HIGHFLYERS/#37 Vol.2 | Sep 19, 2019

靴磨きという職業に出会うまでに培った技術が、今の職人技を支えている。若い頃は、何か夢中になれるものを常に探していた

Interview & Text: Kaya Takatsuna / Photo: Atsuko Tanaka / Cover Design: Kenzi Gong

靴磨き職人の千葉尊(ちばみこと)さんインタビュー第2回目は、千葉さんの幼い頃から靴磨き職人になるまでのお話を伺いました。宮城県の田舎で、8人兄弟の5番目として育った千葉さんは、ご両親に伸び伸びと育てられ、近くの山に毎日のように遊びに行って山菜採りをしていたそうです。中学校卒業と同時に職業訓練校に進んだ千葉さんは、訓練校を出ると、電気工、溶接工、製かん工などの技術職に就きました。そうして靴磨きという天職に出会うまでに手にした技術は、今の靴磨きの技術に大きく影響しているとおっしゃいます。若い頃に経験した技術職が今、どのように靴磨きに活かされているのか、また、それまでどのような生活をどこで送っていたのか、そして、靴磨き職人になるまでの人生から何を学んだのかもお話ししてくださいました。
PROFILE

靴磨き職人 千葉尊

宮城県出身。職業訓練校を卒業後は、材木、溶接工、鳶職などの仕事に携わっていた。ひょんな出逢いをきっかけに1997年、41歳の時に靴磨きを始めることになる。有楽町駅付近で営業していたが、2012年、東京交通会館内に「千葉スペシャル」をオープン。大企業の社長や国会議員、芸能人なども顧客を持ち、現在は有楽町と八重洲の2店鋪を経営している。

宮城県大崎町の野山を走り回って山菜採りに夢中になった幼少期。職業訓練校を出た後は、溶接工や製かん工など様々な技術職を経験

幼い頃はどのような子供でしたか?また、ご両親にはどのように育てられましたか?

宮城県大崎市で生まれ育ちました。兄弟が8人もいて僕は5番目だったから、もう野放し状態ね(笑)。8人のうち2人は若い時に病気で死んじゃって、大きくなってからもう1人亡くなったので、今は5人になっちゃったけど。少年時代はめっちゃやんちゃでいたずらっ子もいいとこだった。それに家の周りは自然しかなかったから、いつも低い山に登って、親父に連れられて山菜採りをよくしていましたね。わらび、ぜんまい、筍、タラの芽なんかを採ったけど、きのこは見分けがつかないし、毒もあるからあんまり採らなかったね。

自然に近い環境で育ったんですね。

うん。山菜採りで一番ハマったのは、ユリ根を採ることだった。ユリ根って枯れた色をしているから、見分けて採るのが難しいのよ。だからどうしても目利きが必要になる。それに、夏は栄養がとられてしまっているから、美味しいのを食べたかったら冬に採るほうがいい。小さい頃からずっと自然の恵みをそのまま食べているので、今スーパーで売っているものは食べたいと思わないね。そうやって自然の中で子供の頃から経験してきたことやそこで得た知恵は、今の仕事にもの凄く関係してるよ。

そうなんですね。その頃、将来の夢は何かありましたか?

何にもない。ただ生きるだけだった(笑)。

その後、どういう少年時代を過ごしましたか?

小学校から変わらないね。運動はキツいのが嫌だったから、中学校の部活は木工クラブと科学クラブに入ってたけど、ただ所属していただけで活動は何にもしなかった。そして、中学を卒業した後は職業訓練校に行ったんだ。

職業訓練校を出て、一番初めに就いた仕事は何ですか?

東京に出てきて電気工をしました。そこで、二十歳になるまでの4年間働いて、そのあと実家に帰ってきて材木業をやり、それから福島第一原発で働きました。そこには溶接の仕事をしている腕の悪い職人がいて、僕よりいい給料をもらっていた。それを見て、「俺の方がずっと上手いのは間違いない。あいつの技術であれだけ良い給料を貰えるなら、俺も溶接の仕事に移った方がいい」って思ったんです。それで高給取りになりたいが一心で、技術を身につけて溶接工になりました。そこから人生が変わっていったね。今思えばあの原発で働いていた時に転機が訪れたんだと思う。

溶接工(溶接とは、アークなどを発生させて複数の金属などを溶かして接合する作業)で一番大事なことはやはり技術ですか?

そうだね。大事というよりも、溶接って、アーク長(溶接を行う際のアークの両端間の距離)が近ければ近いほど金属は酸化しないけど、遠くなるほど酸素が入って質が悪くなるんだ。でも距離が近すぎると今度は金属同士がくっついてしまう。一定のアーク長を保たないといかんから技術がいるんだ。

溶接工で得た技術で、今の靴磨きに役立っていることはありますか?

溶接は熱を加えるから金属に歪みが出るのに対して、靴磨きは熱も使わないし靴に歪みも出ない。だから技術的には溶接の方がずっと難しいけど、間違いなくその技術は靴磨きに影響しているね。

どんな点で活かされているのでしょう?

例えばブラシの使い方。クリームの量に合わせてブラシを動かすスピードを調整していくんだけど、溶接工をやっていたから、どのタイミングで、どのくらいのスピードならクリームがうまく溶けて革と馴染んでいくのかが自然とわかる。早く溶かしたくても、適したペースでしか金属が溶けていかないことを溶接工で学んだように、靴の素材に適したスピードや温度でクリームを溶かしていくことが靴磨きもとても重要だからね。スピードつけてガーッと磨いたって、ただクリームを周りに飛ばしてるだけだよ(笑)。

では、溶接工から靴磨き職人なった経緯は?

溶接工になってからは、同時に製かん工という、 鋼鈑を溶断して穴をあけ、折り曲げてから溶接して仕上げ加工を行う、建設機械などのベースやフレームを作る仕事にも就きました。でもその仕事は単調で好きじゃなかった。その後、靴磨き職人になるまでは13年くらい空白の時間がある。実はちょっと遊んでしまったんだね。

空白の13年。その後はどこから話していただけますか?

1994年、関西で阪神大震災を経験したことでしょうね。大震災が起こる前、働き先の会社と喧嘩して辞めてしまって、1年間くらいパチンコで飯を食っていた時期があったんです。当時は姫路に住んでいたんだけど、震災の起きる1年前から、震災が来る予感がしたんだろうなぁ。それで、姫路を離れて大阪に来たんだ。大阪の梅田の繁華街でずっとパチンコをやってました(笑)。

震災が起こった時は、何をしていたんですか?

いつも通りに車を運転してた。伊丹空港近くの橋の上にいて、普段なら渋滞にならないところでたまたまその日に限って渋滞になっちゃったんだ。もし渋滞にならなかったら阪神高速に乗っていて、壊れた橋に出くわしてたかもしれない。 超危なかった。あれは凄い地震だったね。

ご無事で良かったです。震災の後は、どうなさったのですか?

3年くらい経って1997年に東京に来た。パチンコはもう辞めて、鍛治鳶といって、高台を組み立てる作業や、足場を作る足場鳶をしていました。でも、僕は免許がないのに責任ばかり持たされて、そのうちいやになっちゃってね。色々仕事をやりながら遊んでもいたけど、いつも心のどこかでは、何か自分にしかできない仕事を見つけて夢中でやってみたいと思って探していたんだ。

なるほど。そろそろ靴磨きに出会う頃でしょうか?

いや、そのあと今度は新宿将棋センターに出入りするようになったんです。羽生名人は当時そこで将棋の指導をしてました。だから直接の面識はないけど将棋ファンとしてはよく知ってるの。こんな強い人がここに来てるんだって思って、指導しているところをずっと見てました。将棋センターには、他にも有名な人がいっぱい来てたね。

千葉さんは仕事以外にもたくさん趣味や遊びがありますね。

いっぱいある。まずゴルフでしょ、将棋、碁も。パチンコも競馬も競艇もみんなやってた。パチンコはセミプロだった時期もあるけど、その頃は、そういったことも時間があるうちにエンジョイしておかにゃいかんなと思ってたんだね(笑)。でも今は何もやってない。仕事が終わるともう疲れちゃって、遊ぶ元気がないから辞めざるを得なくなったんだな 。音楽は聴かないし、今はせいぜい将棋とか碁の本を買って読んでるくらいだね。あとテレビは、「相棒」とか「科捜研の女」などが好きでよく観ているよ。

それでは、靴磨きに出会うまでの人生でご自身が得たものは何ですか?

僕が靴磨きに出会うまでに就いた仕事は、農業、電気工事、材木業、溶接工、製かん工、鍛冶鳶、足場鳶といろいろあるけど、それぞれの仕事が大切なことを教えてくれたんだと思う。例えば、農業や材木業からは、生き物の扱い方を学んだし、溶接や製かん工からは、材質に合わせた力加減やスピードを身につけることができました。そうやって多くの職業経験から得た知恵や技術が、集大成となって今の靴磨きという職業に活かされている。やっぱり靴磨き職人にはなるべくしてなったんじゃないかって思います。

次回へ続く

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