HF/#11 Vol.3 | Feb 5, 2015

目的と手段をとり違えない

shino

Text: Miwa Tei / Photo: Atsuko Tanaka / Cover Design: Kenzi Gong

想像力と好奇心で人生を創造する人を追い続けるHIGHFLYERS。Vol.10は、チェコでオリジナルのチョーカーを作り続けるshinoさんの登場です。一度見たら忘れられないインパクト。身に付けることで装いが引きたち、人に贈りたくなる1点もののチョーカー。その自由な配色に多くの人が魅せられ、shinoさんのチョーカーの輪は和となり、環となって広がっています。人を笑顔にするチョーカーを作り続けるshinoさんに、もの作りとともに紡いできた豊かな人生のストーリーを伺いました。
PROFILE
shino

チョーカーデザイナーshino

1961年生まれ。80年よりガラスに携わり、米国ピルチャック・グラス・スクールで学ぶ。その後、友人等と工房ARTHOLICを設立。美麻ワークショップ、GLASSWORK誌を経て92年よりチェコ在住。長らく制作を中断していたが、95年スロバキアでのシンポジウムをきっかけに再び活動を開始する。現在は主にビーズによるジュエリーを制作。
https://www.facebook.com/shinos.cz

目的と手段をとり違えない

 新天地チェコでの生活は、どんなスタートを切ったのでしょう?

初めてプラハに降り立ったのは1990年頭、共産主義国家から自由主義国家になってまだ二か月という時でした。空港には銃を持った人たちがいるし、お店は開いていないし、そもそもお店にモノがない。どこに行っても行列だし、ましてやアジア人が行っても何も売ってはくれない。チョコレート一枚買うのも一苦労みたいな。人もね、笑ったら損みたいに険しい表情で。見るもの聞くもの驚きの連続でした。長期的に暮らし始めたのはその2年後。まだまだ共産主義が色濃く残っていて、でも、そういうのも丸ごと面白いと思えたのね。民主化直後の激動の10年間をリアルタイムで体験できるなんて、そうはないですよ。

 面白いと受け止められる度量がとても逞しいなと。

何もないところから人や街、文化が動き出す感じが、昭和にタイムスリップしたみたいな感覚だったの。電話線が引かれるまで10年待つ時代なんて、完全に昭和でしょ(笑)。もともと昭和という時代に興味があったので、これはチャンスだと思いました。便利すぎないアナログな生活や、ささやかなことで人は幸せになれるし、幸せにしてあげられるという心温かさが、私にはちょうど良かったんですね。

 チェコの景色、空気を体感したくなります。

四季があって、生活の知恵が息づいている文化のある国です。街全体は、路面電車でひとまわりする中にコンパクトに収まっているのも暮らしやすいなって。あと、家庭料理が美味しいんですよ。

 言語はどの様にマスターしたのですか?

公用語のチェコ語は日本語と同じぐらい、や、それ以上に難解な言語で完全マスターは諦めました(笑)。もはや、英語ないまぜの “shino語”でコミュニケーションです(笑)。

 いわゆる“ホームシック”に心が揺れたことは?

「何処にいても同じ」これは、プラハに来て2年後に母から言われた言葉。私自身、ホームシックとやらは全然なかったの。日本での雑誌の仕事を続けていたので、当時物価が日本の十分の一だったチェコでは、そのお給料で充分生きていけたのね。当初の予定の2年を過ぎても帰る理由は全然見当たらないし、母に「帰るのやめようと思う」と電話で伝えたら、「何処にいても同じだからいいじゃない」って(笑)。

 達観されたお母様!

昭和一桁生まれであの合理性を持てるというのは凄いと思います。昔から何を言っても反対されたことがないですし。いなくなったら一番困る、敵わないと思う人です。書道を教えているので、5年前には80歳の誕生日にプラハでの書展をプレゼントしました。つい先日もプラハの美大で、書の一日講習会をしたばかりです。

 何処にいても生活は回していかなくてはいけない。そのあたりはどのように?

雑誌の仕事を継続しながらチェコで暮らし始めた最初の3年間、その頃のチェコはまだ共産主義が色濃く残り、当然“働かざる者食うべからず”な空気でね。日本にいた頃、チェコの作家の展覧会を手伝っていた関係で、こちらの美術関係者との交流があったんですが、彼らからも「shinoはいつになったら仕事をするんだ?」と詰め寄られて。「何もしないためにチェコにいるの」と正直に答えたんだけど、はい却下みたいな(笑)。

 「人生の中休み」なんて理由は絶対にあり得ないですね。

その当時は通用しなかったわね〜(笑)。それで、私の預かり知らないところで周りの人たちが動き、ガラスのシンポジウムに突っ込まれちゃったのね。それともうひとつ、いったん決別したもの作りを再開するきっかけがあって・・・

 どのような出来事だったのですか?

アメリカのピルチャック・グラス・スクールで出逢ったリベンスキー教授ご夫妻とは、その後ギャラリーの仕事を通して再会。日本での展覧会の手伝いをしたり、雑誌で特集を組んだりと、仕事上の交流がありました。プラハに暮らし始めてからはプライベートでもお世話になり、私に仕事をするように促したのも彼らで、自分たちのスタジオを使いなさいと。「いつでも好きな時に使っていいよ。君はものを作りなさい」。彼らにしてみたら軽い気持ちでいってくれたんでしょうが、今でも感謝しています。教授は亡くなられましたが、90歳になる奥様はお元気で交流が続いています。チェコでも私は人に恵まれ、周りに助けられてきましたが、お二人の存在も大きく、もの作りの姿勢においても、彼らに学んだことは計り知れないです。

 日本へはまったく戻らなかったのですか?

最初の10年はあまり帰りませんでした。10年後にビザのことでトラブルがあって、ちょうどその時日本から仕事の話をもらい、定期的に日本に帰ることに。ラッピング系のセールスプロモーションというちょっと特殊な職種で、ジュエリーやコスメなどの有名ブランドにプレゼンするデザインやサンプルをつくる仕事でした。学生の頃からお世話になっている東京の居候先のおかげで、プラハのアパートと3ヶ月毎に往ったり来たりの生活でした。今もそうだけどまさに季節労働者。そんな暮らしを5、6年続けたかな、そのうちだんだんチョーカーづくりが忙しくなってきたんです。

 shinoさんのもの作りの第二章が、いよいよ動き出してきた印象です。そもそも、チョーカーを作ろうと思ったきっかけとは?

ある日、アフリカン・アートのお店でチョーカーと出会い一目惚れしたんです。当時のボーイフレンドが器用な人で、見ようみまねで同じようなチョーカーを作ってプレゼントしてくれて。それが更にかっこ良かったものだから、「私も作りたい!」って、彼と一緒に作リ始めました。といってもあくまで趣味の範囲。その頃は、ビーズをパテでうめて古びをかけ、いかにもエスニック風に仕上げていたの。私は過去の作品は手元に残さないタイプだけど、元になった当時のチョーカーは、今もとってあります。

 「仕事としてイケるかも」という直観はありましたか?

仕事にするつもりは毛頭ありませんでした。たまたま日本から遊びに来た友人が、私が付けていたチョーカーを気に入り、じゃぁ作ってあげるよって。そしたら彼女から「他にも欲しい人がいるから、もっと作って欲しい」と連絡がきて。彼女は廣田理子さんというガラスジュエリー作家で、当時勤めていたガラス会社の同僚デザイナーにチョーカーを見せたところ、みな気に入ってくれたんだそう。そんな感じで頼まれれば自分用以外にも作るように。でも年に20本作っていたかどうか。その後予期せぬ展開で一度やめることに。それから1、2年くらいたった頃かな、また作れば?という勧めもあり、今度は一人で作り始めました。その時に「エスニックにこだわらずに、もっと万人向きにつけやすいものを作った方がいい」とアドバイスしてくれた人がいて、なるほどそうかって。たまたま自分の路線とうまくマッチしたこともあって、現在の形になりました。

 背中を押されるような出来事や的確な助言が、shinoさんの周りにはいつもあるような。

ほんとにそう。自分の預かり知らないところで周りが取り計らってくれて今がある。日本で個展をするようになったのもそうでした。2001年に当時渋谷区東にあった「ギャラリー介」さんでジュエリー5人展が企画され、知り合いのガラス作家が私のチョーカーを推薦してくれたんですね。ただ、もの作りを一度やめていたので、チョーカーで展覧会をするつもりなどまったくなく、話を頂いた時もそのように辞退しました。でも結局参加させてもらい、その翌年には私のチョーカーを最初に日本で広めてくれた廣田さんとの二人展、その次は個展、そして2006年にはガラス作家の高橋禎彦さんの「flower like」のシリーズとのコラボをさせてもらうに至りました。これも今から考えればよくもそんなこと言い出せたと冷や汗もんですが、ご本人の快諾とギャラリーの後押しがあったからこそ。私にとってひとつの転換となったこの展覧会に至るまで、本当にあれよあれよという展開で。全て40代になってから起きた出来事なんです。

 人生にいい風が吹いている印象です。一方でそうではない時、例えば心の視界がモノクロになる時に、shinoさんはどのように持ち直しますか?

無理して上向きになろうとしない。自分の意思で、いきつくとこまでネガティブに思いつめる。マイナス思考に罪悪感など感じずに、今自分はグダグダしたいんだ!と開き直って下降するに任せる。私自身、10回失敗しても11回目に成功すると思えるようなポジティブな人間ではないの。悶々と悩むし、根にもつタイプだし、もう面倒くさい(笑)。だからいっそどん底までいくと、そのうちそんな自分に飽きてくる(笑)。

 では、日常を色彩豊かにするために。何が一番必要だとshinoさんは考えますか?

私はもう楽しいことしかしないと決めたのね。自分でやろうと決めた以上は楽しもうと。でもこれが案外難しくて(笑)。気が付くと眉間に皺がよってたりする。それでも自分に言い訳はしないですむから。そのためには、やりたいことを自覚すること。そして、それを強く願うこと。自分の経験から願いは叶うと思ってます。でもそれは、強く願うことで自然と周りに伝わり、誰かが助けてくれるからこそ。自分ひとりでできることって、本当に限られているの。それはもう私は痛いほどわかっています。そのためにも行動することが大事だと私は思う。行動に表われるひたむきな情熱って伝わるものでしょ。伝わることで、助けてくれる人が必ずいる。だから、願いが叶わない時は、「もしかしたら自分が思っているほど望んでないのかも」と省みるバロメーターにしてます。あとね、とかく「shinoはアーティストだからできちゃうけど、普通の仕事してたらそんなの無理」とか言われることもあるんだけど、ほんとにそうか?って。「隣の芝生は青く見える」というけれど、決して青くない(笑)。苦楽はどの職業にも平等にある。やりたいことをしない理由は、その人の内にあるんじゃないかな。

 “やりたいことをしない”その言い訳を探す癖は、若くはない自分もしがちで耳が痛いです。むしろ年を重ねることによって、言い訳の弁だけは立つようになったりして。今の話にも通じますが、最後に。大きくて曖昧な可能性と小さくて厳しい現実とを行きつ戻りつしながらも、前に進もうとしている人たちへ、shinoさんからのメッセージをお願いします。

迷ったり遠回りをしてもいいから、目的と手段を取り違えないこと。それが大切なんじゃないかな。例えば、目的のために手段を選んで行動を起こしても、それに満足して目的を忘れてしまう人が多い気がする。もの作りでも、作品の完成形まではすごく考えて作り込んでいるのに、作品を人に見せるというその先のビジョンが欠落している人が多い。これはものすごくもったいない。なんのためにつくったのか?目的と手段の落とし穴にはまらないように。あとはそうだな……。評価はひとつだけじゃないってこと。お金や名声、評価には色々な形がある。でも、自分にとって一番大切なのはなにか?私の場合、一番大切なのは“人”。自分が作ったものを選んで身に付けてくれる人に真摯に応えたい。その想いが、今の私のモチベーションになっています。

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