早くゴールに着くために、決断と行動を早回しにする
お話から伝わってくる“前向きな貪欲さ”が魅力的です。天性の資質でしょうか?
確かに、夢は大きく野心も旺盛な子供でした(笑)。やりたいことの見極めが早かったといいますか。7歳までは、父の仕事の関係でNYの郊外で育ちました。アメリカのデザインは、プロダクトから広告の色彩に至るまで、子供の感性にも響く明解な美しさがありますよね。日本の芸術は、奥深くて複雑ですから。子供心なりに、手に職を持ち、何かをデザインする仕事に憧れていました。さらにアメリカは、周りと違うことをすると「君は凄いね!」と褒めてくれる気質がある。意思表示をよしとする環境で育ったことは、自分の根幹になっています。
ご両親の教育方針もクリエイティブでしたか?
クリエイティブな方針だったら素敵なのですが、残念ながら、母は自分のペースを崩さず、常に変化を求めてよく動く人。自宅を外国人のための貸し家にしたりして、DIYをよくしていました。帰宅するとドアや壁の色が変わっているのはしょっちゅう(笑)。でも、そういうのって純粋にワクワクするんですね。その頃の記憶が、今の仕事に結びついているように思えます。商社マンの父は、あの世代にはよくいるタイプの超仕事人間。家にはほとんどいなくて、日帰りで日米を往復したりして。「人間、このぐらいタフに働いても大丈夫」という感覚は、知らず知らずに譲り受けているのかもしれません(笑)。
人気が高い日本女子大学家政学部・住居学科に進学されます。
10代の頃から海外のインテリア雑誌が大好きでした。当時、マドンナなど海外スターの自宅を紹介するページがあると、家具や調度品の細かい配置を覚えるほど夢中で読み込んでいました。こんな素敵なインテリアデザインを心いくまで学べるんだと期待を胸に進学したら、待っていたのは、地味に大変な構造力学や難解な設備の環境の計算。当たり前ですよね(笑)。伊東豊雄さんなど、高名な建築家が設計演習の授業をして下さり、未来永劫に続く建築とは、何て素晴らしいものかと実感しました。と同時に、並々ならぬ根気と努力が必要で、到底私には続けられない。何より建築の才能は私には無いと思い知りました。
在学中には、ダブルスクールでインテリアの専門学校も卒業されています。
「突き抜け感が足りない」と、大学在学中は悶々としていたんです。要は、不真面目な私は、真面目な勉強にトキめくことができなかったのですね(笑)。インテリアの専門学校は就職が目的ですから、理論より実践。予算の中で、瞬間的にいかにクライアントの要望に応えるかを学ぶプレゼンテーションの授業もあり、衝撃を受けました。相手を納得させる話し方の講義など、凄く面白くて性に合っていましたね。
就職されたのは株式会社松田平田設計。商業建築から公共建築、文化施設を総合的に手掛ける大手設計事務所です。
在学時代から個人のアトリエ事務所でアルバイトをしたり、ハウスメーカーへの就職の可能性も自分なりに探ったのですが、地に足のついていない私にはどうもピンとこない。そんな自分が心から憧れるのは、例えば海外のホテルなど、非日常感がありながらも、多くの人の共感や話題性を呼ぶ、コンセプトが明確な空間設計。松田平田設計はホテルの内装も多く手掛けていて、クリエイティブな社風も感じられて。その中に自分も参画したいと思い、就職が叶いました。
当時、設計会社での女性社員登用は珍しかったのではないでしょうか?どんな社員でいらっしゃいましたか?
私が入社した頃は、設計に携わる女性社員の登用は1%にも満たなかったと記憶しています。当時はバブル全盛期。仕事も大型案件が引きも切らず、社員全員が忙しく、私のような新人でも、もちろん最初はアシスタント業務からですが、プロジェクトの全行程に参画することができたんですね。良くも悪くも放置され(笑)、何でもアリな勢いがある時代ではありました。なかでも印象的な案件は、インテリアデザイナーとして携わった金沢の日航ホテルの内装です。私ときたら、無知なくせにやりたいことだけは人一倍。生意気な社員でしたね。自分のイメージを心ゆくまで追求するためには、結局はひとりで試行錯誤しながらやってみるしかないのかな……。思考と現実はリンクするものなので、そう考え出すと、不思議と状況も変わってくるんですよね。通っていた美容院から内装を依頼されたり、知人の紹介で住宅のリフォームの話が矢継早に舞い込んできたりと、サラリーマンを続けていたら出来得ないチャンスが偶然的に重なって、独立することになりました。今は独身ですが、その頃ちょうど結婚したことも大きかったですね。未婚なら一歩踏み出せない独立も、結婚すれば“渡りに船”でイケるかも……と、こんなに正直に申し上げていいのかしら(笑)?
はい(笑)!女性にとって、結婚が独立の後押しになることはリアルなので共感しています。独立の意思を固め、最初に起こしたファーストステップを教えて頂けますか?
新婚の自宅の6畳間を事務所にし、MACを買うという地道な第一歩でした(笑)。今では信じられない話ですが、組織事務所にいた頃ですら、作業の全ては手作業。手書きで書いた文書をワープロ分室で打ってもらう時代でした。MACを使い始めるも、インターネットの接続が驚異的に遅くて(笑)、何もかも自分ひとりで手探りでのスタートでした。試行錯誤の連続で、現場の人から「ネエちゃん、ええ加減にせえよな」と怒鳴られたり、クライアントからテーブルを叩かれたりはよくあること。今から20年前、27歳の頃の話です。
顧客開拓はどのようにされたのですか?
今にして思えば、駆け出しの私を指名して、店舗や住宅の内装を依頼して下さった方々は、部分的なリフォームだけお願いしたいという軽いニュアンスだったのかもしれません。でも私は、勝手な思い込みで、トータルな空間設計をするのだという意識で取り組みました。これは今の仕事の流儀になっていますが、クライアント自身が5年後10年後にどんな環境を望み、どうなっていたいのか?彼等の未来の姿にふさわしい空間を創ることが私の役目だと思っています。身をおく空間というのは、間違いなく人間の生理や思考に影響を与えます。クライアント自身も気付いていない趣向も想像して、リサーチし、最善の策を探り当てていくわけですから、当然時間も予算もかかります。予算を大きく見積もっても、設計料は固定なので、時間ばかりかかるので儲けには至らないのですが、緻密な工程を経た作品は“非常識な良いもの”に仕上がり、驚いてもらえる。どこにも無い作品を気に入って頂いたクライアントから別の仕事を紹介されて、予算や工期、単体の仕事のスケールがどんどん大きくなって、ということの連続でした。何より、クライアントに恵まれました。
引きの強さを実感します。一方で、クライアントの予想をはるかに凌ぐ“非常識な良いもの”を創造し続けることは、自分を追い込むことでもあります。
仕事のプロジェクトの規模が大きくなるにつれ、体力的にも精神的にも大変になるのは確かです。ですが、それは仕事の本質なので、受け入れられるもの。むしろ私が危機感を抱いたのは、ひとりや少人数で設計事務所をやって個人住宅を手掛けていると、対お客様との関係性しかなくなり、自分の実力を俯瞰できなくなってしまうこと。大手設計事務所にいた時は、チーム体制なので他人と比較でき、ライバルと切磋琢磨もできます。集団で仕事をする時は、耳の痛い意見も入ってくることも多く居心地は悪いのですが、その居心地の悪さは必要なことでもあるんですよね。そういったことも独立してから痛感しました。私は、インテリアのセンスに関してはブレない自信がありますが、建築に関しては明らかに実力不足。ではどうするか?と考えた時に、多くの個人住宅や羽田空港ターミナルビルの設計も手掛ける建築家、宮原 新さんの会社「(株)スタジオ アキリ」に在籍させてもらうことにしたのです。
行き詰ったら今いる環境に固執せず、ひらりと新しい環境に身を置く。“柔軟性”も印象的です。
きっと私は、結果に早く辿り着きたいんですね(笑)。早くゴールから見える景色を見てみたい。ならば自分の決断と行動を早回しにして、才能ある人とは積極的にコラボレーションしたいのです。
作品集『空間演出家 池貝知子の仕事と意見』の「証言:池貝知子とは誰か」の項で、建築家の宮原 新さんは「彼女の特徴は、目利きであることとあきらめないこと」「言い出したらきかないから、つい一緒に仕事をする羽目になってしまう」と寄稿されています。
まったくその通りです(笑)。私は、「直観とは、持っているものを全て活かすこと」だと考えているんです。自分の実力不足を埋めるためには、宮原さんのクリエイティブな才能が絶対に必要。いいものを創り続けたいから、私は走り回ってクライアントを開拓し、予算を増やす説得をして、自分のできることをするしかない。2006年には、自分の会社「アイケイジー」を設立しましたが、以降の仕事も、真っ先に相談するのは宮原さんです。ご本人は「またかよ、やれやれ」とおっしゃっていますが(笑)。