HIGHFLYERS/#58 Vol.2 | Mar 16, 2023

高校時代の試練を乗り越え、名門イェール大学へ進学。金融業界での10年間の激務を経て、34歳で会社を辞めて世界一周の旅へ

Interview & Text: Kaya Takatsuna / Photo: Atsuko Tanaka

浜田さんインタビュー第2回目は、高校生の頃から就職して会社員生活を送っていた時代のお話をお聞きしました。90年代初頭、まだジャパンバッシングが盛んだったアメリカで、多感な高校時代を過ごしますが、そこで浜田さんが得たものはなんだったのでしょうか。その後、大学は名門イェール大学へ進学、就職が決まった後の半年間をパリで暮らします。そこで今でも記憶に残るほどの素晴らしい食を体験したことが、その後の美食の旅につながっていきました。この章では、浜田さんがヨーロッパで体験した感動的な美食とクラシック音楽の思い出を中心に伺いました。
PROFILE

フーディ 浜田岳文

1974年兵庫県宝塚市生まれ。米国・イェール大学卒業(政治学専攻)。 大学在学中、学生寮の不味い食事から逃れるため、ニューヨークを中心に食べ歩きを開始。卒業後、本格的に美食を追求するためフランス・パリに留学。 外資系投資銀行と投資ファンドにてM&A・資金調達業務とプライベート・エクイティ投資に約10年間携わった後、約2年間の世界一周の旅へ。帰国後、資産管理会社(ファミリー・オフィス)社長を経て株式会社アクセス・オール・エリアを設立、代表取締役に就任。 南極から北朝鮮まで、世界約125カ国・地域を踏破。一年の5ヶ月を海外、5ヶ月を東京、2ヶ月を地方で食べ歩く。 2017年度「世界のベストレストラン50」全50軒を踏破。 2018年度・2019年度・2020年度・2021年度「OAD Top Restaurants(OAD世界のトップレストラン)」のレビュアーランキングで4年連続第1位にランクイン。 国内のみならず、世界の様々なジャンルのトップシェフと交流を持ち、インターネットや雑誌など国内外のメディアで食や旅に関する情報を発信中。 グルメサイト「食べログ」ではグルメ著名人、グルメキュレーションサービス「テリヤキ」ではキュレーターとして、世界の美味しい店を紹介している。 株式会社アクセス・オール・エリアの代表としては、エンタテインメントや食の領域で数社のアドバイザーを務めつつ、食関連スタートアップへの出資も行っている。

就職までの半年間、パリに滞在して美食とクラシック音楽を堪能。ミシュラン星付きレストランとの出会いが、美食への造詣をさらに深めていった

高2の時に1年間行った交換留学はいかがでしたか?

正直つらかった思い出しかないですね。当時はジャパンバッシングがまだ残っている時期で、歴史の授業中に生徒が立ち上がって、「私は日本が大嫌いです」って言われたこともありますし、スクールバスを待っていた時に、違う学校のバスの中から生卵を投げられたこともあります。それに留学生が全然いない学校だったので、英語ができない=頭が悪い、話すに値しないみたいな風に思われる。高校生って忍耐がないから、一度何か言われて返せなかったら、もう二度と話しかけてくれない状況で本当につらかったです。日本人がアメリカの田舎に住むこと自体がとても居心地の悪い時代でした。

それは孤独でしたね。

ずっと孤独でした。だけどやっぱり負けず嫌いなところもあるんで、少なくとも勉強では絶対負けないと思って頑張ったら、二学期にはクラスで1番になれました。そうすると現金なもので、皆の僕に対する見方が変わって話をしてくれるようになったので、後半は友達ができましたね。学校から帰宅後はずっと勉強しましたし、朝も早めのスクールバスで学校に行って、職員室の先生の机を順番に回って、前日の授業でわからなかったことを嫌がられるくらい質問しました。最終的に成績優秀者の一人に選ばれて卒業できたのですが、その1年で僕はすごく孤独に強くなったし、逆にシニカルな言い方をすると、高校の原体験として人って変わるんだなって痛感しました。

アメリカ留学時代

その後、名門イェール大学に行かれて、そこで食への好奇心に火がついたとおっしゃっていましたが、大学時代で今も印象に残っているお店や食べ物はありますか?

学校のあったニューヘイブンって、 結構インターナショナルというか、エスニック系の料理が色々あったので、タイ料理や韓国料理をよく食べてましたね。日本料理はアメリカでよくあるんですけど、定食みたいなのを頼むと、まず最初に味噌汁だけが単品で出てくる。洋食のスープ扱いされてるっていう(笑)。 25年 以上前のニューヘイブンはそんな感じだったので、日本食を食べに行くぐらいだったら、韓国人がやってる韓国料理屋に行った方が美味しかったです。でも、ニューヨークに行った時は、お好み焼きの店「千房」や、日本の有名なイタリアンの支店で数多くの名シェフを輩出した「Basta Pasta(バスタパスタ)」にはよく行きました。当時はのびたパスタばかりだったニューヨークで、まともなパスタが食べられるほぼ唯一の店だったんです。

大学のあとは、一度パリに行かれたんですよね?

そうですね。うちの大学って、卒業する能力のない人はそもそも入学できないから、卒業するのは当たり前なんです。大事なのはどういう成績で卒業できるかで、良い成績じゃないと会社にレジュメ(履歴書)を見てもらえないし、トップの大学院には進学できないんです。GPA(評定平均)4点満点で3.3以下とかだと、例えばトップのコンサルとか投資銀行とかは面接にたどり着けない。だから、みんな大学に入ってからもめちゃめちゃ勉強するんです。僕は文系だったんで、一週間に読まなきゃいけない本の量が大体400から500ページくらいあって、週に2、3本論文を書く生活をずっとして、週一徹夜が当たり前みたいな状況で。ちょっと疲れたから、就職する前に一旦リセットしたいなと思ったんです。それで、単位を早めに取って3年半で卒業を決めて、就職するまでの半年間はやりたいことに費やすことにしました。大好きな食とクラシック音楽鑑賞の両方を満喫できるところはどこかと考えた結果、パリを選びました。

パリに半年間滞在した時

それで半年間パリに滞在して、食べまくって聴きまくったんですか?

そう、毎晩クラシックのコンサートに行くかご飯を食べるか。一応、学生としてソルボンヌ大学の外国人が受けられるコースを取って勉強してましたけど、メインは夜。コンサートは、当日キャンセルになったチケットが出ると、それを学生に回すシステムがあって、開演の1時間前ぐらいから並ぶと大体手に入るので、毎晩1,000円ぐらいで楽しんでいました。

印象に残ってる音楽や食はありますか?

音楽は、フランスを代表する現代音楽の作曲家であり指揮者のピエール・ブーレーズが、急遽ピンチヒッターでパリ管弦楽団を指揮することになった時の演奏がめちゃめちゃすごかった。パリ管弦楽団は地元のオケなんでほぼ毎週聴いてたんですけど、フランス人の音楽家って指揮者によってパフォーマンスが全然違うんですよ。経験の浅い指揮者だとナメまくってひどい演奏をするのに、ブーレーズに対してはみんな超尊敬してるからすごいちゃんとしてて、本気出せばこんな心に響く演奏ができるんだ、すごいなって思ったのを覚えています。 あとは、その半年間の滞在の時ではないけど、今までヨーロッパで聴いたなかで一番印象残ってるのが1996年のBBC Proms。Promsは、毎年夏にロンドンで開催される世界最大級のクラシック音楽のフェスで、世界中のオーケストラや演奏家が出演します。そのメイン会場のロイヤル・アルバート・ホールで、クラウディオ・アバドっていう指揮者がベルリンフィルを指揮して、マーラーの2番「復活」をやったんです。それが本人が闘病から復活した時で、めちゃめちゃ曲のテーマと合っていて。その演奏が神がかっていて、感動したのが記憶に残っていますね。

面白いです。食はなにかありますか?

食で言うと、その当時のパリはカジュアルなものに関しては日本より高かったけど、高級なものに関しては日本より安かったんですよね。日本で3、4万円するレストランって当時すでに何軒もあったけど、パリにはほぼなかった。その中でも覚えているのが、アラン・デュカスが当時パリではあまり使われていなかった白トリュフを流行らせたことです。私の記憶が正しければ、白トリュフのコースが確か1,700フランくらい(約38,000円)で、当時では飛び抜けて高かった。でもそれは白トリュフの時期だけで、普段はディナーで25,000円、ランチで1万円ちょっとあればパリの三つ星が食べられたんです。もちろんそれでも頻繁には行けなかったですが、今パリの三つ星に行ったらコースにグラスワインを1、2杯合わせて10万円が当たり前なので、その当時回っておいてよかったとしみじみ思いますね。

パリで食べ歩くようになってさらに食への造詣が深まっていくんですね。

印象に残ってるのは、日本でも六本木のインターコンチネンタルに店を出している三つ星の有名シェフ、ピエール・ガニェール。彼がちょうどリヨン郊外からパリに出てきて、初年度に二つ星を獲った時に食べた料理は、すごく斬新で感動しましたね。あとは、「La Table d’Anvers(ラ・ターブル・ダンヴェール)」っていう、コンティチーニ兄弟のお店があって、そこは一つ星だったんですけど、兄が料理人で弟がパティシエで、ふたりでコースを作る。すごくユニークだったのが、食事が4皿でデザートも3、4皿とか、食事とデザートを同じぐらいの比重で出す店で。この15年ぐらいでデザート専門レストランも出て来てますけど、その当時はほとんどなかったんです。デザートにここまで焦点を当てたレストランは革新的でしたね。

浜田さんは今日本にお店を出している名シェフやパティシエの料理を20年前にパリで体験していたんですね。

弟のフィリップ・コンティチーニは当時は本当に面白いことをやっていて、一個印象に残っているのはモンテクリストという葉巻をテーマにしたデザートです。スモーキーな苦味もあってすごく面白いなと思って。デザートでよくあるのは 一皿はフルーツ系、もう一皿はチョコレートとか、分かりやすく被らないけど、もう一皿足す時になかなか難しいんですよね。砂糖を大量に使う日本の和菓子に比べたら、西洋はチョコレートがあるんで、方向性の異なるものを盛り込んでコース仕立てにしやすいとは思いますけど、それにしても彼のデザートはバラエティ豊かで、さらにその葉巻の香りを持ち込んでいたのは未だに覚えていて。本当にまた作ってくれないかなと思うほど一番印象に残ってます。

パリのあとは日本に帰って来たんですか?

メリルリンチっていう米系投資銀行に就職して、最初ニューヨークで3ヶ月ぐらい仕事してから日本のオフィスで働くようになりました。企業がお客さんで、企業の財務戦略や資金調達のお手伝いをしたり、あとは会社のM&A(合併買収)のアドバイザーをしたりというのが仕事でした。

メリルリンチに入ってご自身が大きく変わったことはありますか?

メリルリンチには私が所属していた投資銀行部門以外にトレーディングやセールス、リサーチなど様々な部門があって、それぞれ異なった強みを持った人が集まっていたんです。中でもセールスの方々とご一緒することが多くて、そのときに感じたのが、私が得意としていたロジックの強さとか、議論が正しい正しくないで決まる部分なんて本当にごく一部なんだなって。特に人間関係はすごく大事で、極端な話、コミュニケーションスキルと論理的思考能力のどっちか一つしか持てないとしたら、コミュニケーションスキルの方が有用ですよね、明らかに。

激務を想像しますが、仕事しながらも食べ続けていたんですか?

そうですね、食べることに興味は持ち続けていたけど、現実的にやっぱり社会人最初の4年間って外食できるのは金曜、土曜の夜ぐらいでした。だいたいいつも夜中2〜3時ぐらいまで仕事で、遅いと5時とか徹夜。当時は1日16〜18時間仕事するのが当たり前で、外食の機会は限られるので、深夜営業の店にめちゃくちゃ強くなりました。「アロマフレスカ」って今銀座にあるイタリアンが広尾にあった頃、確かラストオーダーが1時だった。だからたまに早く帰れる日、12時半頃に滑り込んで食べて帰るってことをしてました。そういう遅くまで営業しているお店ばっかり通ってましたね。

それでは、今のように頻繁に外食されるようになったのはいつからですか?

本格的に食中心の生活になったのは12年前です。金融業界で、投資銀行と投資ファンドを合計10年間やったんですけども、そこを離れて、世界一周の旅に出たんです。2年間世界中を旅して、帰ってきたのが36歳の時で、そこからはもう食中心の生活になりました。

次回へ続く

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