自分が身を置く環境を整える
ご自身の生き方にキャッチコピーを付けるとすると?
「shinoさんの人生を映画にするなら、“すちゃらか”ってタイトルだね」これは、以前私のことを取材してくれた『ほぼ日刊イトイ新聞』の武井さんという編集者さんに言われたんです。武井さんもまた、素晴らしい方々とのご縁を繋げてくれたりと、私の背中を押してくれる一人。その武井さんにこう言われたら、客観的に見抜いていて、言い得て妙だなと思うしかない(笑)。確かにすちゃらかでなりゆきなんです、私の人生。
すちゃらか……(笑)。「あのなりゆきで今がある」そう思える人生のターニングポイントを教えて下さい。
そもそも私のもの作りの原点は、ガラスです。10代で吹きガラスがしたくて、20代の10年間は長野でガラスのワークショップのスタッフをしていました。後半に『グラスワーク(glasswork)』というバイリンガルのガラス雑誌の編集に加わり、30歳でチェコに単身渡るんです。そして、チェコでガラスビーズチョーカー作りを始め、展覧会をするようになったのが40歳からという……。私は年齢を考えて行動したためしがないんだけど(笑)、改めて内訳してみると10年周期で転機が訪れるみたい。
「ガラスをやろう」という決断が、とても早かったのですね。
中学生の頃から吹きガラスがしたくて、高校に行かずに職人さんに弟子入りしたいとすら思ってました。母に言ったら「あなた、15歳の自分をそんなに信用していいわけ?」って(笑)。その通りだなと思い、高校を卒業するまでは地元の横須賀にいました。当時は多摩美にガラス科ができたばかりの頃で、日本にはガラスの教育機関は殆どなかったんですよ。20歳になった時、「ピルチャック・グラス・スクール」(以下ピルチャック)といって、アメリカでガラスアートの最前線を学べるサマースクールの存在を知ったの。英語もまったくできなかったけれど、何とかして行きたい。バイトで貯めたお金と親からも借金して2週間のコースに参加しました。ここで、その後の人生に関わる大きな出逢いがあったんです。
高揚感が伝わってくるような。
ピルチャックに日本人が参加していること自体が珍しかった初期の頃の話です。英語が一番話せなかったのが私ともうひとり、チェコ人のおじさんだったのね。でもその人にはいつも取り巻きがいて。「あの人は誰?」と訊いたら「知らないのか?あの人は、世界のガラス界における人間国宝のような存在だよ」と。スタニスラフ・リベンスキー教授でした。奥様のヤロスラヴァ・プリフトヴァー女史とともに、1970年の大阪万博のチェコパビリオンに「生命の川」という壮大なガラスの作品を作り、それがソ連の武力統括に反抗する声明だと批判され、国内に20年間近く幽閉されていた方なんです。その年、晴れて幽閉が解けてピルチャックに招待されていたらしいの。そんなことすら知らなかった私は、遠巻きに彼らを見ていただけですが、まさか自分がそれから10数年経ってチェコに暮らし、そこでご夫妻に大変お世話になるとは。その頃は夢にも思いませんでした。
20歳のshinoさんの眼に映るもの、経験全てが印象的だったのでしょうね!
もうね、カルチャーショックの連続。それと、世の中にはIQが高い天才という人がいるものでして。そんな日本人の男性とも、ここピルチャックで知り合ったんです。私より10歳上で、パーソナルコンピューターが全く普及していなかった時代にプログラミングも自分でやるような人。何でもやろうと思ったことができちゃう人っているでしょ?その人が、ピルチャックみたいなことを日本でもやるから遊びにおいでと。海外から先生を呼んで、自分たちもガラスを学びながら作品を作れる場所を作ろうと。
場所はどちらに?
長野県の美麻村にあった「美麻遊学舎」という所。最初の年に遊びに行き、翌年からは押しかけスタッフとして、10年間海外から先生を呼んでワークショップをやっていました。独自のネットワークもできてきたんですが、後半はバブル絶頂期で、当時の首相だった竹下さんがお金をばらまき、“一億円村おこし”という政策を行った頃。地場産業がない村は、人工素材のガラスならイケると目を付け、各地にガラス工房が乱立しちゃったの。ガラスはテクノロジーによって進化するので、設備は良い方がいい。私たちはスポンサーもなく、お金のないところから始めてきたわけで、もっと良いところができたのなら自分たちはやめようって。でも、私たちのやってきたことは情報発信でもあったので、「次はメディアだ」と彼が言い出して。今度は雑誌を創刊することになったんです。
「次行こ、次!」という見極めも潔く、タフです。
『グラスワーク』というガラスの専門誌を作って、京都を拠点に5年間やりました。アメリカのガラスアートに影響を受けていたこともあり、バイリンガルで。Macにまだ日本語の編集ソフトがなく、レーザープリンターが150万とかする時代にDTPの雑誌を作ったものだからデザイン業界では結構話題になったんだけど、早すぎたのかな、あまり売れず。最後の一年は、言い出した当の彼が飽きちゃって(笑)、私が仮編集長をやったりと、好き勝手やってました。でもおかげで情報には困らなかったですね。あの頃ガラスのカルトクイズみたいなのがあったら、私は優勝できたかも(笑)。
今でこそ、ワークショップやバイリンガルの雑誌に対する認識は浸透していますが。
「ワークショップって何?」という頃に海外から先生を招いて学び場を運営し、「DTPって何?」という頃にデザインに特化した雑誌作って。今考えても私は、たまたま賢くて先見の明のある人と知り合って、時代のフロンティアな部分の“おいしいとこ取り”をしてきたんだなって。
とはいえ、shinoさんの労力は相当だったと思います。20歳のあの日から、夢中で走り続けている印象です。
本来そういうキャラじゃないのにね。お洒落からも遠ざかり、ありとあらゆるアルバイトをしました。若くて夢中だったから気付いてなかったけれど、自分の中で抑圧していたものは多かったみたい。
心の余裕を感じさせるshinoさんでも、心身がコントロールできない時期はありましたか?
29歳の時に。今思い返しても、あんなに辛かったことはない。でもだからこそ、その後、多少辛いことがあっても平気でいられるんですけどね。
ハードな時期を「越えた!」と実感できたきっかけとは?
ある日、アレクサンダー・カルダーの展覧会のチケットをもらったんです。カルダーは、モビールで知られ、ピカソとも親交のあった世界的彫刻家。その回顧展が東京で開催されていて。正直、美術展に行きたい心境ではなかったんだけれど、カルダーは大好きだったこともあり、気を利かせた友人のはからいで足を運んだのね。その展覧会で、カルダーが自分の普段づかい用のキッチンツールを作っていることを初めて知って衝撃を受けたんです。スプーンとかフライ返しとか、ささやかな雑貨がものすごく良い。それを見た時に、あぁそうか、私にとってものを作るとはこういうことかと。例えば自分のためにご飯を作るとか、セーターを編むとか、そういうことで自分のクリエイティビティは保てると思ったの。
心に光が差すような答えが自分の中に。
それまでの私は、社会に発表するもの作りにこだわり過ぎていたんだなって。自分がやりたかったことは、きっとそんなことじゃなかった。だからもう、作品を発表することはやめようって。ずっと続けてきたガラスとも、そこでいったん決別したの。
大きなものをいったん手放し後には、“日々新た“な展開はありましたか?
30歳でチェコで暮らし始めたこと。心身が参っていた頃、「しばらく日本を離れた方がいいんじゃない」と助言してくれる人がいました。雑誌の仕事は継続していたので、拡販の業務も兼ねてアメリカへ行くというアイデアもでたんですけど、色々な事情でそれがダメになり。じゃあどこへ行こうかとなった時に「そうだチェコに行こう!」って。
なぜチェコだったのですか?
その数年前に、あるギャラリーの人が、「shinoちゃんの持っているアメリカのネットワークと、うちの持ってるヨーロッパのネットワークをドッキングさせたらすごく便利になるんじゃない?」とチェコ出張に誘ってくれて。民主革命の2ヶ月後で、まだすごく暗い時代だったのに、なぜか強く惹かれたんですよね。それから2年の間に何回か通いました。でもまさか、住もうとは思っていませんでした。それが、国外にでる話が浮上した時に、突然「そうだ!」って。だから周りもびっくりしましたよ。