ゼロ地点からのファーストステップ
air:man結成以前・以後の人生にキャッチコピーを付けるとするならば?
杉谷:自分たちを「振付稼業air:man」と名乗ったこと自体が命題なので、「稼業以前」「稼業以後」という答えが腑に落ちます。結成にあたり、改めて日本のシステムにおける振付師の立場を見直してみたら、ダンサーとの境目が中途半端にシンクロしている職業、いや職業以前だなと実感しました。曖昧な現状だからこそ、逆発想で仕事として無限に広げられるなと。加えて、ダンスには著作権が無いという現実。これは結成直前の話なのですが、当時取材で「ダンスに著作権を!」という主張をしたら、余計なこと言って波風立てるな的な意見が多かった。なるほど、日本ではまだこのレベルなんだ。ならば逆に風穴を開けられるぞと。反発が多いことほど、ちょっとずつ良くしていくことは簡単だと僕は考えるので。
焦点を定めてからのファーストステップを教えて下さい。
杉谷:師匠とアシスタントという従来のシステムを取っ払い、全員が師匠でありリーダーでありアシスタントでもある稼動力の高いユニット制にしました。振付以外の仕事は一切やらずにまずは1年やってみようと。その年は仕事ゼロになるのではないかと想定していたら本当にゼロで(笑)。怖い世界だぁと実感しながらも同時に目算ができた。ならば次のステップでは、人員ではなく年齢層を広げようと。例えば、CMの振付の現場で、クライアントさんからよく “キャッチ―な感じで”とリクエストされますが、これほど曖昧な表現は無い(笑)。偶発的に色んな層の人が目にする一瞬のCMにおいて、どのシーンに心が動いて、印象に残るかは各年代で異なる。ならば自分たちのユニットに、10代から40代まで価値観が異なる各年代のメンバーを揃え、一つのテーマを多面的に突き詰めるスタンスを徹底しようと。各プロジェクトに対して、7人全員が等距離で共通の認識を持っているので、誰がどの現場に行っても対応できるわけです。
反骨精神や行動力は昔から人一倍だったのでしょうか?杉谷さんのバッググラウンドをぜひ伺いたいです。
杉谷:“アンチたがり”なのは昔からかもしれません。育ちは福岡の中洲で、小さい頃は剣道一筋。小学生の頃には西日本大会一位、全国大会三位となり、スポーツでも有名な福岡大学付属大濠高校から小学生にして推薦をもらうレベルで、本気でやっていました。県屈指の道場に通っていたのですが、熱心すぎる親御さん達と先生との関係、今でいうモンスターペアレンツにも通じることですが、「杉谷君がレギュラーになったからウチの子も」的な空気感が、どうにも許せなかったんですよね。小学5年の時に「そんなのスポーツじゃねぇ!」と演説をかまして道場を辞めてしまった。正論のつもりが暴論としかみなされず、上級生からは生意気だといじめの対象になり。出る杭は打たれるんだと痛切に感じました。でもあの時決別して良かった。あのまま続けていたら剣道が嫌いになっていたから。その体験が、今のダンス必修化に対する思いにもリンクするのですが、納得しないことがあるまま何かを押し付けられても子供の可能性は閉じてしまう。子供のふり幅を自分で判断できるように大人は仕向けないといけないんです。
ダンスへの開眼とは?
杉谷:剣道には真剣に励んでいましたが、練習はハンパなくきつかった。当時流行っていた洋楽を聴いてPVで衝撃を受けたダンスの完コピすることが気持ちの抜きどころだったんです。1972年生まれの僕にとって、小学高学年の頃は洋楽番組の全盛期。放課後も暮れた夜の教室にラジカセ持って友人らと集まって、当時から僕にとっての神だったマイケル・ジャクソンの『スリラー』とか、ダンスのコピーを飽きずにずっとやってましたね。
ダンサーを生業にしたいと考えたことは?
杉谷:いえ。ダンスは純粋に好きでHIPHOPなどありとあらゆるダンスに没頭しましたが、生業にするまでの勇気はなく、漠然と就職はしようかと。それと一度は真面目に勉学をと思い(笑)、京都にある立命館大学へ進学しました。ですが、僕が育ったのは福岡の中洲。「男祭りじゃっ」と旦那衆が燃える山笠あり、歓楽街あり、人間味溢れすぎる素敵な街(笑)。中洲カルチャーで育った僕にとって、京都の同級生たちは上品すぎて「遊ぼうゼ!」と誘われても違和感みたいな。サークル?それも違う。混乱しかけた時に演劇やっているヤツに誘われて、初めて大学を辞めない理由ができたというか。もし演劇に誘われなければ、大学を辞めて何者にもなれなかったような気がします。演劇とバイト、あとは読書にどっぷりと。大学3年にもなると周りが就職活動で忙しくなり、演劇活動も最後の公演となるわけですが、僕にとってはまだ始まりにしか過ぎず、「こんなに楽しいのに、みんな就職しないでよ」と焦りましたね。といっても就活するには時既に遅し。とりあえず東京行くかとあてもなく上京したんです。
何のツテもない東京で、どんなスタートを切ったのでしょう?
杉谷:新宿のレンタルビデオ屋でバイトをしながら、具体的にこの先どうしたもんかと考えていた時、俳優の布施博さんが主宰する劇団『東京ロックンパラダイス』の旗揚げメンバー募集を雑誌で見て訪ね、参画させてもらえることになったんです。脚本も書き、半分表・半分裏というスタンスで。ですが、自分のやりたい方向性が見え始めてきた時期でもあり、徐々に劇団側と僕との方向性がずれてきてしまい。若気の至りもあって、半ば喧嘩腰で数名のメンバーと抜けてしまったんです。そのメンバーと結成したのが“振付稼業air:man”の前身となる“演劇集団air:man”です。
演劇集団を主宰することは、相当ハイカロリーで莫大なパワーが要されると思うのですが。
杉谷:“やり方の見方を変えてみる”ことで、行き詰まりを回避できたのかも。演劇は芝居小屋で演るのが従来のやり方ですが、それだと公演を打つほど赤字になる。ならば、小屋代・音響・照明全てが座付きのライブハウスやクラブで興行してみようと。次に、ライブハウスやクラブに合うソフトって何だろう?と考えたらダンスだった。踊って、芝居を演やって、また踊って、というようにダンスで繋ぐショーのパッケージを作ってみたらお客さんが入るように。面白がって下さる方も増え、ラッキィ池田さんや香瑠鼓さんといった振付師の先輩方に出て頂いたり、サエキけんぞうさんに歌って頂き、ブレイク前のアンガールズさんがコントをしたりして。一つのジャンルでは括れないスタイルが少しずつ話題を呼び、テレビ番組のプロデューサーさんからも声がかかるようになるんです。
杉谷さんを中心に、超・個性的なメンバーが集結しています。
杉谷:現在コンテンポラリーダンサーとして世界的に活躍する森山開次も、彼がまだあんなにクネクネ踊っていない頃から(笑)、一緒に様々なことをやってきましたね。森山さんは、当時から表現したくて仕方がない欲求が全身から放出していて、熱量高いセルフプロデュースの達人。そして、加藤淳さんという自らを“身体表現者”と名乗り、彼しかできない表現を持つ車椅子のダンサー。彼らと共演し脚本を僕が書いた『本人との続柄』という舞台は、コンドルズの近藤良平さんや映画監督の石井克人さんが推薦文を下さったり、有難いことに多くの反響を頂いたんです。今でも映像として残っていないか問い合わせがあり、自分にとっても印象深い作品ですね。その舞台を観に来て、僕と一緒に何かをやりたいと直談判してくれたのが、ここにいる菊口。“振付稼業air:man”結成のきっかけとなるわけです。
菊口:舞台『本人との続柄』は、踊りなのに踊りだけじゃない。お芝居なのにお芝居だけじゃない。ナンセンスなのにリアルで、切ないのに笑える。カオスな世界観に衝撃を受けました。何より3人の存在自体が “ロック”でかっこよかった。私も振付師として格好良くありたいという強い衝動に駆られ、行動に移すきっかけになった、文字通り“運命を変えた作品”です。
ちなみに、杉谷さんにとっての“運命を変えた作品”とは?
杉谷:『ネコノトピアネコノマニア』という作品です。90年にNHKで放送され数々の賞を取ったドラマ作品で、今はビデオでしか観ることができないんですが、心に受けた衝動は今も鮮明。キャストは萩原健一さんや岸田今日子さんといった“そこにいるだけでいい”存在感の役者の方々。互いに心を寄り添いたいんだけど、寄り添えなくて。孤独なのに不思議な連帯感があって、コミュニケーションの本質に心を射抜かれました。新宿のビデオ屋でバイトをしていた頃、そこには、みうらじゅんさんや大槻ケンヂさんといった方がお客として来られ、サブカルチャーの発信基地のような場所だったのですが。当時はまだ浅野忠信さんの付き人だった俳優の加瀬亮さんもよく来てたんですね。加瀬さんにこの作品を貸したらハマって、最近もまた見直しているんだとか。特別ドラマティックな事件がおきるわけではないのにエンターテイメントの極みといえる作品です。