり、写真家としての活動を本格的に開始。これまで訪れた国と地域は140を越す。2010年〜2012年にかけて、1021日103カ国を巡る旅を敢行し、写真集「Walkabout」と対になる旅行記「The Songlines」を発表。2014年には第三回日経ナショナルジオグラフィック写真賞受賞。2015年に開催されたニューヨークでの個展は多くのメディアに取り上げられ現地で評価されるなど、国内外で写真集や写真展を通じて作品発表をしている。

同じ日に、最も人間味のない冷たい暴力と、最も温かく美しい表情を見て、3年の旅を終える決心がようやくついた

小さい頃はどんな子供でしたか?

自分の内面の中で世界が完結していたんで、外界とか他人に一切興味を持たず、誰に何を言われても一切聞かないような子でした。小学校の時は、近くの川にザリガニを捕まえに行って、夢中になって気がついたら辺りは真っ暗。親は僕が全然帰ってこないもんだから、心配して警察を呼んだなんてこともありました。興味を持ったものに対しては、周りが見えないくらい没頭してしまうんです。

子供の頃

ご両親はどんな方で、どのように育てられましたか?

人として基本的なこと、例えば約束を守らなかったり人のものを取ったりしたら怒られるけれど、それ以外は自由に、興味があることに対しては一生懸命やりなさいという親でした。

小さい頃なりたかったものは?

普通にサラリーマンになるくらいしか考えてなかったです。なんとなく与えられたものの中で進んできて、自分の意思で何かをやるということは大学に入るまで何もなかったですね。

中学、高校生の頃はどんな学生生活を?

中学くらいになると、だんだん他人とうまく接しないといけなくなりますよね。表面的にはうまくやりつつも、無理してる部分はあったと思います。高校は同志社大学の附属校に入って、ラグビーを3年やりました。

法学部だったそうですが、当時は弁護士になろうと思っていたんですか?

いえ、何でも良かったのですが、成績順で好きな学部を選べたので、せっかくなら入りづらい学部に行こうかなと思って法学部を選んだんです。その頃もまだ特にこれと言ってやりたいこともなく、空っぽに近い状態でした。

写真を始めたのはいつ頃だったんですか?

スキューバダイビング部に入って、合宿で行った沖縄の伊江島の美しさに心を動かされてからですね。海の中にはサンゴがたくさんいる世界が広がっていて、自分が知らない 生き物たちが地上とは全く違う法則に従って生きていて。水面を隔てた先に自分の知らない宇宙があるんだと衝撃を受けました。その感動を忘れないように写真に収めていこうと思ったんです。

海の美しさに魅せられ、スキューバダイビングを始めた大学生の頃

そういう始まり方だったんですね。

最初は家にあったコンパクトカメラで撮影していましたが、そのうちにもっとちゃんとした写真を撮ろうと思って、一眼レフを買って。当時は海の生物の写真を集めて図鑑を作りたいと思っていました。

ところで、大学生の時にアメリカに留学されていたそうですが、行ったのはいつ頃?

大学3年の途中ですね。周りは就職活動の最中でしたけど、僕は興味を持てる会社が一切なくて、中途半端な気持ちで就職しても目に見えてるし、それだったら1年休学してアメリカに行こうと思ったんです。カリフォルニアにある語学学校に通いながら、いろんな所に行って写真を撮っていました。

その頃も水中写真を?

そうですね、あとは自然や風景なども撮っていました。撮影をしているといろんな人との出会いがあり、アメリカに住んで3ヶ月くらい過ぎた頃に、知り合いを通してメイン州にある写真の学校でインターンをすることになりました。そこで夏の間、暗室のスタッフとして働いて、空いてる時間は好きなワークショップを受けたり、写真の基礎を学ばせてもらいました。

留学時代 左:滞在時のセルフポートレート

その後は帰国されて、また大学に戻ったのですか?

はい、自分は写真が好きだということが明確になったので、なんとかして写真の仕事に付きたいと思うようになって。それで当時読んでいたダイビングの雑誌に、「社カメ希望」って書いて自分のプロフィールと作品20枚くらいを送ったんです。のちに面接を受けることになり、期間を限定すれば会社的な負担が減って雇ってもらいやすいかなと思って、一生懸命働くんで3年間雇ってくださいと伝えました。そうしたら雇ってもらえることになって、1ヶ月後に東京に引越して、テストの時だけ大学に戻ってという形で働き始めて。

社カメとして働いた経験はどうでしたか?

楽しかったです。結構ゆるい会社だったので、初めての仕事の時だけ撮影部の先輩と伊豆大島に行って、その次はいきなり一人でモルディブに10日間行って、10ページの記事を作るという感じでした。撮影だけでなく、文章も書いて、ラフを作って入稿まで全部自分でやらないといけなかったから苦労しましたけど、今思えば逆に自分なりのやり方を編み出すことができたんで良かったですね。

その3年後に独立されて、その時に写真家としての名前を竹沢うるまにしたんですか?

そうですね。まだフリーで生きてくことに対して自信があまりなかったし、名前を覚えてもらわないといけなかったので、印象に残るような名前を付けようと思って。写真を撮り始めたきっかけが沖縄だったから、沖縄の言葉で「サンゴの島」という意味の「うるま」にしました。

フリーになってからは、仕事の方はどうでしたか?

最初は水中写真を中心に、対談風景から料理の写真まで色々な写真を撮っていました。社カメ時代のいろんな方との繋がりで仕事を取るのに苦労はしなかったので、わりと順調な滑り出しだったとは思います。

世界を旅するようになったのはいつ頃から?

依頼仕事としてはすでにいろんな国に行かせてもらってましたが、自分で行くようになったのは、フリーになって5年後の29歳くらいからですかね。最初は新鮮だった仕事にだんだんとマンネリを感じ始めていた頃、たまたま撮影で行ったマレーシアで同じ宿に泊まったバックパッカーとの出会いを通して、そういう旅のスタイルがあることを知って。自分も休みがある時にやってみようと思って、タイとかベトナムとかアジアの国を回ってみたんです。そうしたら写真を始めた頃の新鮮な衝撃がたくさんあって、それからバックパッカーで旅するようになりました。

バックパッカーとして 世界各地を旅するように

その延長で、3年間かけて世界を回る旅に?何かきっかっけがあったんですか?

アジアを周っていた頃、自分の写真ってなんなんだろうって考えるようになった頃があって。それまでは依頼された仕事のみで、クライアントの方たちを満足させるために写真を撮っていたけれども、果たしてその中に自分自身を表す写真があるかと考えたら、あまりないんじゃないかと思ったんですね。このまま写真を続けていくのか、もしくは辞めるかのどちらかだと思って、悩んだ末続けることを選んで1年間南米に行こうと決めたわけです。結局それでは足りず、アフリカに1年、ユーラシア大陸に1年と合計3年かけて周りました。

世界の人々や文化に触れて、楽しいことや感動もあれば、下手すれば命の危機につながるようなことなど、いろんな意味で想像を超える体験が多くあったと思います。選ぶのは難しいと思いますが、その中で特に印象に残る出来事を二つ挙げるとしたら何になりますか?

まず一つは自分の旅のスタイルの軸となった出来事で、ボリビアのポトシという街の近くにある小さな集落、プエルタ・デ・プエブロでの出会いです。日本を出て約4ヶ月が過ぎ、見るものに新鮮味を感じなくなってきた頃でしたが、たまたま街で「ティンク」というお祭りのポスターを見て、興味を惹かれて行ってみたんです。村の人たちが綺麗に着飾って男性と女性に別れて、男性は鞭を持ってお互い叩き合い、自分たちの強さをアピールして、女性は美しさをアピールしながら踊るという祭りでした。要は出会いの場なんですが、ものすごく魅力的で、久々夢中になって写真を撮りました。

ユニークな祭りですね。

そのうちある踊り子のグループと仲良くなって、日本から来て旅をしながら写真を撮っていることを伝えたら、その中の一人の女性が帽子についていた羽飾りを僕に渡してきて、「私もあなたのように世界を旅していろんな景色を見てみたいけど現実的にできないから、これを私だと思って、あなたの旅に連れて行って」とくれたんです。心を大きく動かされ、その羽は帰国するまでバッグにつけて一緒に旅しました。ちなみにその後4年くらいに知ったことなんですが、「ティンク」とはケチュア語で「出会い」という意味でした。まさしくあそこで出会いを教えられたんだなと感じましたね。

ボリビアにて、踊り子たちと

竹沢さんにとって大きな意味を持つ出会いだったんですね。ではもう一つの印象的な出来事はなんでしょう?

もう一つは3年の旅を終えるきっかけとなった事。そもそも僕は「50カ国行ったら帰る」とか「何かを見つけたら旅を終える」とか、具体的なゴールを持つことなく好奇心の赴くまま旅していたので、自分の中で帰るきっかけを掴めていなかったんですね。ユーラシア大陸に入って、だんだんと日本に近づいていった時に、このまま帰国しても1、2ヶ月したらまたどこかに行っちゃうんじゃないかという漠然とした不安があって。なので地理的に旅を終わらせるのではなく、精神的に納得して終わらせないとダメだと思いました。

なるほど、それは複雑で深いです。

その後移動して中東からアジアに入って、東チベットと言われるカム地方に色濃いチベット文化が残ってると聞いてそこを目指すことにしました。いくつかの厳しい検問を超えてラルンガル僧院に行った時、今まで見たことのない光景が広がっていて、ものすごい心を動かされて無心で写真を撮りました。途中、何度も中国の公安に尋問を受けたり画像を消されたり、ストレスなこともありましたけど、それを超えるだけの魅力がありましたね。

3年の旅を終えるきっかけとなったカム地方にて

いろんなことを身をもって体感されたのですね。

決め手となる出来事はその後起きるんです。次の目的地へ向かう乗合タクシーで仲良くなったチベット族の青年が、検問で公安に全く意味のない暴力を受けたんですね。殴られても蹴られても青年は一切反抗せず、違う建物に連れて行かれて、1時間くらいして顔を腫らして戻ってきました。僕はなんて声をかけていいか分からずモゴモゴしていたら、彼が「大丈夫だから気にしなくていいよ、気を遣ってくれてありがとう」って言ったんです。そういう状況に置かれながらも笑顔でありがとうと言える心のあり方が、なんて清らかで美しいんだろうって、3年旅してきた中でこんなに美しい表情は見たことがないと思いました。1日で同時に、最も人間味のない冷たい暴力と、最も温かく美しい表情を見て、これ以上旅を続けても、これ以上のものには出会わないだろうと確信してようやく旅を終える決心がついたんです。

次回へ続く

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2023年キヤノンカレンダー 竹沢うるま写真展:
World Heritage Journey 世界遺産を訪ねて

写真家 竹沢うるま氏が撮影を担当した2023年版キヤノンマーケティングジャパン・カレンダー「World Heritage Journey 世界遺産を訪ねて」を飾る作品13点を含む、計35点を展示します。

キヤノンマーケティングジャパン・カレンダーは2018年より世界遺産をテーマにしており、今回で第6回目となります。氏は知床、白神山地、小笠原諸島、屋久島などといった自然遺産を中心に、四季にあわせて日本の世界遺産を訪ねながら1年かけて撮影しました。繊細で多様な季節の移ろいを切り取った作品群を、阿波和紙にプリントします。 作品はすべてキヤノンの大判プリンター「imagePROGRAF」でプリントし、展示します。

会場
キヤノンオープンギャラリー1(品川)
開催期間
2022年12月2日(金)~2023年1月10日(火)
10時~17時30分
*日曜・祝日休館
*年末年始 2022年12月29日(木)~2023年1月4日(水)休館
イベント詳細
2023年キヤノンカレンダー 竹沢うるま写真展

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