コンプレックスを味方に付ける
「自分で人生をリセットした」。そう言い切れるタイミングはいつでしたか?
19歳で故郷の淡路島から東京に出たことです。文化服装学院への進学だけは決まってはいたものの、キラキラしたものとは無縁の田舎で育った女の子が、アルバイトで貯めた僅かなお金だけ持って都会へ、という一つの冒険でした。
「ここではない何処かへ」と、突き動かされるように?
もし私が東京で生まれて、刺激的なモノやたくさんの情報に囲まれて育っていたら、今の自分にはなっていなかっただろうなって。私にとっての島時代は、もう思い残すことばかり。でもその原因は、環境にではなくて自分の内側にあったもの。私が生まれ育った淡路島の島コミュニティは、人との距離感が密接で、孤独じゃない。とても温かいんですよ。早寝早起きの健やかな暮らしがあって、毎日家族とご飯を食べて、大切に守られている伝統もある。とどまることで掴める穏やかな日常は確かにあるんです。でも、そこで勇気を持って一歩踏み出してみたら、私の場合は新しい世界が待っていたという。自分の意識を変えてみると、その人にとっての“ここではない何処か”への扉が開けるのかもしれません。
意識を変えると世界が広がる……。清川さんのオリジナル絵本『ココちゃんとダンボールちゃん』のストーリーが思い起こされます。「ココにいるよ」のココちゃんが外界と繋がっていく、大人の心に染み入る豊かなお話です。
あの絵本の主人公ココちゃんは、ほぼ私。19歳の時に着想したストーリーです。物語の底にあるテーマは、私自身もとことん向き合ってきた、そして今も付き合っている“コンプレックス”そのものです。
“コンプレックス”の定義とは?
誰にでも、何処にいても影の様についてくるもの。年齢を重ねるごとにコンプレックスの質も変わってきますしね。どんなに美しくても、類いまれな才能に恵まれていても、その人にしかわからない苦悩がある。家族に囲まれて幸せに映る女性が満たされていないこともある。完全無欠の人なんていなくて、神様がバランスをとっているかのように、誰もが二極性を秘めているんですよね。そこが魅力的だし、飽きない部分だなって。
清川さん流“コンプレックスの傾向と対策”とは?
自信を味方に付けること。私の場合は、それがファッションでした。私、小中学生の頃は、何の個性もないということがコンプレックスで、自分から何もしたくない子供だったんです。完全に閉じていましたね。“無気力症候群”とはあのこと。
現在のタイトなスケジュールを思えば、仕事の神様が「今の内にたっぷり休んでおきなさい」と仕向けていたのかもしれませんね。
フフ、そうかも。くすぶっていた反動からか、高校に入ってからはファッションに目覚めました。ピンクの前髪、バイトをして買った真っ赤なヴィヴィアン・ウエストウッドのコート、ヒールの靴で通学してました。モンスターIn淡路島です。自分が好きでやってて楽しかったので、雰囲気も一気に明るくなるんですよ。後輩たちから騒がれて女子限定のモテ期がきたり(笑)。それまで自信が無さ過ぎた私に、初めて彼氏ができたのもその頃でした。
日常がモノクロからカラフルに。とはいえ、突然の変化にご両親は驚かれたのでは?
そこには母と娘の壮絶なまでのバトルが。父は、何をしても褒めてくれて、逆に「ちゃんと私を見ている?」と心配になってしまうような人なのですが、保育士をしていた母は教育至上主義で、母娘の強烈エピソードを挙げたら、もうキリがない。三姉妹の長女である私に向ける情熱は集中攻撃的な偏りがあって、お互いがお互いにとってしんどかったですね。私は、何事も「なんでなんで?」と理由を徹底的に調べないと気が済まない性分なので(笑)、両親それぞれの背景を調べて自分なりに分析してみたことがあるんです。すると、母が母自身にも、そして同性である娘の私に対して向けた生真面目なまでの厳しさの底にあるものが、ストンと腑に落ちたんですよね。今私は35歳ですが、30代を過ぎてから母に対しても優しくなれました。母も、今は私の活動が元気と勇気の源になっていると言ってくれていて、すごく風通しのよい前向きな関係に。「距離を置いて本当に良かった」、そう思います。親元を出ずに、あのまま母の理想像に自分を合わせていたら、共倒れしていたんじゃないかな。自分が思うように生きれないことを母に責任転嫁したでしょうし。人間関係も、一度リセットすることが大切なんですよね。
今、故郷の淡路島はどんな存在ですか?
“地元愛”というものは、あえて声高に言うものではなく、個人の心のうちにあればいいと以前は考えていたんです。でも、故郷でのイベントや講演に呼んで頂く中で、「何かをお返しできたら」と自然と思うようになりました。地元の友達との再会は笑いが絶えなくて素直に嬉しい。年に数回帰郷できることは、今はとても楽しみなんです。
新刊の作品集『ひみつ』の文末に添えられたユニークな「清川あさみ年表」によると、「上京したその日に、数誌から読者モデルにスカウトされる」という項が。清川さんらしい、印象的なエピソードです。
「すごく小さいのに、存在感は大きかった」。私に声をかけてくれた編集者さんが今もそう言ってくれるんです。私は身長が150㎝なんですが、上京したあの日はヴィヴィアン・ウエストウッドのお気に入りのお洋服を身に付けてご機嫌。ひとまわり大きな気持ちでいたんでしょうね(笑)。「スターは勘違いから生れる」。これは秋元康さんの言葉なんですが、それってリアルに共感できるんです。女の子が自信を味方に付けた時、それは仕草や表情、目線全てに表れるんです。
『CUTiE』(宝島社)や『A-Girl』(学研)などの誌面に清川さんが登場された頃は、“読者モデル”という言葉が生まれたぐらいの時でした。
そうなんです。普通の子が表に出るということは、それだけでリスクが大きいことでした。何もわからないままデビューして、プロのモデルさんと比べられて、色々なことを言われて嫌な思いもしました。でも、ファンレターから自信をもらったり、イベントのMCや連載のお仕事もたくさん頂いて、雑誌だからこそできる経験は全てやらせてもらった。今、第一線で活躍されているクリエイターの方々と出逢えたのもこの頃。当時から私は、モデルさん同志よりも、編集者さんやカメラマンさんと仕事論をする方がしっくりきていたんですね。あ、私もコチラ側だなって。あの時代が無かったら今の自分は無いと思える。感謝の気持ちしかありません。
充実していたモデルのお仕事とは、その後はどう向き合ったのですか?
「自分を使って表現できることに限界はあり、プロのモデルさんじゃないと成り立たない世界が多くある」。そう気付くのに時間はかかりませんでした。自分の頭の中にあるビジュアルイメージが大きくなればなるほど、その真ん中にいるのは自分ではなくて違う人だと。自分の中でも、モデル業は文化服装学院を卒業するまでという区切りもあり、3年間でフェイドアウトしました。でも、“セルフプロデュース”という観点でいえば、今私がやっていることとモデルというお仕事の軸は同じ。もはや自分が素材ではないけれど、衣装のデザインや空間ディレクションは、対象を活かしきって最大限に魅せること。経験は繋がっているものなんですよね。