ON COME UP
#25 | May 9, 2017

白いシャツの制服女子のイラストがSNSで話題に。池田エライザなど多くのコラボで国内外から注目を浴びるデジタルアーティスト

Interview: HAMAO / Text: Yukiji Yokoyama / Photo: Atsuko Tanaka

未来に向かって躍動する人たちをインタビューする“ON COME UP”。第26回目のゲストは、制服女子の叙情的なイラストで人気を集めるデジタルアーティストのwatabokuさん。Twitter、Facebook、InstagramなどのSNS上でオリジナル作品を発表するほか、最近では、欅坂46、モデルの池田エライザや前田希美、アーティストの中嶋イッキュウ(tricot)、歌川菜穂(赤い公園)や多くの著名人、インフルエンサー、ファッションブランドとのコラボレーション企画も積極的に行い、話題をさらってきた。2016年12月には、ファースト・アートブック『感0(かんぜろ) 』がポニーキャニオンより発売。同月表参道ROCKETで開催された自身初の個展『きみ、あなた、おまえ』には6日間で700名以上が会場に詰めかけ、その人気は国内にとどまらず、今後は5月に上海、時期は未定だが台湾でも開催を視野に入れている。精力的にイラストを描き続けるwatabokuさんに、幼少期からの絵と音楽との関わりや制服の女性を描くきっかけ、初のアートブック、個展について話を聞いた。
PROFILE

デジタルアーティストwataboku

ノスタルジックな制服女子のイラストが印象的な日本人デジタルアーティスト。Twitter,Facebook,InstagramなどのSNS上で作品を発表し、発表する度に反響を集めている。最近ではオリジナルの作品に加え、モデルやアーティストとのコラボレーション企画も積極的に行い、国内外から注目を集めている。16年12月にファーストアートブック「感0(かんぜろ)」がポニーキャニオンより発売され、同月開催した自身初の個展には6日間で700名以上の動員を記録した。

wataboku

小さい頃はどんな子供でしたか?

絵を描くのが本当に好きな子供でしたね。友達に「これ描いて」「あれ描いて」とリクエストをもらって、描いた絵が実物と似ていると、みんなから褒められるのがすごく嬉しくて。ドラえもんやゴジラを描いていました。スポーツは得意でなく、成績はクラスの真ん中ぐらいでした。図画工作だけは成績が良かったですね。

中学、高校は、watabokuさんにとってどんな場所でしたか?

佐賀の鳥栖にある田舎のありふれた学校でしたが、中学も高校もかなり自由な校風でした。頭は丸坊主でしたが、生意気に3ピースのパンクバンドを結成していました。当時、パンク系のCDを貸してくれる友達がギターを弾けたので、僕がベースを担当して、ドラムに別の友達を加えてよく遊んでました。部活は美術部です。高校も卒業に近づくと、姉が美術系の大学に進学した影響で、僕も同じ進路を考えるようになりました。

お父様も絵を描くお仕事でしたよね?

父はもともと東京で漫画家をやっていまして、若い頃につげ義春さんで有名な漫画雑誌『ガロ』に作品が掲載された事もあったようです。つげさんの影響をすごく受けていたそうなので、父は嬉しかったんじゃないでしょうか。漫画家を辞めた後は、東京で結婚した母と一緒に、佐賀で実家の旅館を継ぎました。父は厳しかったですが、僕が絵を描くことに関してはとても寛容で、むしろ「どんどんやれ」という人でした。でも父から教わったことはなく、絵はほとんど独学です。亡くなった後に知りましたが、父はとても不思議な人で、寺山修司さんのエッセイにも登場していました。

父と。2歳の頃

大学はどちらですか? 無事、美術系に進まれましたか?

九州産業大学芸術学部デザイン学科に進みました。

大学ではプロダクトデザイン専攻だったそうですが、なぜ勉強しようと思ったのですか?

実は僕もやるつもりはなかったんです。大学3年になると専攻ごとに分かれるのですが、希望したビジュアルデザインが定員オーバーで、1、2年のプロダクトデザインの成績が良かったこともあり、プロダクトデザインコースに振り分けられました。

プロダクトデザインの勉強で、今の仕事に役立っていることはありますか?

デザインをする上での考え方は、プロダクトの勉強を通して培われました。大学では車のデザインを勉強していたのですが、インターンシップ時代に聞いた「河童が乗る車のデザイン」という話がとても印象的でした。河童のような条件の厳しい生き物が乗る車ですと、シートは必然的に甲羅に合わせて丸みを帯びたものになりますし、ハンドルは水かきがあっても握りやすい作りにしますし、お皿が割れないようにルーフは高くすると思います。そのデザインが使う相手に見合った美しいラインで出来ているのか、相手にとって実用的なのか。デザインに落とし込む際の基礎を学びました。また、プロダクトデザインを勉強することで、デジタルスケッチをする機会が増えたと思います。僕が大学生の時は、レンダリングを行うツールがアナログからデジタルに変わっていく時期でした。今使っているソフトの使い方は、この時期に覚えました。

卒業後はどうされていたのですか? デザイン系のお仕事ですか?

全然違うんですよ。地元の食品メーカーに就職しました。高校時代から続けていたバンド活動が動き出しそうだったので、地元のメーカーに決めたんです。

デジタルアートに出会ったのはいつ頃ですか? 出会ったきっかけを教えてください。

大学時代から自分の作品も描いてはいたのですが、その時はまだシャーペンなどのアナログツールで描いていて、プロダクトを通して学んだデジタルツールと組み合わせて何か新しい作品が出来ないかなと考えていました。社会人になってから自宅にペンタブレットを買って、自分が目指す方向の作品を作り始めていました。

大学時代の作品

どんな題材の絵を描いていたのですか?

女性が多かったですね。ある時、アメリカ在住で同世代のwakkawa(ワッカワ)さんというアーティストをネット上で見つけて、彼の作風をすごくいいなと思って。僕と同じデジタルツールを使ってイラストの勉強をしたようなのですが、僕とは使い方が全然違って、絵がめちゃくちゃ立体的なんです。wakkawaさんが西洋風の美人を描いていたので、その影響で自然と女性を描くようになりましたね。

制服を着た女の子は佐賀にいた時から描いていたのですか?

食品メーカーは3年勤めていたのですが、会社を辞める時期ぐらいから制服の女の子を描き始めました。会社の場所がものすごく田舎にあって、正直やることが何もないので、まっすぐ家に帰ってきて、夜の8時ぐらいから描いて、ネット上の「deviantART(デヴィアントアート)」という世界で一番大きいオンラインアートコミュニティーに絵をアップロードしていました。アップをして夜の12時頃に寝て、翌朝自分の絵を何人見てくれたか確かめるんです。最初は閲覧が10人ぐらいでしたが、会社を退社して上京する直前ぐらいになると、一晩で150~200人ぐらいの人が見てくれるようになりました。

社会人時代の作品

実際に制服を着た女の子を作品の主軸にすると決めたのはいつからですか?

上京してからです。今、在籍しているトリプル・オー(*)という会社に勤めて1年ぐらい経った時に、女の子を白いシャツを着た姿で描いてみると、清潔感や凛とした感じが出てきて、直感的に「これだな!」とひらめきました。今までは西洋風の美人を描いていたのですが、よく考えてみると、自分の経験からかなり遠い人種だったので、作品にもリアリティーが生まれなかったのだと思います。日本人女性の制服姿を描くことで作品を自分自身に近づけることが出来ました。
※トリプル・オー=映像・写真・プロダクトデザイン・グラフィックデザインまで幅広く活動するクリエイティブプロダクション。

上京した理由は?

家庭の事情もあって九州の会社で働いていたのですが、家のいろいろなしがらみがなくなって、「今しかない」という想いで、仕事も決まっていませんでしたがとりあえず上京しました。それに、僕は父が漫画家として働いていた東京で仕事がしたいともともと考えていましたし、音楽やデザインなどを絡ませながら仕事ができるのは地元ではないと思っていたんです。

東京での仕事はどのように見つけたのですか?

最初は、大学の同級生が働いている映像制作会社に1ヶ月ぐらいお世話になりました。ただ、お手伝いする中で自分のやりたいこととはなんとなく違うなと思っていて、同時期にトリプル・オーに連絡をしてみたら、とりあえず3ヶ月働くことになり、現在に至ります。トリプル・オーは九州にいた時から知っていましたし、当時はPerfumeをはじめとしたミュージックビデオやジャケットを作っている会社として認識していて、作品のクオリティーがものすごく高かったので、ここで現場の裏側をもっと知りたいと思っていました。映像やグラフィックを両立させている点も魅力でした。

お勤めのトリプル・オーでは、初めは映像の制作に携わっていたんですよね?

映像の現場をお手伝いしていた時期は、絵のことはすっかり忘れてしまうほど忙しかったのですが、しばらくしてデザインチームに異動となって昔の自分の作品を見返してみると、粗さが明らかに見えるようになっていました。映像やグラフィックの現場では、美しい作品を作り上げるために、大勢の人が細部に渡ってものづくりをしていて、その過程が強烈にインプットされたので、ものの見方が変わったと言いますか。トリプル・オーで働いていなければ、今の作風は生まれなかったと思います。

watabokuさんの名前の由来を教えてください。

環境によって一人称を変えて使っていたのが理由です。会社だと“わたし”、絵を描く時は“ぼく”、バンドをやる時は“おれ”。その3つを合わせて「わたし、ぼく、おれ」というアーティスト名でしばらくやっていたのですが、上京する際にバンドを辞めると“おれ”と言う機会がなくなったので、“wataboku”になりました。

ご本人のお顔は隠していらっしゃいますよね。

キレイな女性の顔を描くせいか、スラッと背の高い細身の女性を想像されることが多いので、あまり自分は表に出ないほうがいいと思っています(笑)。

ちなみに今、おいくつですか?

30歳です。今年で31歳になります。

watabokuさんが描く女性のイラストは繊細さと透明感、また独特の色彩感があります。イラストを描くにあたって、大事にしていることはありますか?

なるべく絵に人間味を残せるようにしています。人間の顔は左右非対称なので、自分が絵を描く時も敢えてちょっとずらしたりしています。あと、顔以外の服などのディテールをかなり簡素化して、顔に目がいくようにしています。そういった部分では、僕の地元出身で画家の田代敏朗さんの作品に影響を受けているところがあると思います。一枚の絵の中で、写実的な描写と、それと対照的な子どもが描いたような線を同居させる作家さんで、今は少し作風が変わられていますが、そういうアンバランスなところが好きなんです。

子どもが描いた線と写実的な描写を同居させるというのは、浅野いにおさんの漫画『おやすみプンプン』みたいな作風ですか? 実はwatabokuさんの絵を見て、浅野さんの作品を連想することもあったんです。

作風とは違うと思いますが、浅野さんは漫画にもCGを使ったり、「良い技法があったら、取り入れる」というスタイルなので好きですね。海外だと「deviantART(デヴィアントアート)」に絵をアップする人は、自分のことをイラストレーターではなく、デジタルアーティストと名乗る方が多くいらっしゃいます。それは何故かというと、実際に絵を描くことにあまり執着していないからだと思うんです。日本では、手で描くことを重要視している方が多いと思うのですが、良いものを作るためにいろいろな技法を踏襲できるのが、デジタルの強みだと思います。

たしかにデジタルアーティストという肩書は、日本ではあまり耳馴染みがないですよね。

そうですね。あと、僕の考え方がイラストレーターよりもデザイナーに近いというのも関係していますね。

ちなみに、watabokuさんのイラストのスタイルを言葉で言い表すなら、どんなスタイルですか?

記号性。個人的な思い入れや意味を作品に極力反映しないように心がけています。作品タイトルは日常で感じた言葉を日々メモしていて、そこに書かれた言葉がマッチングする絵に対してだけ付けています。例えば記号は、国や人種に関係なく使われるものですよね。ああいった見る人を選ばない共通言語のようなものが自分の目指す作品の姿なのかもしれません。

初のアートブック『感0(かんぜろ) 』の発売までの経緯を教えてください。

2年ほど前に女の子の気持ちを詩的な言葉でつぶやく「少女ナイフ」(現:白い文)さんとご一緒したのがきっかけで、僕の作品が爆発的に拡散されたんです。少女ナイフさんの詩から連想したビジュアルを作り、それをTwitterで発信する企画でした。少女ナイフさんは当時でフォロワーが数十万人でしたので、海外のファンだけでなく日本のフォロワーでも知られるきっかけになりました。その企画を見た現在のエージェントからお声がけいただき、オリジナル作品と並行して特定の女性を描くコラボ企画をその方と一緒に進め、作品を貯めていきました。そして、活動を始めて1年半ぐらいで『感0(かんぜろ) 』が出せることになりました。

『感0』より。左から順に「窒息」「感染」「夏の朝に冬の夜を想う」

SNSで拡散されるために、絵で気をつけたことはありますか?

SNSで拡散させるには、まずはパッと一目で認識できるくらい絵に強烈なインパクトがなくてはいけません。一つひとつの絵を見るには、SNSからわざわざ開く一手間をかけさせるので、小さなサムネイルでも印象に残るよう必然的に瞳はカメラ目線で、寄りの絵が多くなりました。

特に目の描き方は印象的ですよね。

トリプル・オーで仕事をしてから、目の描き方が変わったと思います。写真のレタッチをすることもあるのですが、俳優さんのお写真にレタッチをする際、目の中に敢えて光を入れて効果を出したりすることがあります。その時のデザイン作業の影響で、無意識に絵に取り込まれているのかもしれないですね。

『感0』で池田エライザさんを描き下ろしていますが、モデルの対象となる人が数多くいる中、なぜ池田さんを選んだのですか?

出版にあたり、新しくモデルさんとのコラボレーション企画が挙がったのですが、真っ先に思い浮かんだのが池田さんでした。ぼくのりりっくのぼうよみのミュージックビデオで目にしたのがきっかけで知り、作品で拝見するたびに違った表情が見えていてとても魅力的だったのでオファーさせていただきました。また、自分が普段描いている作品の顔立ちとは大きく離れていたので、仕上がりのイメージが全く想像できない点に興味がありました。

「池田エライザ」

実際に池田さんにお会いしてから描かれたのですか?

他のモデルさんもそうなのですが、最初に目に入ってきた時点での印象を大事にしていて、実際にお会いすると自分の客観的な視点が奪われそうになるので、制作に取り掛かる前はなるべく会わないようにしています。ですので、作品は写真や映像など色んな角度から見ながら印象に近づけていく作業になります。単純に顔のパーツの大きさや位置を本人に近づければ似ていくのですが、仕上がりが味気ない結果になることが多いので、その人のイメージを残せるよう、とにかく多く資料を見ています。

初の個展『きみ、あなた、おまえ』は、どんな手応えを感じましたか?

昨年12月の表参道での個展は、想像以上に多くの人に来ていただいて、本当に良いスタートが切れました。初めて作品を海外のサイトにアップしてから約7年経って、本や個展という形になったことで、その間僕を見てくださった方が大勢いらっしゃったと実感できましたね。そういう意味で、個展の反響は大きかったです。

表参道での個展の模様

好きな音楽や映画、アート、本などで一番影響を受けたものは?

eastern youthです。僕が中学の時にバンドを始めるきっかけで、2001年の「RISING SUN ROCK FESTIVAL」に彼らが出演したライブ映像を見た時に、ものすごくパッションを感じて「なんだ、この人たちは!」って衝撃を受けました。それ以降ずっとファンです。

ちなみにwatabokuさんが今一番気になる女性は誰ですか?

佐生雪さんです。インドネシアのファンから教えていただいたのですが、現地のポカリスエットのCMで広く認知されたようでとても気になっています。インドネシアは世界で3番目に人口が多く、若者も多いエネルギッシュな国なので、そういった国で日本人女性が指示されるのはとても嬉しい事だと思います。

社会で起こっていることで、気になることは何ですか?

僕が小中学校の時に抱いていた日本の社会のイメージと、今は本当に変わってきたと思います。自分が子供の頃なら考えられないことが起きるのかなと。また、自分のフォロワーには台湾、タイ、インドネシアをはじめアジア圏の人が多いので、アジアの社会情勢は気になります。でも、言葉や情勢などに関係なく、僕は美しいと思う気持ちは世界中の人が等しく持っていると思うんですよね。僕自身は作品に社会的な意味は込めないようにしていますが、今後は絵で自分に出来ることが何なのかを注視していきたいと思います。

他人が思う自分の像と、実際の自分自身との差があると感じる部分を教えてください。

人からはおとなしいやつだと思われていると思います。でも心の中の熱は意外にあると思います。

憧れの人はどんな方がいますか?

今在籍している会社と最初に連絡を取るきっかけとなった上司の関和亮と代表の永石です。あと、僕が学生だった時に活動していたアートディレクターの先輩の方々は、皆、尊敬しています。

何か彼らに共通していることはありますか?

作品が常に最先端というイメージがします。いい意味で日本らしくない、外国っぽい。それが当時のトレンドだったのかもしれないですが。

watabokuさんにとって、成功とは何ですか?

成功して慢心すると、地位や名誉もなくなる気がします。段階的な成功はあると思いますが、継続する成功はないのかもしれませんね。ひとつ達成すると、次の課題がまたあって。それが死ぬまでずっとループしていくものだと思います。

3年後、5年後、10年後の自分はどうなっていると思いますか? どうしたらそのようになれると思いますか?

今年はひとまず自分の目標である外国での個展をやるのですが、アジア圏を中心に個展を3年、5年と続けると、具体的に出来ることも増えていくと思います。10年後は、もともと映像をやりたくてトリプル・オーに入ったので、イラストだけではなく、アートディレクションとかもきちんとやれるようになりたいです。

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